第十一話
廊下に出て控えていたメイドに坊っちゃまの行き先を聞くと、案の定図書室にいるそうだった。案内を断って一人で向かいながら考える。
エリザ様が言うように、このまま生命が費えたら、彼女はまた最初に回帰するのかもしれない。
そして今度こそ物語が望む、嫌な婚約者との婚約解消を経て、ヒーローと真実の愛で結ばれるというエンディングへ挑むのか?
それは嫌だと噎び泣いていた少女の叫びが胸を裂いた。
『やっと、ここまで来たのにっ……』
私もそう思う。
やっと、ここまで来た。
坊っちゃまの幸せは私の何よりもの望み。
……しかしそれは決して、エリザ様の不幸の上に成り立つものではない!!
意思を強く持って、図書室の扉を開く。坊っちゃまは薄暗い図書室の、唯一外の光が入る換気用の窓下に置かれたテーブルに突っ伏していた。
泣いているのだろう……。
綺麗な金髪が日の光に照らされてさざ波のように揺れている。近付くと、必死に押さえた荒い息づかいが聞こえた。
「坊っちゃま」
びくりと震えた肩を撫でて、黙ってハンカチを差し出す。しばらくして、僅かに顔を上げた坊っちゃまはやはり、折角の麗しい顔を涙と鼻水で汚していた。
渡したハンカチでそれらを拭ってから、背筋を伸ばしてこちらを見上げる。
凜々しい美男子に成長したと思っていたのに、涙で腫れぼったくなった瞼や赤くなった頬はまだまだ幼さを感じさせ、最初の日の決意を胸に蘇らせた。
天使のように愛らしい坊っちゃまを見て、原作改変に挑もうと決めたあの日。
あの日と同じように泣いている彼。
抱きしめる代わりに、そばに跪いて手を取って聞く。
「坊っちゃまはどうなさりたいですか?」
「どう、とは、なんだ」
「エリザ様のご意志に従いますか、背きますか?」
彼女の意思に背く。
私の言い方に、坊っちゃまは一瞬吐き出し掛けた言葉をぐっと堪えた。けれど、抑えきれずに……苦しそうに吐き出す。
「私は、エリザが好きだ。だから、病の彼女を切り捨てるなんて、あり得ない」
「では、どうします?」
「良い医者をさ」
「既に伯爵家でも何人もの医師に診せた後です」
「公爵家の力で探せば、もっと良い医者が見つかるかもしれないだろっ」
「では、その後は? 医者が見つかっても見つからなくても、結果が変わらなければ?」
「否定ばかり言うな! 見つかると、エリザは助かると言ってくれ……じい」
「エリザ様から命じられました。坊っちゃまの幸せのため、坊っちゃまがエリザ様を諦めるよう説得せよと」
「……なっ」
信じられないと一瞬は顔を歪めた坊っちゃまも、直に秘められた意味に気付いたのだろう。口を噤み、悲しそうに眉毛を下げる。
やがて、テーブルの上の手を堅く拳に替え、それを睨み付けるようしてにして言った。
「だとしたら、私の幸せはエリザだ……エリザと、幸せになりたい」
「それが坊っちゃまの望みですか?」
「ああ。それが彼女の意思に背くことでも、私は、幸せになるためにエリザを望む」
諦められない……呟く声に私も覚悟を決めた。
「かしこまりました。では共に考えましょう、坊っちゃまとエリザ様、お二人の望みが叶う方法を」
失礼しますと断って、隣の椅子に座り直す私を、心底吃驚した目で見つめる坊っちゃまの手を握り直して、目線を合わせしっかり頷く。
それが貴方の望みなら、私はどんな困難も厭わない。
「僭越ながら、婚約の解消については我々にはどうしようもないとしか言えません」
「何故だ」
「これは家と家との契約であり、エリザ様があの状態である以上、それを理由に解消を求められたら公爵様は受け入れるでしょう」
「私たちの意思は!?」
「解消を希望しているのはエリザ様です」
「私は認めない!」
「失礼ながら、公爵様が坊っちゃまの意思を汲むとは思えません」
坊っちゃまもそれには同意なのだろう、酷く悲しそうな顔で黙って視線を下げた。
そもそもこの婚約は、坊っちゃまを公爵家から出すために整えられたもの。特に重要な契約が付随する関係でもない。
公爵様が酷いわけではなく、最もな理由で相手方から解消を求められたなら、さっさと新しい婿入り先を探すのが建設的だと考えるのが貴族の普通なのだ。
そして何より、ウィリアルドとエリザの婚約の解消は、原作で決まっている。時期も理由も全く違うが、多分その事実は覆せない。
二人の婚約が、エリザの意思によって解消されるのは、決まっているのだ。
原作のメインイベントであるエリザの婚約解消は、本来なら終盤、テオバルトが卒業する頃に、勘違いで次期公爵夫人の座を狙う女狐に唆されたウィリアルドが、テオバルトとエリザの不貞を理由に、公衆の面前で一方的な婚約破棄を宣言することで始まる。
しかし、一度目の生で同じ目に遭い待ち構えていたエリザは、それを逆手にとって、これまでのウィリアルドの非道と不貞を学院の生徒たちの前で詳らかにし、寧ろお前との婚約なんてこちらから願い下げだ!! とやり返す。
居合わせたレオナルド、王子、二度目でエリザと親しくなった同級生なども才女と名高いエリザと王子の友人で人望のあるテオバルトの潔白を証言し、逆にウィリアルドが、家同士の契約である婚約を一方的に反故にしようとした勝手さと女狐との交際を責められ追い詰められる結果になる。
そして逃げ帰った先で、父公爵から自分がメイドの子であること、成人したら公爵の籍から外れることを知らされ絶望したウィリアルドは、自分の救いはもうエリザにしかないと思い。エリザと伯爵家を手に入れるため、性懲りもなく彼女に縋り付いたところを、またテオバルトに撃退されるのだ。
そんな様々な失態と、婚外子なのに公爵位を狙った事実をもって、彼は成人を待たずに家を放逐され、退場する。
しかし、今の坊っちゃまは、嫌味で尊大な顔だけ優男ではなく。学院での友人も多い、女狐と出会っても靡かなかった、極めて誠実な若者。自分が婚外子であることももう知っている。
そして何より、ヒロインエリザの想う相手は、ヒーローのテオバルトではなく、婚約者のウィリアルドである、坊っちゃま。
これほど原作と差異があっても、まだ<物語>は真っ直ぐ進もうとしている。
……ならば望みはある。
私が考えているとおりなら、きっと。
「坊っちゃ……」
「嫌だ!! 私は、私は、何があってエリザとの婚約は解消しない!!」
声を掛けた途端、坊っちゃまは私の手を振り払い、錯乱したように激しく首を横に振って全身で拒否を示した。
「絶対に一人になどさせるものかっ。確かに私は一緒にいても何もしてやれない。優しい言葉を掛けることも、抱きしめることも出来ない……それでも、そんな私を、唯一好いてくれた人を、一人になんて、出来ない……」
エリザ様と離れることを、彼女との婚約の解消を、激しく拒否する坊っちゃまを見つめ、ふと思った。
多分これもある意味原作通り、なのだろう。
ウィリアルドは、自分で婚約を破棄しようとしたくせに、真実を知った後は、エリザとの婚約にしがみついた。
彼女の夫にならなければ貴族としての自分の未来はないのだとやっと自覚し、手のひらを返して、これまでのことは水に流し、改めてやり直そうとに持ちかける。
エリザからすれば、今更何を? だ。最早婚約は解消され、貴方に情はないとずっと見下していたエリザに冷たく遇われ、激高し暴力を振るおうとしたところをテオバルトに止められて、伯爵家から追い返される。
そして恥の上塗りをしたとして、父公爵からも見放され、即刻実家も追い出される……そういう流れ。
坊っちゃまのエリザ様への執着の意味が原作とは全く違っていたとしても、婚約解消を拒むのは、ウィリアルドの行動として正しい。
流れは、同じなのだ。
なら、望みは、きっと……。
考え、自分を鼓舞しながら、駄々っ子のように身を揺する坊っちゃまの肩を掴んで、落ち着くように二の腕を撫で擦る。
「エリザじゃないと嫌だ……エリザを、幸せにしたいんだ、じい」
エリザ、エリザ……と子供のように泣いて愛しい人名前を呼ぶ。
さっき聞いた、坊っちゃまの名前を繰り返すエリザ様を思い出した。
こんなに求めているのに。
今の彼らは絶対に結ばれないことが決まっている。
「父上にお願いする。私はどうなっても良いから、エリザと添い遂げたいと頼ん」
「落ち着いてください、坊っちゃま」
「私はどうなっても良い、エリザを」
逸る坊っちゃまを押しとどめる。
無謀かもしれない。
針の穴を付くような僅かな可能性。
けれど……やはり私は願ってしまう。
私のお育てした坊っちゃまの<幸せ>を……。
「坊っちゃま、それはなりません」
キリリと身が引き締まる冷たい風の吹く、冬の日の早朝。
私はレオナルド様と二人、無事学院を卒業された坊っちゃまの門出を、公爵家の門前で見送っていた。
「身体だけは厭えよ」
「はい、兄上もお元気で……最後まで、ありがとうございました」
「よせ、お前はたった一人の弟。私は当たり前のことをしただけだ。これからも私はお前の兄で、お前は弟なんだから余計な気を遣うな。手紙、待ってるからな」
「はい……では、行ってきます」
公爵令息とは思えない簡素な身なりで小さなトランクを持つ坊っちゃまは、先日、公爵家の籍を外れた。
そして今日、名実共に公爵家からも離れていく。
ガシャンと音を立てて閉じた鉄扉の向こう側、遠ざかっていく坊っちゃまの背中をいつまでもレオナルド様と見送る。
しっかりした足取りで石畳を進んでいく背中のなんと逞しいことだろう。
一歩一歩確実に、自分の行くべき場所を目指して進む背中を見ていると、知らず、視界が滲んでいた。
……ああ、終わった。
深い安堵感が、長い溜息になった。
あれから三年。
坊っちゃまとエリザ様の婚約は、エリザ様の希望通り卒業を待たずに解消され、その年の春には、エリザ様はご家族と共に領地へ戻られた。
そして婚約者と婿入り先を無くした坊っちゃまは、成人をもって公爵家から放逐された。
原作通り、公爵令息としてのウィリアルドは、今日破滅したのだ。
歩いて行く坊っちゃまの背中が見えなくなってやっと、私とレオナルド様は屋敷へと身を翻す。歩調が早くなっているのを自覚しながら、隣のレオナルド様に話しかけた。
「では、レオナルド様、私はこのまま坊っちゃまを追います。急がなければ、大事な瞬間を見逃すかもしれませんので」
「ああ、だがそんなに急ぐのなら、ウィリアルドと一緒に行くのでは駄目だったのか?」
「駄目です、坊ちゃまは一人で放逐されることが決まっていますので」
話しながらすっかり整理の終わった別館に戻り、最後の点検をし外套を羽織って、再び外に出る。玄関前にはレオナルド様が呼んでくださった馬車が待ってた。
「ゴードンにも世話になったな。長年仕えてくれてありがとう」
「もったいないお言葉、私こそ長い間お世話になりました」
先々代の執事だった頃から四十年近く仕えた公爵家に愛着がないわけがなく。改めて、今日ここを去るのだと自覚すれば、熱く胸に込み上げてくるものがある。
それをなんとか宥めて、もう誰もいない別館を見上げる。
結局私は、半生を捧げて尽くした公爵家ではなく、坊っちゃま個人を選んだ。
私の残りの人生、平均寿命を考えればそう長くはないだろう。
なればこそ、残りの人生は坊っちゃまと共にあり、坊っちゃまの<幸せ>をこの目で見届けたい。
希望を叶えてくれたのは、坊っちゃまと次期当主のレオナルド様だった。
かつての約束通り、レオナルド様はあれ以後どんな場面でも坊っちゃまの味方でいてくださった。
原作ではざまぁ部分以外では殆ど出番もなく。画面に現れる度、彼の起こす行動は兄として、次期公爵としては確かに正しいものなのだが、それはウィリアルドの価値を下げ追い詰めていくものばかりだった。
……でも、もしかしたら原作の彼も、物語の外ではこんな風に真摯に弟を想い。様々に考えてたが故の、言葉や態度だったのかもしれない。
時間が足りなくて、言葉が足りなくて、想いはありながらついぞ判りあえなかった原作の二人。
そう考えれば今日の有様が、原作で描ききれなかったものを補完したかたちのように思えて、少しだけ原作改変に対する罪悪感が薄れるような気がした。
勝手な満足感に少し笑うと、私とは真反対の暗い顔で別館を見上げていたレオナルド様が呟いた。
「なあ、ゴードン……私たちは上手く騙せただろうか」
「判りません。何せ、ここから先は私にも未知の部分ですので、なんとも……」
「そうか……まあいい、どうなろうと結局ウィリアルドが自分で選んだ道だ。私に出来るのはあいつが幸せになれるよう祈ることだけ。まだまだお前には迷惑を掛けるだろうが、弟を頼んだぞ」
「それこそ私の望みどおり、お任せください。では、行って参ります」
「気をつけて、元気でな」
「レオナルド様もお元気で」
深く頭を下げて馬車に乗り込む。
さあ、目指すは、エリザ様が暮らす伯爵領だ。
読んで頂きありがとうございました。