オレは真顔で嘘をつく
レオナルドとテオバルトの話。
目の前で、手元の封書をただ眺めては何度も何度も溜め息をつく友の姿にいい加減腹が立って。
オレは、バンと一つ大きく机を叩くと、腰を浮かせて怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、テオっ。お前一体何日そうしているつもりだ!! 仕事をしないのならいっそ帰れ!!」
「レオ!! 傷ついているテオになんてことをっ……彼の気持ちが判らないのか!?」
「判りません!!」
「君に人の心はないのか!!」
「なくて結構!! 今ここに必要なのは、この書類を片付けてくれる人間であって、怠惰な同僚ではありません!!」
そんな酷いことを言うなよ……と眉を下げる上司は、元同級生で親友の第三王子コーネリアス殿下。
ここは殿下の執務室。
オレたちは現在仕事中なのに、殿下と同じく元同級生で同僚のテオバルトは、手元の書類を片付けることもなく、今日もまた朝から愁いを帯びた表情で溜め息をついているだけ……。
もう給料泥棒と怒っても問題ないと判断したのに、殿下は必死に彼を庇う。無視して、早く帰れとテオに向かって顎をしゃくった。
「……ああ、そうする。殿下すみません」
ずっと目線は封筒に落としたまま、小さく呟いたテオバルトは本当に帰って行った。
パタンと閉じる扉を見つめて、オレがふんと鼻息荒く腕組みするのと、殿下が大きく溜め息をついたのは同時だった。
「レオ、テオは傷心なんだ、優しくしてやってくれ」
「そう仰いますが、あれが来てから何日経ったか判りますか? 一週間ですよ、一週間!! こんなに待たせたら、あちらも返事を諦めますよ」
「そうは言ってもなぁ」
「そもそも、そんなに憂鬱ならさっさと欠席の返事を出せばいい。そうすれば、今こんなに必死に仕事をする必要もない」
オレたちが今大量の書類と戦う羽目になっているのはテオバルトの手にあった封書が原因だ。
あれは、テオバルト宛ての結婚式の招待状。
差出人は、オレもよく知る伯爵令嬢エリザ。
……つまり、エリザ嬢とウィリアルドの結婚式の招待状、だ。
当然オレにも同じものが弟から送られてきた。
ウィリアルドからの手紙で二人のその後を知ってはいたが、結婚式の招待状が届いたときには天にも昇る気持ちで、また溢れる涙を押さえることが出来なかった。
忙しいとは思うが家族として是非出席して欲しいと綴られた文章に、行くとも!! と声を出して応えてしまうくらいには、楽しみにしている。
だから、オレたちは今、大量の書類仕事に追われている。
オレは長年の恋を実らせた弟の門出を見届けに、絶対に駆けつけるつもりだ。
しかし、テオバルトにも同じものがエリザ嬢から届いた。
もし、テオバルトも招待を受けるなら、執務を補佐する側近二人が同時に長期間殿下のそばを離れてしまうことになる。その間執務に滞りが出ないよう、片付けられるものは先んじて片付け、絶対に休みを確保しようと必死になっているのに……テオバルトが役に立たない。
そればかりかあいつは、未だ出欠も決めず、ただ招待状を眺めて溜め息ばかりついているのだ。
複雑な気持ちもあったし、最初はオレも殿下と一緒に見守っていた。しかし、そうしている間にも時間は過ぎる。
あいつの苦悩が判らないわけではないが、オレは兄として弟の幸せの結末を、なんとしても見届けたい。
それだけは譲れない。
だから、どうするにしろ、とにかく仕事はして欲しいと願って何が悪い?
何も間違ったことは言ってませんと、胸を張って再び書類に向かうオレの横で、殿下がもう一度大きな溜め息をついた。
◆◆◆◆◆
コーネリアス殿下と書類を届けがてら、休憩に外の空気を吸おうと庭園へ出たところで、その片隅にいてはいけない男の姿を見つけ、目を見開く。
昼前に帰ったはずのテオバルトがまだ、そこにいた。
木陰に作られた石造りの長椅子に座って、落ち込みを表すように肩を下げている手には、相変わらず招待状を持っている。そしてまだ難しい顔で何度も溜め息をついているのが、遠目にも判った。
まさかあれから帰らずにずっとここに?
思った瞬間、ぐいっと腕を引かれる。
「レオ、待て落ち着けっ」
「待ちませんっ」
殿下を振り切ってテオバルトに駆け寄った。
目の前に立ったオレに気付いてのろのろ顔を上げる仕草までもう不愉快だ。見上げてくる無駄に良い造形の顔が、愁いを帯びて益々格好良く見えるのが心底疎ましい。
こんな目立つ顔をして、人通りのある王宮の庭園で、昼間っから堂々とサボっていたら格好の噂の的だろうが!! そんなことも判らなくなっているのかこいつは!!
カッとなって胸ぐらを掴み上げる。
「貴様、殿下のお気遣いで早退しておいてこんなところで油を売っているなど、殿下の顔にも泥を塗るつもりか! 鬱々したいならとっとと家にっ……」
「わー!! 待て待てっ、判った、僕が悪かった! この話は、今この場でケリをつけようっ。だからレオ、どうどう……」
後を追ってきた殿下に引き離され落ち着くように言われる。
「……テオ、言いたいことがあるなら今全部言いな。僕も聞くから」
殿下に促され、オレを見上げていたテオバルトはそっと腰をずらすと、オレと殿下に座る場所を作った。
テオバルト、殿下、オレの並びで少し狭い椅子に肩を並べて座る。そして殿下はオレに向けて、人差し指を口に当てる仕草で静かにと指示する。釈然としないまま殿下越しに窺ったテオバルトは、また封筒に目を落とし、唸るように呟いた。
「いきなり結婚なんて……急ぎすぎだと思うんです」
「いきなりではないよ、二人は十年近く婚約していた」
「けど、彼女が病気になった途端婚約を解消した」
「それは彼らの意思じゃない、家の判断だろう」
「だとしても、その後もずっと彼女を放置していた。それなのに今更っ……」
「それが君の不満?」
「……はい」
「君は、エリザ嬢が領地に帰った後、婚約を申し込み、断られてからも何度もお見舞いに領地まで通っていたしね」
「ええ、ずっとオレが支えてきた。なのに……」
今更っ……吐き捨てるように言われる。
堪らなくなってつい声が出た。
「テオ、お前はオレに喧嘩を売っているのか? お前が今非難している人間はオレの大切な、たった一人の弟のことだ。弟を侮辱するなら、お前がオレの友人で、殿下の忠実な臣下でも、オレは許さない」
彼にとってエリザ嬢は好きな女で、ウィリアルドは彼女を捨てた男なのだろう。
でも彼らにあった葛藤を何も知らずに、勝手に非難されるのは我慢ならない。
「確かに婚約解消後ウィルはエリザ嬢との関わりを断っていた。だがそれは、病気の彼女の負担にならないためだ」
「それがそもそも間違っているっ。婚約者だろう? そういったときこそそばにいて支えるものじゃないか!!」
「そうか、ならお前ならどうしたというんだ? 親の決定に逆らって、その後は? まさか学院も卒業せずに家を飛び出す? 病気の彼女の家に押しかけて、好きだ愛していると言って伯爵領に居座る? 何も持たない出来もしない子どもが? そんなのただの自己満足で、あちらにも迷惑だろうな」
「それはっ……」
「ただ公爵の息子と言うだけの、成人前の子どもに何が出来たとお前は言うんだ?」
「だが、どんなに言葉を取り繕っても、結局は、病気の彼女を見捨てたのに変わりはないだろう!? 本当に彼女を想っていたなら婚約を解消せずに支える方法もあったんじゃないか!?」
「病を理由にあちらから解消を願われたんだ。婚約の継続は無理だった」
「はっ、お前の家は公爵家なのに?」
「公爵家の息子だからだ。家の意向で結ばれた契約に子どもの意見など反映されない」
「それは王家も一緒、権威があるからこそ自由気ままには振る舞えない。僕に婚約者が決まらないのも同じ理由だ」
判るだろう? とテオにも判る事例を示して、高位貴族だからこその柵を伝えても、彼の顔の苦渋は消えない。納得していないのは明らかだった。
それが悔しい。
弟は彼女を見捨てたわけじゃない。
寧ろあの件で、ウィリアルドは彼女以外のすべてを捨てる決意をしたのだ。
ウィリアルドのエリザ嬢への想い。
確かにオレやゴードンも後押しをした。
けれど実際に想いを貫くことを決めて努力したのはウィリアルド自身だ。
ウィリアルドの決意も努力も知らないくせに……。
「ウィリアルドはウィリアルドなりに考えて行動した、そしてエリザ嬢は信じて待った。……最初からお前の入る隙間はなかったんだ」
「……黙れっ!!」
怒声と共に伸びてくるテオバルトの手を、殿下が止める。
「そこまでだ、二人とも!! レオっ、テオだって頭じゃ判ってるんだ。ただ、すべてを認めるのには時間がかかるものだろう? ……だからわざわざ追い詰めるな」
テオバルトを制しながら言う殿下は、いつもテオバルトではなくオレを説得してくる。この件に関しては、オレにばかり我慢しろという。
どうしてオレばかり……思った不満がつい口から出た。
「殿下はいつもテオの味方をなさる。……私はそれも腹立たしい」
「レオ……」
「私は何度も言いましたよね。エリザ嬢の心は決まっている、無駄なことはさせないようにと」
「じゃあ君は、逆の立場の時弟に同じことが言える? 言えないだろう? 端から見てどんなに望みがなくても、本人がやりたいと言っているんだ、納得するまで好きにさせてやりたい気持ちは判るんじゃない?」
でもテオは結局こうなっても納得などしていないじゃないか。
不満に尖りそうになった唇を慌てて引き締める。
「幸い僕には、テオに自由をあげる権力があった。友として、テオが悔いを残さないよう最後まで応援したかったのは確かに僕の勝手だったけれど、君の弟には君がいるのに、テオに味方が一人もいないのはフェアじゃない」
なんだその理論は。
「では今後は、殿下の努力の及ぶ範囲でお願いします」
「と言うと?」
「貴方がテオに協力するために、どれだけ私に負担があったと思っているんですか」
「ああ……だってレオもテオも僕の範囲内だから」
さも当然という顔をしてにっこり笑う人の顔には、権力者特有の傲慢さが滲んでいた。しかし、それが共に過ごした時間によって育まれた信頼の裏返しであることも、オレは知っている。
今認められている殿下の能力は、オレ達を含めてのもの……と全幅の信頼を寄せて言われて、嬉しくないわけがない。
手放しで褒められて奇妙に顔を歪めることしか出来ないオレの肩を叩いた殿下は、だから……と続けた。
「今度は君は弟のところでゆっくりしてくれば良い。テオもそう思うだろ? ……返事、早く書かないとあちらも困ってしまうよ」
ぽんとテオバルトの肩を叩いた殿下は、この話はこれで終わりというように、また明日ねと声をかけて、オレにもそのまま戻るよう促した。
◆◆◆◆◆
次の日の朝。
いつも通り殿下の執務室に向かうと、既にテオバルトがいて、自分の机で書類仕事をしていた。
びっくりして一瞬動きが止まる。
オレの入室に気付いた彼が顔を上げ、ややぎこちなくおはようと挨拶された。
「おはよう。……やっと仕事する気になったのか」
「ああ。長く迷惑をかけてすまなかった」
「本当にな。殿下にもしっかり感謝しておけよ」
話しながら何気ない動作で、自分の執務机に向かう。席に着く前に、机の上に見慣れないものが乗っているのに気付いた。
「……昨日、欠席の返事を早馬で出した」
「そうか」
「悪いが、祝いの品だけお前が届けてくれるか?」
「判った。……ところでこれはなんだ?」
机の上にドンと乗っているリボンがかけられた平べったい箱。昨日帰るときにはなかったから、これを用意したのはテオバルトなのだろうと思って聞く。
「詫びの印だ。エリザ嬢の好物のクッキーでな、旨いぞ。オレも気に入っている。王都の菓子屋でしか売ってないから、それを持って行くといつも喜んでくれた」
オレが箱を持ち上げるとテオバルトは書き物をしていた手を止めて、懐かしむように目を細めて言う。
今回の件の詫びとして選ぶのが、彼女との思い出の品というのはどうなんだろう。……まあものに罪はないから、ありがたくもらっておくが。
礼を言ってクッキーの箱を脇によけ、改めて席に着いて、オレも仕事に手を着けようとしたところで再びテオバルトの声がした。
「最初に言われたんだ、信じて待ってる人がいるから、オレの求婚は受け入れられないって。その相手がお前の弟なのも、ちゃんと聞かされた。
でもオレは、目の前にあるオレっていう幸せを諦めて、いつ来るかも判らない相手を待つなんて馬鹿らしいと思ってた。正直、待ってる時間なんて、彼女にはもう、ないだろうって……。
そういう傲慢さが態度に出てたんだろうな。彼を信じて待つと決めたのは私の意思、私の幸せを勝手に決めないでって怒られて、改めて惚れた。病気で死にそうになってるって聞いてたのに、痩せ細って凄く弱々しく見えたのに……、昔オレに非常識だって言ったときと変わらないままの芯の強さがあって、ああやっぱり彼女が好きだって思った。どうしても諦めきれなかった」
そのときのことを思い出すように切なく綴られた言葉が、きゅっと胸を刺して、痛みに思わず胸元を押さえる。
「オレの方が彼女を好きだって証明出来たら、こっちを見てくれるんじゃないかって思った。……だってさ、お前には悪いけど、お前の弟の評判、あんまり良くなかっただろう?」
「……まあな」
「だからオレは……」
「テオ、何事も表に出ているものだけが真実じゃない。……貴族の世界のそういう駆け引き、殿下にお仕えするならお前ももっと学んだ方が良い」
「……あの二人の態度にもそういう意味があったのか?」
「ああ」
嘘だ。
あの二人の間に、貴族の駆け引きなんてなかった。
でも、真実の姿じゃなかったのは、事実だ。
ウィリアルドとエリザ嬢はちゃんと想い合っていた。
けれど、何故かそれ素直に表すことがウィリアルドには出来なかった。
だから、何も知らない誰かが、悪意なく囁いた。
ウィリアルドとエリザの婚約は政略で、だから二人は不仲なのだと。
正直オレもそれを信じていた時期があった。事実、時折見聞きする二人の姿が、決して良好な婚約者のそれではなかったから……。
婚約者なのに学院ではなるべく顔を合わせないようにしていて、すれ違っても殆ど目も合わせない。時折言葉を交わせば、ウィリアルドは嫌悪感をむき出しにエリザ嬢を貶め貶すようなことばかり言う。
それが、何も知らぬ他人が見る二人の姿。
一場面を、断片だけを目撃した人の印象は悪いものばかりだった。
二人をよく知る友人たちが誤解を解いてくれても、それよりずっと早く広く、醜聞は広まる。だから、学院内では常に二人について対極の噂が囁かれていた。それが意図せず急速に、テオバルトとエリザ嬢が恋仲であるという噂が広まった原因だと思う。
ついにエリザがウィリアルドに愛想を尽かしたらしい。
新しいお相手は、王子殿下の側近候補のテオバルト。
各々二人を見て思うことがあったのか……それとも、それこそ、ゴードンの言っていた強制力の効果なのか……瞬く間に噂は広まって、オレの耳にも届いた。
そしてオレは、初めて自分から弟に会いに行ったんだ。
◆◆◆◆◆
異母弟の存在を知ったのはいくつの時だっただろう?
公爵家の長男として生まれ、周囲から惜しみない愛情を受けて育ったと自負している。大きな屋敷でたくさんの使用人にかしずかれて何不自由なく育ち、大抵の望みが叶った幼少期。
たった一つ叶わなかったのが、兄弟が欲しいという望みだった。
幼い頃は無邪気に、その望みを父母に訴えていた。しかし、それを口にする度二人の間に流れる微妙な空気感にいつの日か気付いて……自分では普通にしていたつもりだったが、相当におかしな様子だったのだろう。
ある日母親から、大切な話として別館に住む<異母弟>の話を聞かされた。
母親の違う弟というのがどういう意味なのか、まだ詳しく判る頃ではなかったと思う。話し終えた後、オレを膝に抱き上げた母は言った。
『ごめんなさい、レオ。貴方にとっては弟でも、私にとってあの子は……私の日常を壊した泥棒猫の子。無条件に優しくすることは、出来ない。でも……親だからと言って、貴方が抱く感情を支配することもしたくない。……本当に、私は、どうしたら良いのかしらね』
オレに聞かせると言うよりは独り言のような母の呟き。
泣いてはいなかった。
でも言葉に滲むのはどうしようもない悲哀で……。
そのとき悟った。
異母弟についてこれ以上探れば大切な母が悲しむ。
以後オレは、兄弟が欲しいとねだることをやめて、弟について詳しく聞くこともしなかった。
やがて時を経て、異母弟という言葉の意味を知り、そりゃ許せないよな……と母の気持ちを理解した。
後に母は、夫の不貞の証を優しく慈しむことなど到底出来ないが、さりとて、心底憎みきることもまた、出来なかったのだと教えてくれた。
弟の母は、夫を奪った女と憎悪するには、か弱すぎる女性だったという。
若い主人から突然伽を望まれ困惑しても、年若い彼女は躱す術も拒む術も知らなかったそうだ。当然女主人に取って代わろうという欲などなく。一度の過ちにただ罪悪感を募らせて……やがて子が出来たことを知り、母に訴え出たときの彼女は、心労で同じ妊婦などと信じられない程痩せ細っていたという。
それを見て、彼女と腹の子を心底憎むことは出来なかった。
代わりに、土下座して罪を告白し、罰を請うた彼女とは真逆の態度で、ただ狼狽え、たった一度の過ちだ、許してくれ、愛してる、別れたくないと縋り付く夫は酷く厭わしかったそうだ。
公爵家の当主として、平然としらを切り通す面の皮もないくせに、衝動で若い娘の未来を潰したばかりか、身重の妻にその尻拭いをさせようとする姑息さに、一瞬で愛も情も途切れたと語った。
『もし貴方がお腹にいなかったら、私は迷わず離縁を選んでいたわ』
クスクス笑って言う母に悲壮感はなく、ただ女主人としての余裕だけがあった。
『でも私には守るべき唯一があった。貴方の存在が私を奮い立たせた』
その結果が、書類上は実弟となっている、異母弟の存在。
『本当に貴方を思うなら、始末してしまう方が後腐れなくて良かったのでしょうね。ただ……猫の子でも、命は命。あの頃はまだ、容易く切り捨てられる程冷酷にはなりきれてなかった』
そう言った母は、当時も何度もそうしていたのだろう。今は薄い腹を撫でて、唇を噛んだ。
苦渋の決断の果てに生きながらえさせた不貞の子。しかし、母はその存在を手放しで受け入れることは出来ず。結局、養育の全権を信頼するゴードン夫妻に与え育てさせた。
家族から爪弾きにされて育つウィリアルドに申し訳ない気持ちはあっても、寄り添うことは出来なかったと母は言った。
オレも、異母弟の存在が母を傷つけると判っていたから、長く進んであいつと関わることはしなかった。
その異母弟に初めて自ら会いに行った日。
猫の子と言われて驚いたウィリアルドを見て、初めて、あいつが何も知らないことを知り、愕然とした。
オレは勝手に、ウィリアルドも当然すべてを知っているのだと思っていて。
だから関わってこないのだと、勝手に納得していて。
当たり前だと思っていた心の距離は、こちらの一方的な思い込みによって発生していたと知ったときの衝撃は、立つ力さえ失わせた。
どうしてオレは、ずっと弟を放っていたのだろう?
母は、あの日、オレの感情を支配することまではしたくないと言っていたじゃないか。
あれは、弟に抱く、オレの感情のことだ。
オレはウィリアルドをどう思ってる?
……迷いなく弟だと思ってる。
そう思えるように母が育ててくれたのだ。
確かに、実母を思いやる感情は美しいだろう。だが、それによって実の兄弟が憎み合うことを、母は望まなかった。
オレが自分で判断出来る日が来るまで、異母弟に対して負の先入観を与えないために、母はあえてウィリアルドに無関心を貫いていたのかも知れない。
導いてくれた母の想い。
異母弟に対するオレの想い。
感じて抱きしめた途端、激しい後悔に涙が零れて、ゴードンに縋ったオレは無意識に繰り返していた。
『何があろうと弟の味方でいる。絶対にウィリアルドを裏切ったりしない』
零したオレの言葉を信じて、ゴードンはあの話を打ち明ける相手にオレを選んだ。
ウィリアルドのために躊躇わず跪き、希うゴードンの姿を見たとき、話の内容はさておき、とても嬉しかった。
ああ、ウィリアルドにもちゃんといたのだ。
こんなにも彼を想い愛する人が、そばに。
嬉しかったし、安心した。
だからゴードンの言葉がどんなに荒唐無稽でも、迷わず信じた。
この地上の誰よりウィリアルドを想う人間が言うのだ。
オレの弟のために必死になってくれる唯一の人を信じないなんて選択肢、オレの中には存在しなかった。
ゴードンの見た未来では、エリザ嬢と結ばれるのはテオバルトだったそうだ。
それを聞いても、オレは未来を違えることに同意した。
弟に、ウィリアルドに幸せになって欲しかったから。
ゴードンと共謀して、運命を騙した。
……といっても、オレが担ったのは、テオバルトの動きを見張ることと、ウィリアルドをすんなりと家から出すため、父に余計なことをさせないことだけ。
オレ達の父は公爵という地位にあって、国の中枢を担う重臣の一人ではあるけれど……幸いなことに、悪辣な人間ではない。
ただ、どうしようもない程、根っからの<貴族>なのだ。
父にとって、貴族という特権を失うことは死にも等しいこと。そして、貴族ならば皆同じ考えを持っていると当然のように思い込んでいる。
だから、エリザ嬢との婚約がなくなれば、父はすぐさままたウィリアルドに縁談を用意しようとするだろう。
己の過ちで生み出してしまったのに、妻が怖くて親子の触れ合いも出来まま手放すしかなかった息子に唯一してやれることが、よりよい家に婿入りさせ、この先も貴族としての特権を失うことなく生きさせてやることだと信じて、父はウィリアルドの意思を無視する。
それをなんとしてでも止めてくれとゴードンに言われ、哀しいが納得してしまった。
父はウィリアルドがどんなに真剣に、貴族の身分より、エリザ嬢への想いが大切だと訴えても、きっとまったく信じない。
寧ろ、婚外子として引け目を感じたウィリアルドが遠慮していると思い込み。ありもしない子心を妄想して、エリザ嬢の家より上質な家への婿入りを見つけてくることだろう。
子を思う良い父親であるために……。
自分の努力をウィリアルドが泣いて喜ぶと無邪気に信じて……。
オレの知っている父はそういう人だ。
同じく父を知っているゴードンから、父を暴走をさせないよう抑えて、ウィリアルドの自由を確保し、ウィリアルドがいづれエリザ嬢の元へいける道筋を作るのに協力して欲しいと頼まれた。
オレは全力で、弟の恋の成就を、幸せを願った。
そしてオレとゴードンの企みは見事成就し、オレ達は運命を騙しきった。
エリザ嬢と無事再会出来たという報告の手紙が届いたときの喜びは忘れられない。
弟から初めてもらった手紙は喜びに満ちたもので、読み進める度に溢れる涙を止めることが出来なかった。
彼女と向き合っても暴言が出なかったこと……初めて抱きしめられたこと……彼女以外となら当たり前に出来たことを、今やっと最愛の彼女と出来たと報告してくる弟が哀れで、愛しくて愛しくて……。
この先は、ただ彼女と幸せになってくれと、心から願った。
その願いを叶えるために踏みつけにした男に目を向け、真顔で嘘をつく。
「かつての二人の行動には、ずっと意味があったんだ」
含みを持たせて神妙に呟けば、そうだったのか……と呆然と納得するテオバルトは、オレの言葉を何も疑っていない。
それは、彼が素直な馬鹿だからではなく。
誰でもないオレが言ったからだ。
殿下と同じく、テオバルトも、オレを友人として評価し、信用してくれている。
親友を欺くことに良心の呵責が一切ないと言えば、……嘘になる。
オレ達が何もしなければ、こいつは好きな女と結ばれたのだろう。
でもオレは、親友以上に、弟の幸せを願った。
そこに至るまでのウィリアルドの気の毒な生い立ちなど、こいつには一切関係ない我が家の事情なのは重々承知している。
でもウィリアルドは、そのとんでもない困難の中でも諦めることなくエリザ嬢を想い、彼女から想われる男になった。その努力が報われない未来など、オレはいらない!!
もしかしたらこの先、未来を違えた罰を受けるような事態に陥る日が来るかも知れない。でもオレはこの選択を後悔しない。
弟のために、親友の幸せを奪ったとは思わない。
だって、テオバルトはいい男だ。
顔も良いし能力もある。何せ、このオレと並ぶ殿下の側近なのだ。
きっとエリザ嬢以上に素晴らしい女性と出会い幸せになる未来が、無限にある。
そのときには相手がどんな女でもオレは全力で応援する。必要なら公爵家の権力を使って協力してもいい。
もちろんそれは、贖罪のためではなく友人だからだ。
「レオ、本当に長い間、すまなかった」
「気にするな。結局、結果は変わらなかったんだから」
嘘だ。
終わりは変わった。
オレが変えた。
「でも気を揉んだだろう?」
「まあな……だが、殿下のおかげでそんな暇もない程忙しかったから」
余り気にならなかった……と言った言葉は嘘じゃない。
テオバルトに休暇を与えるため……テオバルトが休暇中……殿下の補佐を一人で行うのは本当に大変だった。原因の彼に怒りや憎しみを抱き続ける気力もなくなる程働かされた。
今思えばそれも殿下の策だったのかもしない。無駄にテオバルトと仲違いしないよう、殿下はわざと忙しくしてオレの体力を削り取っていたのかも……。
あり得る。
至った結論に頭を抱えそうになったオレに、本当に申し訳なさそうな顔をしてテオバルトは言った。
「それも、すまない。今度はオレがお前の穴を埋めるから、思う存分弟と会ってきてくれ」
「本気か?」
「ああ」
「……その言葉絶対忘れるなよ」
頷いて早速書類仕事を再開するテオバルトから、手元の休暇届に視線を落とす。
素早く訂正線で日時を修正すると、丁度良いタイミングで殿下がやってきたので、笑顔でそれを手渡した。
読んで頂きありがとうございました。