第十三話
レオナルド様の元から戻って湯を浴び、服を着替える。
老いた体に貫徹は流石にきつい。
が、ここが正念場。
締めに冷水で顔を洗って頭を冴えさせてから、常と変わらぬ動作を心がけて、厨房に顔を出した。
そこにいたメイドに坊っちゃまの様子を聞くと、もう既に目覚めていると報告を受けた。
厨房で朝食をとりながら、坊っちゃま用に冷めても大丈夫な軽食と飲み物を頼んで部屋に向かう。
入室の許可を得て部屋に入ると、中はまだカーテンが引かれたまま薄暗く。暗い部屋で寝台に座り、ぼんやりしている坊っちゃまがいた。
「おはようございます」
挨拶をしてカーテンを開く。
外には青空が広がっていて、今日も良い天気になりそうだ。
そう思いながら振り返った先……全部のカーテンを開けて光を招き入れても、寝台は光の届かない奥まった位置にあり、その周囲は暗く淀んでいる。
「坊っちゃま、今日も良い天気です。少し肌寒いですが、剣の稽古はなさいますか?」
寝台のそばまで戻り、いつもと同じことを聞いた。
返事はない。根比べのように、ピクリとも動かない坊っちゃまのそばに黙って立っていると、やがて、地底を這うような低い、聞き取りにくい声が答えた。
「……じい、私は婚約の解消には絶対に同意しない」
「昨日も申し上げました。坊っちゃま、それはなりません」
平坦な声を心がけて答える。
昨日、同じ言葉で坊っちゃまを止めた私は、泣きわめく坊っちゃまを伯爵家の使用人の手を借りて馬車に押し込み、屋敷へ連れ帰った。そして頭を冷やすよう部屋に閉じ込めて、レオナルド様に面会を申し込んだのだ。
一人になって一晩考えた答えがこれなのだと思うと、知らず溜息が漏れる。
呆れの混じった吐息がささくれた神経を刺激したのか、こちらを仰ぎ見た坊っちゃまは、顔いっぱいに怒りを滲ませ最初から怒鳴り声を上げた。
「何故だ! じいだって、私がどんなにエリザを愛しているか知っているだろう、なのに何故!! どうして、邪魔をするんだ!」
「坊っちゃまのためにならないからです。私は坊っちゃまの執事、貴方が道を違えようとするなら正すのが、私の使命です」
「主の一番の望みが叶わなくなってもか!?」
「それが間違いならば」
強く、はっきりと肯定すれば、信じられないという顔をする。
「坊っちゃまが今すべきことは、みっともなくエリザ様に縋ることでも、旦那様に逆らって不興を買うことでもありません。耐えて、時を待つことだけです」
「時だと!?」
「考えてもみてください、このまま無理矢理婚約者という地位に縋り付いたところで、今の坊っちゃまに何が出来ます? 病のエリザ様に優しい言葉を掛けることも、手を握って励ますことすら出来ず、かといって、エリザ様の代わりに伯爵様を手伝うことも未熟な学生の身では満足に出来ない。婚約者という地位にどんなに縋っても、今の貴方はエリザ様のために何も出来ないのです」
懇切丁寧に婚約者でいる価値がないと突きつけた途端、坊っちゃまは獣のような俊敏さで飛びかかってきた。
「黙れ!!」
叫び、飛びかかってきた坊っちゃまを、全身で受け止める。
ある程度の暴力行為を予想していたとはいえ……逞しくなった坊っちゃまの体当たりを受け止めるのは、老体にはなかなかにきつい。しかし、無様に転がされるわけにはいかない。
大人の矜恃で必死に堪えて、暴れる彼を抱きしめ押さえつけた。
「だったら、どうしたら……どうしろって言うんだ!!」
「ですから、時を待つのです」
「時とは!?」
「学院を卒業したら、坊っちゃまは公爵令息ではなくなります。そうすれば何処へ行って何をしても、誰にも咎められない」
「そんなに待てない!! その前にエリザに何かあったらどうする!!」
「それはもう天の意思、我々にはどうしようもありません」
「それじゃ意味がない!!」
「坊っちゃまがそばにいても、エリザ様の病は癒えません。今の坊っちゃまに何も出来ないのは、距離や関係がどうあろうと変わらないのです」
しっかり自覚するよう噛んで含めるように伝えれば、暴れていた身体から力が抜ける。
「婚約者としてエリザ様を看取りたいと願うのは坊っちゃまの自己満足。そんな愚かな願望を抱くくらいなら、もっと先を見るべきです」
「その先に、そこに、エリザがいなかったら意味がないじゃないか!! エリザがいなかったら、先なんてっ、未来なんてっ……意味がな」
やはり……という悲しみが、予期しない怒鳴り声になった。
「そんなことを考えるからっ、あの方は婚約解消を願ったのでしょうが!!」
怒鳴った勢いのまま、坊っちゃまの身体を引き剥がし、泣き始めていた青い目を睨み付け叱りつける。
「辛いのはエリザ様も同じです! ですが、あの方は坊っちゃまのため……愛する人の幸せのために、手を離す覚悟を決められた。その気持ちが、本当に判りませんか!? ……判らないなら、坊っちゃまにエリザ様の愛を受ける資格はない!」
まだ子供の坊っちゃまに、そこまで求めるのは酷かもしれない。
だが、一度でも愛していると口にしたなら……。
<愛>という言葉に付随する苦楽を、受け入れるべきだ。
「エリザ様は、明日をも知れないご自分が縋り付いて、もしもの事態が坊っちゃまの人生に影を落とさないよう、覚悟を決められた。
本当にエリザ様を愛していると仰るなら、どうか、坊っちゃまもその気持ちに応える強さを持って下さい」
怒声の後、長く沈黙が続いた。
私を見つめるフリをして、何処か遠くへ意識を飛ばした坊っちゃまは、やがて、あぁ……と力ない吐息と共に、全身から力を抜く。崩れていく身体を受け止めきれず、今度こそ無様に尻餅をついてしまった。
床に座り込んで静かに泣き始める背をさすり、語りかける。
「転地療養でエリザ様が治ることを祈りましょう。そして三年後、学院を卒業して、ただのウィリアルドとして、エリザ様に会いに行くのです。もうそれしか、お二人が結ばれる方法はありません」
両手で顔を覆って肩を震わせる坊っちゃまは、是とも否とも言わず泣き続けた。
けれど、私のお育てした坊っちゃまは、愛しい人の祈りのような切実な想いを受け取れない男ではない。思いっきり泣いた後は、顔を上げて新たな希望に向けて進んでいけると、信じている。
「会えない間は、昔のように手紙を書きましょう」
励ますために口にして、思い出した。
昔、坊っちゃまが初めてすべてを自分で考えて書いてエリザ様に贈った手紙は、小さなメッセージカードに収まる短文だった。
『君の好きな薔薇が咲いたので、贈ります』
朝から自分で薔薇を摘みに行って、棘を落とし角度まで気にしながら花束にして、初めての直筆のカードを添えて贈った、遠い日。
……あの日の薔薇も、あの中にあったのだろうか?
お二人の気持ちの詰め合わせのような匂い袋を抱いて旅立つエリザ様を思い。
泣きじゃくる坊っちゃまを抱きしめたまま、私も体中の水分がすべて涙になってしまう程泣いて、泣いて……その後一週間、私は過労と腰痛で寝込んだ。
◆◆◆◆◆
エリザ様を見舞った日から二週間。
別館を訪ねてきたレオナルド様は、窶れきった坊っちゃまの姿に顔を歪めながらも打ち合わせ通り、淡々とエリザ様の体調不良を理由にお二人の婚約が解消になったことを伝えた。
そうなると覚悟していても、現実にそうなってしまった絶望が坊ちゃまの顔いっぱいに広がる。唇を噛み締めて俯き頷いた姿を目の当たりにすると、私の胸も鋭く痛んだ。
……だがこれは始まり。
ここからまた私たちは始めていくのだ。
肩を落とした坊っちゃまの肩越しにレオナルド様と目を合わせて頷く。
紅茶で唇を潤したレオナルド様は、こほんと一つ咳払いをしてから口を開いた。
「ウィリアルド、知っての通り、お前はメイドの子だ」
「……はい」
「だから父上は成人と同時にお前を公爵家から除籍する」
「知っています……エリザとの婚約は、そのために整えられたものと聞きました」
「その婿入り先も無くなった。つまり、このまま何もせずに学院を卒業すれば、お前は成人をもって公爵家の家系図から名前が消えて、……貴族でなくなる」
浮気がばれて坊っちゃまを引き取ることになった時、奥様とそう約束をした、という裏話をレオナルド様は語った。
離婚をほのめかす妻の怒りを静めるために、旦那様はウィリアルドの面倒を見るのは成人まで。その後は速やかに公爵家から離籍させ、以後彼とは関わらない、という契約書にサインしたそうだ。
彼女の怒り具合の判る冷酷な内容だが、奥様は奥様で、まだ生まれたばかりの自分の息子の権利を守るために必死だったのだろう。貴族の夫人としては正しい判断だと思う。
そして事態がこうなっても奥様の意思は変わらない。
坊っちゃまは確実にあと三年で公爵家から追い出される。
「貴族として残るためには、他家に婿入りするしかすべがないが……お前はどうしたい?」
問われた坊っちゃまは一瞬意味が判らないという顔をして、やがて呆然と問い返した。
「……私が選べるのですか?」
「ああ、もちろん」
お前の人生なのだから……と促されて、坊っちゃまはハッと瞳を瞬かせた。そして、慌てて丸めていた背筋を伸ばし直し、真っ直ぐレオナルド様と向かい合って、はっきりした声で告げた。
「婿入り先は探していただかなくてかまいません」
「判った」
反論することなく受け入れたレオナルド様は、再び紅茶のカップに手を伸ばし、湯気ののぼる水面を見たまま独り言のように呟く。
「ウィリアルド、お前とエリザ嬢の婚約の解消はどうしようもなかった。それはすまないと思う。……ただ、我が家を離れた後お前が何をしようと、父上も母上も邪魔は出来ない。家を去ったお前が何処の誰と縁づこうと、それはお前の自由だ」
「兄上……?」
「その時、どうしても後ろ盾が必要なら、私が出来る範囲で支援する」
「兄上……」
「残り三年だ。己のためにしっかり励めよ」
それだけ言って、一息で紅茶を飲み干したレオナルド様は即座に立ち上がる。吃驚しすぎて見送りも出来ない坊っちゃまを置き去りに、自らドアを開けて帰って行った。
パタンと閉じたドアを見つめたまま呆然としていた坊っちゃまが口を開いたのは、私がレオナルド様の使ったカップを片付けるためにテーブルに近寄ってからだった。
「……じい」
「はい」
「兄上は、優しい方だったのだな……」
「失礼ですよ、坊っちゃま」
「だって……」
戸惑った目でこちらを見る坊っちゃまに微笑みかければ、彼はあぁ……となんとも言えない吐息を零し、泣きそうな顔をして、私に向かって頭を下げた。
「……じい、ありがとう」
「礼などいりません。あの日申し上げましたでしょう、坊っちゃまとエリザ様、お二人の望みの叶う方法を考えましょう、と。私はそのために最善を尽くしただけです」
「共に考えると言ったじゃないか。……一人で兄上を説得してくれたのか?」
「元からレオナルド様は坊っちゃまのお味方です」
「……私は、本当に、いつも、人に助けられてばかりで……情けない」
「助けてくれる人間が周囲にいるのは人徳です、誇りこそすれ恥じる必要などありません。……ですが、坊っちゃま、他人がお膳立て出来るのはここまで。この後は、本当に坊ちゃまがご自身で頑張らなければなりませんよ」
「ここまでして貰ったのだ、頑張るに決まっているだろう!」
レオナルド様という味方を知ったことが余程嬉しかったのか、乱暴に袖で目元を拭った坊っちゃまは、すぐに立ち上がると文机に向かった。
「じい、便箋を用意してくれ」
「かしこまりました」
用意したのはレースの縁取りと薔薇の透かしのある、クリーム色の繊細な紙。
普通男子が好んで使用するものではないが、坊っちゃまはいつもこの紙を使って手紙を書く。
『見てくれ、じい。可愛いだろう? 喜んでくれるかな?』
自分が好むものより、読む相手が喜ぶものを使いたい。そんな気持ちの溢れた顔で、幼い坊っちゃまが選んだ便箋。
そこに文字を綴る青いインクは昔、誕生日に贈られたものだった。
『一目見て、貴方の目の色だと思ったの』
手のひらに収まるガラス瓶を太陽の光に翳しながら、こうすると本当にそっくりなのよと笑った少女を覚えている。
「じい、私は必ず期待に報いるぞ」
便箋にペンを滑らせる坊っちゃまの背中を眺めながら、ここから辿るべき道を思い描く。
ここから始まる、坊っちゃまの新しい未来への道筋。
きっと楽な道ではないだろう。
私に出来るのは、彼らが紡いだ絆の力を信じることだけだ。
読んで頂きありがとうございました。
後、もう少しです。