最終話
坊っちゃまの手紙に返事はなかった。
代わりに、時折届くのはサラさんからの私宛の私信。
転地療養が良かったのか、エリザ様は領地で健やかに過ごしている。病状の進行はなく、寧ろ元気になっているようで望みが芽生えたという言葉には、坊っちゃまと二人、手を取り合って喜んだ。
……やはり、私の予想は間違っていなかった。物語の望む流れにさえ逆らわなければ、きっと最後まで騙しきれる。
その確信を深めたのは、テオバルトがエリザ様を好いていると言う事実。
それが強制力によるものなのか、純粋な恋心なのかには、興味ない。ただ、彼はエリザ様の婚約の解消を聞いてすぐに動き始めたそうだ。
友人と弟の想い人が同じ事実は、そばで話を聞く機会のあるレオナルド様の胃を随分痛めつけたようだが、それは物語の望む流れ、我々にはどうしようもないもの。
だから私は祈り続けた。
この行為によって、あの方が苦痛の生を繰り返すことなく今生を生き延びて、そして笑って終わりを迎えられることを……。
◆◆◆◆◆
領地に戻ったエリザ様がすっかり回復したとサラさんから手紙が来たのは、レオナルド様たちが学院を卒業し、坊っちゃまが最終学年に上がった秋だった。
病が癒えても、エリザ様の記憶にある一度目の生で生命を落とした日を警戒していたが、無事その日も乗り越えた。
もうきっと大丈夫だろうと知らせる手紙には、領地の夏祭りにテオバルトと参加したことも記されていた。
テオバルトは学院を卒業後、王子の側近という地位についてから、正式にエリザ様に婚約を申し込んだそうだ。そして彼は健気にも、長い休みの度単身伯爵領へ通い、エリザ様と親交を深める努力をしているという。
そんなテオバルトを応援する王子殿下が彼に気前よく長期休暇を与えようとするから、こちらにしわ寄せが来きて困ると、レオナルド様がよく怒っていた。
原作では、レオナルドはテオバルト側の人間。
坊っちゃまに肩入れしすぎてテオバルトの行動の邪魔をしないようお願いしていたから、それもまた苦痛だと、誰にも言えない愚痴を言いに、彼はこの三年よく別館に来ていた。
そんな物語の進行とは別に、坊っちゃまも卒業後に向けて必死に努力していた。
最初は、学院でのエリザ様の名誉の回復のため、婚約解消の事実と理由を詳らかにした上で、自分は卒業後に公爵家を離れるつもりだから、もう婚約者は持たないと公言した。
そして、勉学と共にそれまで以上に必死に剣技を学び、その過程で、件の子爵令息とも親しくなったのだ。
二人とも、いずれ家を出なければならない次男。今のうちに頼みにするものを身につけておかねば将来に困る。二人の少年は、武を選んで、目標を同じくしたことで仲良くなった。
多分、彼には自分の身の上を明かしたのだろう。
自身がメイドの子であることも、だから公爵家を離れることも、そして元婚約者を忘れられないことも……全部話しても良いと坊っちゃまが選んだ、初めての親友。
坊っちゃまと親友が共に目指したのは、王国騎士だった。
我が国で<騎士>とは国家資格で、相応の剣技と学力があれば貴賤問わず受験出来、合格すれば余程のことがない限り生涯有効な資格。
騎士の称号さえあれば、国内で食うには困らないから……と自ら選んで受験を決めた坊っちゃまが、親友と共に合格して狂喜乱舞したのは、この冬。
気付けば、学院の卒業式はすぐそこだった。
長かったようで、短かった三年。
我が国の成人は十八歳。様々な例外はあるが、大抵の貴族の子女は学院の卒業をもって成人と見なされる。
旦那様と奥様の契約が履行され、坊っちゃまが公爵家を離れる日が近付くのを悲しむ気持ちと共に、確かに喜ぶ気持ちを持ちながら……私はその日へ向けて粛々と準備をした。
坊っちゃまが<物語のウィリアルド>として果たすべきことは、ヒロインとの婚約解消を理由にした、公爵家からの放逐。
多分そこで、坊っちゃまの物語の登場人物としての役目は終わるはずだ。
それを終えた後ならば……きっと……きっと。
ガタンと、不意に止まった馬車の振動に、ハッとする。どうやら長旅の疲れで、うたた寝をしていたらしい。
王都を出て数日。
子爵家の馬車もやはり伯爵領を目指しているようで、殆ど同じ行程で休憩と宿泊を繰り返し、二台の馬車は付かず離れず進んできた。
地図の上では伯爵領には入ったが、領主館のある街に着くのは夕刻。今夜は何処かに宿を取って、伯爵様に面会を求めるのは明日以降になるだろうと、今後のことを考えている間に寝ていたようだ。
外はいつの間にかオレンジの光に満ちていて、落陽が熟れた果実のように燃えていた。
座り疲れて痛む腰を擦りながら馭者に声を掛ける。
「どうかしたのか?」
「はい、あちらの馬車が急停車して……あ、ウィリアルド様が」
坊っちゃまの名前が出て、急いで馭者席の後ろの小窓に顔を寄せる。
外を見た瞬間、ぞくりと肌が粟立って、私も転げるようにして馬車から降りた。
眼前には、種まきが終わった黒々とした土の広大な農地がある。
その農地と街道を区別するための低い柵のそばには、農民が休むためなのか簡易ベンチがしつらえてあって、今そこにはエプロンドレスの女性が二人腰掛けていた。
……その人たちを知っている。
向こうは通り過ぎてから気付いたのだろう。あちらの馬車は彼女たちを通り過ぎた少し先で停まっていて、こちらの馬車は彼女たちより手前に停まっている。
二台の馬車に挟まれた位置にいる女性たちは、馬車から降りてきた坊っちゃまの方を向いていた。
……見逃してはいけない。
私は、そのためだけに、ここまで来たのだからっ。
無意識に足が動き、十数メートルの距離を息の切れる速度で走って、彼らの元へ向かう。
近寄れば、それが確かに彼女とサラさんだと、判った。しかし、私の足音にこちらを見たのはサラさんだけ……私を見つけ驚いて立ち上がった彼女の隣に並んで、乱れる息を必死で押さえ、お二人を見た。
馬車から降りて立ち止まっている坊っちゃま。
そして……、ベンチからゆっくり立ち上がってスカートの埃を払う、エリザ様。
西日に照らされ佇む二人。
数年ぶりに見る、お二人が一緒にいる景色は、熟れた陽光の所為だけでなく、酷く眩しかった。
エリザ様は手紙にあったとおり、もうすっかりお元気そうで……最後に見た時、病的に痩せ細って痛々しい程だった頬も、丸みを帯びてオレンジに染まっている。
しかし、それより何より、私を驚かせたのは、彼女の成長だった。三年見なかっただけで、彼女は可愛い少女から美しい女性になっていた。
身長はあまり変わっていないだろうに、何故か愛らしさより美しさが際立つ雰囲気になっていて、ああ、三年は長かったのだと思う。
長い睫に彩られた水色の瞳を眩しそうに細めた先、私と同じ思いにとらわれているのだろう坊っちゃまが呆然とした表情で聞いた。
「どうして……こんなところに」
「レオナルド様から貴方が公爵家を出たと知らせを貰ったの。我が家に来るなら、必ずこの道を通るだろうと思って、……待ってた」
「……私を?」
「ええ」
「どうして……」
「だって、約束、したじゃない」
答える声は、次第に震えを帯びて……こちらから見える瞳が、キラキラと光り始める。それが瞳を覆っていく涙のためと気付いて、私の呼吸も乱れた。
「貴方が外でどんな態度をとっても、私は貴方の手紙を信じるって、約束。貴方は必ず迎えに行くって、手紙をくれた。……だから信じて、ずっと、待ってた」
言葉をなくす坊っちゃまと同じ気持ちで、言葉を失った。
坊っちゃまの奇行を庇うため、粗野な態度や暴言をどうしようもない男子の照れ隠しにしようと話した、あの日のことだ。
『貴方の手紙を信じるわ』
真っ直ぐな目で、目も合わせられない婚約者に宣言された言葉。
あの日の約束を守り続けて、否、信じ続けていた彼女の一途さに、一気に涙がせり上がる。
……あぁ、呼吸が苦しい。
「……エリザ!!」
泣きそうな顔で叫んで駆け出した坊っちゃまは、同じように、思いっきり手を広げて走り出した彼女と、ぶつかるようにして抱きしめ合う。
「ウィル、ウィル……ああ、本当に、貴方?」
「あぁ、エリザ、もう離さない」
「……呪い、解けたの?」
「そうみたいだ。だって、こうして君を抱きしめられるし、顔を見ながら話が出来る」
「……夢、みたい。ねぇ、もっとちゃんと顔見せて、わたしのことも、ちゃんと、みて……」
願われて見つめ合っても、坊ちゃまの顔に嫌悪も怒気も無く。その事実が、私の目頭も熱くさせる。
やはり私の仮説は間違っていなかった!!
レオナルド様、私たちはちゃんと物語を騙しきれましたよ!!
強制力はもうない。
これで二人は結ばれる。
私のお育てした坊っちゃまが<幸せ>になれる!!
歓喜に震えながら、遠くにいる同志に語り掛ける。
漏れる嗚咽を唇を押さえて堪え、瞬きの時間も惜しくお二人を見つめ続けた。
私と同じように歓喜の涙を落としたエリザ様は、ワッと泣き声を上げてそれまで以上に必死に坊っちゃまに抱きついた。
「会いたかった、会いたかったっ、ウィル!」
「エリザ……」
万感の思いを込めてその名を呟いた坊っちゃまは、逞しくなった腕にすっぽり収まるエリザ様を隠すように抱きしめて、彼女に頬擦りする。
「エリザの頬、柔らかい。ずっと触りたかった。髪も、綺麗だ。……鳥の巣なんて言ってごめん」
「もうっ、忘れてたのに、そんな昔のこと」
「一番に、謝りたかった。他にも謝りたいことが、いっぱいある」
「そんなの、いらないってばっ。……過去より未来の話をして、何しに来たのよ、貴方」
エリザ様に急かされて、抱きしめる腕を解いた坊っちゃまは、即座にその場に跪くと騎士が誓いを立てる仕草で、告げた。
「エリザ嬢、愛しています。どうか、私と結婚して下さい」
燃える夕日に照らされて、麗しい騎士が手を伸べて、最愛の人に愛を希う。
それはまるで絵画のように美しい情景だった。
答えを待つ間、サーッと少し冷たい風がエリザ様の巻き毛を揺らし。
頬にかかる髪を優しく掻き上げた淑女は、伸ばされた手にそっと自らの手を乗せ、それはそれは美しく微笑んだ。
「喜んで。貴方と別れたとき、もう他の誰にも嫁がないと決めてたもの。……来てくれて、ありがとう、ウィル」
「エリザ!!」
握り合った手を引き寄せて、再び固く抱きしめ合う恋人たちは、もうすっかり二人の世界で……数歩離れた場所にいる私やサラさん、心配そうに見守っている親友さえ、忘れられているのだろう。
往来で抱き合うなんて、結婚前の男女としては少々はしたないが、どうか今だけは許して欲しい。
三年ではない。
彼らは十年越しに、初めて、今日、愛しい人に触れたのだ。
抱きしめ合い、額を触れ合わせ囁く二人の声が聞こえない位置まで下がって、唇を押さえ、肩を震わせて泣くサラさんにハンカチを差し出す。
「すみ、ません。ありが、とう、ございます」
「良かったですねぇ」
「ええ、ええ、本当に! お嬢様が、お幸せに、本当に……」
「私も、坊っちゃまが幸せになって、本当に嬉しいです」
坊っちゃまの金髪と風に揺れるエリザ様の巻き毛が、冬の夕日を乱反射して酷く眩しい。
神々しいまでに輝く二人の姿は、私の望みが叶った証拠。
この瞬間を見るためだけに、私はここまで来たのだ。
ヒロインの恋愛の成就を持ってこの<物語>は幸福に終わる。
ここから先は、本当の意味で未知の道程。
けれど、あの二人ならば大丈夫。
そう、私は信じる。
「……良かったですね、坊っちゃま。どうか幸せに、誰よりも幸せに、なってください」
果てしない充足感に包まれて、この瞬間を忘れないよう、しっかり目に焼き付けて置きたいのに……溢れてくる涙がそれを許さず。袖口で何度も何度も目を擦って、西日に溶けるように滲むお二人を、ずっと見ていた。
読んでいただきありがとうございます。
これでじいの物語は終わりです。
お好みのエンディングになっていたでしょうか?
完結まで思いのほか長くお待たせしてしまい申し訳ありませんでした。なんとか年内に完結出来て良かったです。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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