第十二話
エリザ様の暮らす伯爵領までは、王都から馬車でもなかなか距離がある。
私はレオナルド様が用意してくださった馬車のまま、乗り合い馬車と徒歩で移動する坊っちゃまを付かず離れず追う予定だ。
車窓を過ぎていく王都の街並みを眺めながら、背もたれに背を預け、ふうと長く息を吐いた。
それにしてもこの馬車……見た目は質素だが、内装は酷く豪華で振動も少なく、年寄りの長旅に気を遣ってくださったのだろうレオナルド様の優しさが骨身に染みる。
去って行く使用人にもこの気遣い、きっとあの方は良い当主になられるだろう。
切り捨ててきた公爵家の更なる繁栄を確信して静かに笑う。
……後は、坊っちゃまの幸せだけ約束されれば、私に憂いはない。
気持ちを切り替えて行こうと太腿の上の手を握った途端、外から声が聞こえた。
「すみません、ゴードンさん」
「どうした?」
「それが、ウィリアルド様は見つけたのですが……」
歯切れ悪く言うのは、馴染みの馭者。彼の声の後徐々に馬車の速度が落ちて、やがて停車する。
促されて御者台の後ろにつけられた小窓から前方を窺うと、歩道を歩いていた坊っちゃまの横に馬車が停まっていて、何か会話をしているようだった。
「……あれは」
見つめる先で、馬車から坊っちゃまと同じ年頃の、身なりの良い青年が降りてきた。彼は坊っちゃまと何か話した後、無理に手を引くようにして坊っちゃまを馬車の中へ引き込んでしまう。そして、向こうの馬車は静かに動き出した。
「……大丈夫だ、このままあの馬車を追ってくれ。多分、目的地は同じだ」
「判りました」
カラカラとまた動き出した車輪の音を聞きながら、深く深く息を吐く。
そうしないと、……もう泣いてしまいそうだ。
坊っちゃまが乗った馬車のドアが開いたとき見えた家紋、そして降りてきた青年。
……知っていた。
坊っちゃまがこの三年、特に親しくしていた学友……親友の子爵令息だ。
剣技の授業で親しくなり、いずれ家を出なければならない次男同士、爵位は違ってもとても気が合うのだと嬉しそうに紹介してくれたことは、昨日のことのように思い出せる。
在学中は互いの家をよく行き来して……二人で公爵家で試験勉強をしていた時には、息抜きによく庭で剣を打ち合っていた。彼は、使用人にも当たり前にお礼を言うような気持ちの良い青年で、メイドたちにも人気があった。
そういう友人だから、こんな時間に供も連れずに一人歩きしている公爵令息を見つけて堪らず声を掛けてしまったのか、それとも……どちらにしろこれは歓迎すべきもの。
確か彼は、卒業後辺境伯家の騎士団へ入団すると言っていた。
その道中なのかもしれない。
それでも……そんな友人が坊っちゃまにいるという事実が目頭を熱くさせる。
あの日蘇った記憶で見た、ウィリアルドの破滅の未来の先。公爵家の門の向こう側に去っていたウィリアルドの行方を私は知らなかった。
だが……、こんな未来はなかっただろう。
「坊っちゃま、良いご友人をお持ちになりましたね……」
呟きながら、結局涙を抑えきれず、泣いてしまった。
この三年間の坊っちゃまの努力が尊くて嬉しくて、溢れる雫が止まらない。
私のお育てした坊っちゃまが、あのウィリアルドが、人々に愛され、破滅の未来の向こうへしっかり歩いて行っている。
それだけで、<私>が坊っちゃまの専属執事として生きた意味があったと思う。
あの方はもう、物語の当て馬令息<ウィリアルド>ではないのだ。
三年前のあの日。
エリザ様を諦めたくないと泣く坊っちゃまを止めた私は、勝手に決めた。
坊っちゃまとエリザ様を、共に幸せにすることを。
どちらかを犠牲にするのではなく。
どちらも幸せにする。
そのためにすべきことを考え、私は公爵家に戻ってすぐ、……レオナルド様に面会を求めた。
協力を求めるなら彼が最も相応しい。
物語に登場する、物語の外の人物。
そして、弟のために時間を作ってくれた次期当主……否、たった十七歳の少年に、私は酷く利己的な、とてつもない無理難題を持ちかけた。
『レオナルド様、このままでエリザ様は死に、坊っちゃまには破滅の未来しかありません。どうか、私と共にお二人を救ってください』
跪き、希った私を見つめ一瞬は言葉を失ったレオナルド様はすぐさま正気に返って、その意味を問い詰めた。
◆◆◆◆◆
既に深夜近い時間帯。
気楽な室内着にガウンを羽織ったレオナルド様は、部屋に入ってすぐ跪いた私に駆け寄ろうと浮かした腰をソファーに落として、聞いてきた。
「ゴードン、ウィリアルドの破滅、とはなんだ」
「そのままの意味です。このままではあの方は、公爵家に泥を塗った愚か者として、無一文で公爵家を放逐されます」
「馬鹿なっ、そんな真似私がさせない!」
「いえ、レオナルド様がどうなさろうと、そうなります。そう、決まっているのです」
「……決まっている?」
「はい」
流石は公爵家の次期当主。
一瞬は感情に流されそうになったものの、確信を持って紡ぐ私を見て、吐き出しそうになった言葉を飲み込み。私の言葉をなんとか理解しようとしていた。
理知的な彼を見て、協力者はやはりこの人しかいないと思う。
エリザ様以外で唯一坊っちゃまを想っていることが確かな、レオナルド様。
この方なら、私と同じ目的のために力を尽くしてくださる。
信じて……私は、口を開いた。
「坊っちゃまのエリザ様への態度について、レオナルド様は何処までご存じでしょう?」
「……好意を持っているエリザ嬢を前にすると素直になれず、つい暴言を吐いてしまう、という話は聞いたし、直接見たこともある」
「坊っちゃまは、初めてエリザ様にお会いした日からそうでした。婚約者としての顔合わせの日、坊っちゃまは二人きりになった途端エリザ様の巻き毛や目の色を貶して、庭に置き去りにしたのです」
「初対面の日に、か?」
「はい」
眉間に皺を寄せるレオナルド様にも既に政略による婚約者がいる。自身にもあった、その方との顔合わせの日を思い出しているのかもしれない。
「戻った坊ちゃまは泣きながら、エリザ様を前にしたら、思っているのと全く違うことばかり口から出る。自分は頭がおかしいのかもしれないと、私に訴えました。酷いことを言っている自覚があるのに、自分では止められない。
実際目の当たりにしたときは私も驚きました。少なくとも坊っちゃまはエリザ様と会うのを楽しみにしていた。なのに、エリザ様を前にしたら本人の意思に関係なく、彼女に向ける言葉や表情が、悪感情に満ちたものばかりになるのです」
「そんな、ことが……?」
猜疑に満ちた声を出すレオナルド様を一旦無視して、用意した持論を展開する。
「それを<呪い>と名付けたのはエリザ様でした。証明は出来ませんが、坊っちゃまとエリザ様の周りには、超常の力が働いているとでも思わなければ納得出来ないことばかりがあり、私たちは試行錯誤を繰り返して<呪い>に折り合いをつけながら過ごしてきました。……ですが、そもそもそれが間違いだったのです」
「どういうことだ?」
「幼いお二人には判らなくても、私はすぐに気付きました。どう考えても<呪い>はエリザ様と坊っちゃまを引き裂くためのもの。お二人は結ばれるべきではない、気付いていたのに……私はお二人を引き離さなかったばかりか、惹かれ合っていく二人が上手くいくよう手を貸しました。……すべては浅はかな私の罪です」
悔いるように顔を伏せ、深く息を吸い込み、下腹に力を込めた。
さあ、ここからだ。
すべてを、本当にすべてを、騙してみせる。
グイッと顔を持ち上げて、レオナルド様の青い目を真っ直ぐ見つめ、一息で言い切った。
「理解しながら何もしない私が邪魔だったのでしょう、超常の力は私に未来を見せました」
目を見開くレオナルド様。
荒唐無稽なこの作り話、絶対に信じさせてみせる。
「超常の力の導きの結果、私は未来を垣間見ました。本来なら、坊っちゃまとエリザ様は、坊っちゃまの振る舞いの所為で冷めた仲となり、坊っちゃまは在学中に他の令嬢を寵愛して、不貞行為によってエリザ様から婚約破棄され、公爵家から追放されていました。そしてエリザ様は……、ずっと彼女を思っていたテオバルトと結ばれます」
テオ……? と親しげに呼ぶレオナルド様は、突然飛び出した級友の名前に戸惑っている。
「しかし、未来を見せられても私は納得出来なかった」
「……どういうことだ?」
「歪でも、困難でも、目の前の坊っちゃまとエリザ様は確かに想い合っている。なのに、いきなり引き離すことが正しいと言われて納得出来ますか? 出来るわけがない! 私は見たものを夢と割り切って無視しました。……ですが、そんな私の行動が波紋を呼んだのでしょう。今エリザ様は原因不明の病で、明日をもしれない状態になっています」
「なっ……」
「そして今日、それを理由に坊っちゃまに婚約の解消を申し出られました。間違いなく、私の見た未来へ向かうためです。私がお二人を引き離さなかったから、エリザ様は病を得た」
「病が、どう関係するのだ?」
「エリザ様は病にかかりはじめの時期、学院で何度もテオバルト殿に助けられたと言っていました。彼からエリザ様の話を聞いたことはありませんか?」
一瞬虚を突かれた表情をした後、レオナルド様は苦々しい顔で、ある……と零した。
「ああ、ある。はじめはそれがエリザ嬢とは私も知らなかった。何度も目の前で倒れる病弱な令嬢がいるという話をテオから聞いて、彼がその令嬢に興味を持ち始めたのを、殿下と随分古典的な手に引っかかるものだと笑ったのだ。
その後、二人の仲が噂になって、それがエリザ嬢だと知って、酷い女だと思った。ウィリアルドがいるのに、テオに手を出すなんて……と。本当に、病気だったのか」
「私の見た未来では、この時期にはとっくにエリザ様はテオバルトと出会って親しくなっていました。……ですが、現実はそうなっていない。何故か? 親しくなることをエリザ様が拒んだからです。
病をきっかけに運命の二人が出会ったのに、エリザ様は坊っちゃまへ好意を寄せていて、テオバルトを必要としなかった。その結果、定められているはずの二人の仲は進展せず、だから、きっかけでしかない病が治らないのです。このままではエリザ様が死んでしまう、ですからっ」
「待て、待てっ」
悔しさを込めて呟けば、目の前のレオナルド様は頭痛を抑えるように額に手を当てて考え込む。やがて、大きな溜息と共に立ち上がると文机から紙とペンを持ってきて、私にもソファーに座るように言った。
「ゴードン、もう一度しっかりお前が見たものとお前がしたことを話せ。話は、それからだ」
◆◆◆◆◆
私の荒唐無稽な話を書き留めながら質問するレオナルド様に答えている間に、時間は瞬く間に過ぎて、気付けばカーテンの隙間が僅かに明るくなっていた。
レオナルド様も同じものに気付き、黒くなる程殴り書きを繰り返した紙を見つめ、大きく息を吐く。
「もう朝か……今日はここまでにしよう」
「はい」
一応の着地点を見つけて、私も肩から力を抜いた。
私の出した結論。
それは、協力者を得て<物語>を騙すことだ。
私の知る未来へ向かう道筋を違えないよう、否、表面上は違えていないよう、取り繕って騙す。
そのために、まずはウィリアルドとエリザの婚約が、彼女の意思で解消されることが必要だ。
多分、以前の女狐の排除が簡単にできたことを考えるに、その理由はウィリアルドの婚約破棄宣言や不貞でなくても良いのだと思う。この辺は、彼女の物語ということが大きいのかもしれない。
婚約の解消によって彼女の体調がどう変わるかは判らない。
本当に助けられる保障もない。しかし、何もしなければ彼女は確実に死んでしまうだろう。
それは嫌だ。
なんとか助けたい。
その必死さで思いついたこの作戦、どうなることかと思ったがレオナルド様の反応は悪くなかったと思う。
黙って未来の出来事について書き記した紙を見つめるレオナルド様は疲れた表情で何度か首を横に振っていた。一区切りついて、真夜中の高揚感が去ったからかもしれない、やがて今更のように聞いてきた。
「ゴードン、今更こんなことを言うのもあれだが、その、お前は……超常の力を、信じているのか?」
「この件に関しましては、信じないでいられない程には、私もエリザ様も影響を受けております」
「エリザ嬢も?」
「はい。あの方の名誉のため、どういったものがあったのか、私の口から勝手には申し上げられませんが、信じるに値する現象がこの十年程の間にありました」
「そんなに長く、お前たちは苦しんできたのだな」
「ええ。坊っちゃまやエリザ様の苦悩に比べれば、私はそばでただ見ていただけですが……お二人は、本当に頑張ってこられたのです。それが報われない未来など、私は絶対に認めたくなかった。……その気持ちがこんな事態を引き起こしてしまったのですから、本末転倒ですがね」
私が坊っちゃまをこれほど愛おしく思わず、前世を思い出してもすべてをあるがまま受け入れていたら、こんな面倒くさいことになってはいなかった。否、それ以降も何度も、手を引く場所はあった。
でも私は諦めたくなかった。
私がお育てした坊っちゃまの<幸せ>を……。
そして、今もまだ、諦めていない。
その気持ちをもう一度レオナルド様に伝えようと顔を上げた途端、私を真っ直ぐ見ていた青い目と目が合った。
坊っちゃまと同じ蒼天の瞳。
しばらくレオナルド様と真っ直ぐ真剣に見つめ合って、やがて青い目の雰囲気が和らぐ。ふわりと笑った顔は坊っちゃまとそっくりだった。
優しい表情のまま、レオナルド様は私を救う言葉をくれた。
「ゴードン、私の弟を誰よりも愛してくれてありがとう。本来なら私たち家族がするべきことをお前が代わってやってくれたから、あいつの運命が変わったのだと私は思う。すべては想いの力故だ、ありがとう」
「レオ、ナルド様……」
「長年一人でご苦労だった。今後は私も力を貸す。共に、ウィリアルドとエリザ嬢を救うぞ」
込み上げてきた熱いものを見られないよう慌てて顔を俯ける。まさか、私に対する労りをもらえるとは思っていなかった。
不意のことで、高ぶる感情が止められない。
今日二度目の涙をハンカチで必死に拭って、絞り出した。
「……私こそ、信じてくださって、ありがとうございます」
「弟の幸せのためだ、信じるさ。さて、まずは、エリザ嬢との婚約解消の話を私からウィリアルドに伝えられるよう父上にお願いしよう」
「嫌なお役目を申し訳ありません」
「いいさ、その程度でウィルが幸せになれるなら、憎まれ役くらいいくらでもかってやる。兄としてな」
さあやるぞ!!
言って、決意を表すように立ち上がったレオナルド様は、堂々とした足取りで窓辺へ向かうと、自ら分厚いカーテンを思いっきり開けて、朝の清浄な光を部屋の中いっぱいに招き入れた。
読んで頂きありがとうございました。