公爵夫人のお茶
ウィリアルドの卒業少し前の時期。
じいとレオナルドの母の話。
私が奥様とお会いすることは、坊っちゃまを引き取って以降殆どなかった。
基本用がなければ私が本館に行くこともないし、その用も大体は坊っちゃま関連のこと。それは旦那様の役割なので、偶然会う以外、奥様と関わることはない。
……なのに、奥様から呼び出しを受けた。
一体何事だろう?
レオナルド様含め、物語の外の人物の動きには過敏になってしまう。
まもなくエンディングを迎えるこの物語。
原作では、テオバルトたちの卒業式を控える学院で開かれた、在校生と卒業生のお別れパーティーの席で、ウィリアルドはエリザとテオバルトの不貞を理由に婚約破棄宣言をする。
しかし、人生二度目でウィリアルドの行動を知っていたエリザは、毅然とした態度で、逆に彼と女狐の不貞を告発して、ウィリアルドの言いがかりを一蹴する。そして、そこからウィリアルドの転落が始まるだ。
だが、現在、坊っちゃまのそばに婚約破棄を唆した女狐はいないし、婚約はエリザ様の意思によって既に解消されている状態だ。
……もしや私の企みが気付かれた? 筋から逸れてしまった流れを何とかしようと、物語の方が動き出したのかも知れない。
異分子と気付かれたなら、私が排除されることもあるのだろうか?
最悪、坊っちゃまから引き離れる覚悟もしなければならない。
もしそうなったら、さてどうするか……考えている間に、応接室についた。中で待つよう言われるのかと思ったら、案内人のメイドはノックをして入室の許可を得る。
開かれた扉の奥では、奥様が一人で待っていた。
「わざわざ呼びつけてごめんなさいね。どうぞ掛けてちょうだい」
てっきり坊っちゃまについての報告を求められるのだと思っていたのに、まるで客人にするような対応をされて一瞬面食らう。驚きを悟られないよう、失礼しますと声にしてから、奥様の真正面に腰を下ろした。
屋敷の女主人に、客のようにもてなされるなど想像していなかった。戸惑う私の前に香しい紅茶と菓子がおかれて、メイドは下がって奥様と二人になる。
「そんなに身構えないで。良い茶葉をもらったから、貴方にも飲んでもらおうと思ったのよ。遠慮せずに、どうぞ」
にこやかに勧められて、疑問符を浮かべながらカップを見つめる。
正直私は紅茶より断然コーヒー派だ。苦みの強いブラックコーヒーが好物で、それに甘い菓子を合わせるのが大好きだ。
そのことは奥様もご存じのはずで……それとも、奥様は昔のことなど忘れてしまわれたのだろうか?
それは寂しいことだと思いながら、カップに口をつける。
渋みの少ない爽やかな飲み口の茶だった。こういうお茶に合う菓子は確か……考える私の前で、奥様も静かにカップを持ち上げる。
「難しい顔。相変わらず、紅茶は苦手なのね」
落とされた呟きに顔を上げると、にっこり笑う奥様と真面に目が合った。
「イオリア商会の新商品よ。最近会長が代替わりしてその挨拶に夫婦で来たときにもらったの。持たせるから、あちらで飲んでちょうだい」
彼女が口にした商会名に心当たりがあり、ああ、これもまたこの人の気遣いなのだと知る。今さっき、奥様は昔のことなど……と思ったことを早速後悔した。
この方は何も忘れてなどいない。
私のことも、坊っちゃまのことも……。
奥様が貴族学院を卒業し、まもなくこの家に嫁いできた頃、私は前公爵様の執事だった。旦那様付きの私と初々しい次期公爵夫人との接点は多くはなかったが、彼女はいづれ家政を取り仕切る日のため、侍女長だった妻や私に質問してくることがあった。
公爵家のために努力を惜しまないこの方を、私も好ましく思っていたものだ。
一生懸命な少女は、使用人の私たちにまで次期公爵夫人としての心構えについて相談してくるような勉強熱心な人だったから、根を詰めすぎないよう、烏滸がましいと思いつつも、少しだけ話をしたのだ。
私は紅茶が嫌いです、と。
正直、紅茶を美味しいと思って飲んだことは一度もない。けれど、私には職務として相応しい場にそれを提供する能力が必要で、嫌でも学ばなければならなかった。
嫌いな紅茶を毎日飲んでは必死に学ぶ私を変な顔で見ていたのが、同じ時期に侍女見習いとして入った、妻だった。
妻は、私とは真逆の性質で、感受性が豊かで直感的で、座学が大嫌いな人だった。
侍女としては抜きん出た才能を持っていたが、基本習うより慣れろ、百聞は一見にしかずを地でいく人で……後継の育成にはかなり苦労していた。
そんな妻には、味を学ぶという私の行為自体が意味不明だったようだ。
知識などなくても、彼女には一口口に含んだだけで、提供するべき場所も相手も合わせる菓子も、勝手に思い浮かぶのだという。紅茶だけではない、菓子も、ワインも、花も、時には人間にも……ありとあらゆるものに対して相応しいものが、瞬時に理解出来る。
それは、どんなに学んでも得ることの出来ない、天性の才だ。
素晴らしい才能を持っているのに、彼女自身……否、周囲もそのことに気付いてなかった当時、言葉足らずに直感で突飛な行動をしてしまう彼女は、ただの粗忽者と評価されていた。彼女の助言が功を奏しても、たまたまとか偶然の言葉で片付けられ、誰もその価値に気付かない。
それがもどかしく、手を組もうと提案したのが私たちの縁の始まりだった。
『君の行動のフォローはすべて私がする、代わりに君の才能を貸して欲しい』
……プロポーズのつもりはなかった。
利害の一致した取引のつもりだったのに、どう話が転んだのか、私たちは養父のとりまとめであっという間に婚約することになってしまった。
そのとき彼女を女として好きだったかと言えば……まったくそんなことはなく。
私が欲しかったのは彼女の才能で、本人のことは手のかかる妹分くらいにしか思っていなかった。だから、彼女にちゃんと想う相手が出来たら婚約は解消してあげようと決めていた。
しかし、私が彼女を助ける以上に、私は彼女に助けられた。
私が現役時代そつのない完璧な執事でいられたのは、すべて彼女の何気ない助言のおかげだ。
そうやって、いつの間にか彼女の存在は、私の人生に欠かせないものになっていて……。
やがて自覚したのは、燃え上がるような恋ではなかった。
抱いたのは、じんわりと染み入るような愛情。
いつの間にか私は、才能ではなく、妻自身を好きになっていた。
しかし、気持ちを自覚して、改めて結婚を前提にした交際を申し込んだときの返事は、今でも忘れられない。決死の覚悟で花束を差し出した私に小首を傾げた妻は、何でもないことのように言ったのだ。
『え、今更? 私はずっと貴方が好きなのにまだ待たせるの? そういうのは結婚してからにしましょうよ』
彼女の一言で即座に結婚が決まった。
以後ずっと私たちは、夫婦として、仕事仲間として、人間として、互いに足りないものを補い合って過ごした。
私には彼女が絶対に必要だ。
同時に、彼女にも私が必要だと自負している。
そんな惚気話を困った顔で聞いていた奥様に伝えたかったのは、誰にも苦手があって当然、完璧な人間などいないのだから、何もかも一人で背負う必要はない。足りないものを補うために誰かの手を借りることは、何も恥ずかしいことではないということ。
だから一人で頑張りすぎなくて良い。
私たちを存分に利用してもらって良い。
その代わり。
決断だけは誰にも譲ってはいけない。
意見は貰っても、流されてはいけない。
最後に決めるのは、自分自身でなければならない。
そうでなければ、躓いて振り返ったとき。
原因を他人に押しつけたくなる。
責任をなすりつけたくなる。
私は、最初こそ誤解で妻と婚約することになった。
けれど、最終的に彼女を人生の伴侶に選んだのは私自身で。
どんなに出世しても、誤解されることの多い妻の行動は、時々凄い窮地に私を陥れることもあるけれど……彼女を選んだこと、私はまったく後悔していない。
彼女を含めた全部が私の人生で、私の選択の結果だから。
偉そうに言った私に頬を赤らめ目を輝かせた少女は、時を経て立派な女主人となった。
この方は、公爵夫人として決断し、その責任を今も負っている。
琥珀色の飲み物の由来から感じたのは、かつてと変わらぬ奥様の矜持と責任感だった。私と同じものを飲んで表情を引き締めた奥様はそっと瞼を持ち上げて、公爵夫人の声で言う。
「レオと何か悪巧みをしているようね」
「悪巧みなど、滅相もございません」
素知らぬ顔で否定すれば、ふふっと微かに笑った奥様は静かにカップをソーサー戻し、両手を太腿の上で重ねた。空気がピンと張り詰める。
「ゴードン、私は決してあの子に不幸になって欲しいわけではない。ただ……それ以上にレオナルドの幸福を願っているわ。だから私には、当時も今も、ああする以外の解決法は思いつかない」
ああする以外……そう彼女が零すのは、坊っちゃまの処遇についてだろう。
当時の出来事について私は殆ど何も知らない。
すべての決定後呼び戻されて公爵様から坊っちゃまの立ち位置と処遇を伝えられただけで、ご夫妻にどんなやりとりがあったかは聞かされていない。
……だが、彼女の苦痛を想像することは出来た。
奥様にとっては正に青天の霹靂の、辛い出来事だったろう。
愛する夫が自分の妊娠中、同じ屋敷の中で他の女を妊娠させるような行為に及んだ。その結果、子が出来た。
吹き荒れた嫉妬と憤怒の嵐を彼女がどう治めたのか判らないが、公爵夫人としての矜持をもってした対処は見事だった。
醜聞を隠すため、生まれた子は自分の子どもとして届け出、不貞相手にも厳罰など加えず、可及的速やかに過不足ない相手を用意して外に出し、旦那様からレオナルド様の立場を守る契約書ももぎ取った。
それらはすべて家のため……ひいては次世代の将来のため。
しかし女主人としての振る舞いは見事でも、女として、それ以上の譲歩は無理だったのだろう。
奥様は坊っちゃまを我が子とした後、即座に私たちに預けて、いないものとして扱った。公爵家の子として不自由はさせない。代わりに、自分にも公爵夫人としての役割以上のものを求めないよう言明された。
奥様が母親として愛するのはレオナルド様だけ。
それは今も変わらない。
この方は、坊っちゃまの存在がレオナルド様を脅かさない限り、坊っちゃまにも自由を与えてくださる。
「レオナルドがあの子を養子にしようとしているようなの」
「……養子?」
近く、レオナルド様が公爵家の保有する爵位の一つを受け継ぐという話は私も聞いていた。慣例に従ったものと思っていたが、どうやら彼には違う思惑があるらしい。
「書類上のこととはいえ正直難しいと思うわ」
「でしょうね」
何せお二人は兄弟だ。
爵位を継いだ兄が、わざわざ弟を養子にする理由を探られて、万が一醜聞が漏れたらこれまでの苦労が無駄になる。
「悪いけど、他の手段を考えてちょうだい」
「かしこまりました」
「今まで通り、あの子のことは今後を含めてすべて貴方に任せます」
「はい」
「私はあの子の母親にはなれないけど、せめて、公爵夫人として出来る協力は惜しまないつもりよ」
「ありがとうございます」
去り際に渡されたのは、未開封の茶缶。
蝋封を指でなぞって、息を吐く。
イオリア商会は公爵領で商売をしている中堅の商会で、王都にも小さな店を出している。公爵家の日用品を専属でまかなっているのもこの商会だ。
そして、奥様のお膳立てで坊っちゃまの生みの母が嫁いだのが、当時の商会長の跡取り息子だ。
奥様にこの茶葉を届けたのは、イオリア商会の新会長夫婦だという。
……つまりそれは、坊っちゃまの生母がこの家を訪れ、二人がまた顔を合わせたということに他ならない。
どういった経緯を経ての再会かは判らない。だが、険悪なものではなかったから、奥様はこれを私に、否、坊っちゃまに渡すよう手配してくれたのだろう。
まもなく坊っちゃまは公爵家を離れ、ただのウィリアルドになる。
その覚悟は、レオナルド様を通じて旦那様や奥様にも共有されている。
それを見据えての奥様からの意思表示なのだろう。
公爵令息のウィリアルドの母親は奥様だが、ただのウィリアルドの母が彼女である必要はない。
どれほどの苦悩があったのだろう。
どれほどの苦悩の果てに、奥様は彼女と再会し、これを私に預けたのだろう。
判らないけれど……。
女主人として自身の意思で決断した奥様は、その責任をしっかり負って今日も生きている。
「ご立派になられましたね、奥様」
烏滸がましい科白と判っていても、言わずにいられなかった。
読んで頂きありがとうございました。