第十話
強い目に見つめられて、思わず頷きそうになった。
その意志の強さに、負けそうになった。
けれど逆に……彼女の強さが、私を引き留める。
何故なら、これもきっと強制力の結果だと思うから。
原作にあるとおりに、エリザ様から坊っちゃまに告げられた婚約の解消は、しかし原作とは似ても似つかないシチュエーションで、悲哀に塗れた苦渋の決断。
愛しい人の幸せだけを願って別れを選択する彼女から感じるのは、ただただ強い想いだけ……想い故に決別を告げるしかない悲哀が私を奮い立たせた。
「……一つお答えいただけますか」
「なに?」
「学院でエリザ様が特定の男子生徒と親しくしていると伺いました」
聞いた瞬間、驚いて瞬いた水色の瞳から一粒、雫が落ちた。
「あ……ああ、テオバルト様のこと。そう、貴方まで知ってるなんて、当然ウィルも知っているのね。……そう、そんなに広まってたの。…………だから、しばらく手紙も花束もなかったのね」
驚きを一瞬で納めてすぐさま答えたエリザ様は、言葉途中で納得するように何度か頷いた。たったそれだけで、彼女はすべてを察したのだろう、謝罪を口にする。
「私が甘かったわ、火種がなくとも煙が立つのが貴族というものなのに……迂闊でごめんなさい。でも、正直私にもどうして急にあんな噂が広まったのか、よく判らないの」
悩むように眉を寄せたエリザ様は、天井を見上げて思い出すようにポツポツ零す。
「テオバルト様と最初にお会いしたのは、秋、だったかしら? 学院の中庭で立ちくらみを起こして倒れた私を、たまたま通りがかって救護室まで運んでくださったのが、テオバルト様だった。今思えばあの頃からもう体調不良だったのかもしれない。それから、無理して学院に通っている間、何度も具合が悪いところを助けていただいたの。でも、本当にそれだけ」
知っている。
本来なら二人は、エリザが三年生の秋、中庭でウィリアルドから理不尽に責められている場面にテオバルトが偶然出くわして、出会うはずだったのだ。
一度目あまりに酷いウィリアルドの態度に、つい口を挟んでしまったテオバルトの正義感を覚えていたエリザは、二度目にも同じ場面で出会った彼を好意的に受け入れる。
それからも何度も同じような場面で邂逅し、苦笑混じりに親しくなって、やがて義憤に駆られたテオバルトが、爵位のせいでエリザが反抗出来ないなら自分がウィリアルドに抗議してやると持ちかけるまでになった。
しかし、人生二度目のヒロインは、達観したまなざしで、それをきっぱり断る。本当にどうにかしたいと思ったら自分でやる、他人は手を出してくれるなと拒否した彼女の高潔さに、テオバルトははっきりと彼女への恋心を自覚する。
…………はずだった。
しかし、今の坊っちゃまとエリザ様の仲は、表面上はどうであっても、良好そのもの。原作通りの出会いの演出は出来なかった。
それでも原作通り進もうとする物語が、齟齬を解消するため打ち込んだ楔が、原因不明の体調不良なのだろう。
エリザ様に病を授けたのは、強制力だと確信する。
困ったように眉をハの字にしているエリザ様に頷いて、続きを促す。
「一度、ご迷惑を掛けたお詫びを申し出た時に、妹さんの誕生日の贈り物を選ぶのに街へ付き合って欲しいと誘われたことがあって、でも、友人でもない婚約者のいる女を堂々と誘うなんてありえないでしょう?
常識がないって断ってからはなるべく避けてたのに、それでも、何故か会ってしまうし、会えばあちらは親しげに話してくるし……困ってたのよ」
しかし、その頃にはエリザ様の体調も悪くなっていて、そちらにかかりきりになり……結果、不名誉な噂が一人歩きしたようだ。
多分、エリザ様の言う誘いとは、アニメにあったテオバルトとのお出かけ回のことだと思う。
相変わらずウィリアルドに理不尽に扱われるエリザを心配したテオバルトが、気晴らしという親切心と少しの下心を持って、妹のプレゼント探しという口実を設けて彼女を祭りへ連れ出す話。
しかし当然二人きりではなく、エリザの立ち回りによってウィリアルドの真実を知り、味方になった同級生たちも一緒だった。
なのに、後日それを知ったウィリアルドから、慎みがない、はしたない、婚約者のいる自覚がない、こんな尻軽が未来の妻など耐えられないと、学院の食堂で鬼の首を取ったように責め立てられる。
自分は隣に女狐を侍らせているのに、だ。
そこに騒ぎを聞いたテオバルトが駆けつけて、呆れて言葉も出ないエリザを庇う。元凶の登場に、ウィリアルドは嬉々として破綻した理屈を並べ立てるもののテオバルトに完璧に論破され、結局すべてを見ていた王子にもレオナルドにも冷めた目を向けられることになった。
そしてウィリアルドは、公衆の面前で恥をかかされたと、エリザだけでなく、下位貴族なのに自分に刃向かったテオバルトにも憎しみを抱くようになる、という流れ。
そこに繋がる道を、エリザ様は平然と退けた、坊ちゃまを想うが故に。
それが、病が長引いている原因だと思う。
病をきっかけにヒロインとヒーローを出会わせたのに、二人の仲が進まない。本来なら起こるべきイベントがいつまで経っても起きない。
だから、エリザ様は回復しないのだろう。物語にとってはきっかけでしかなかった体調不良は、その先がないために、癒えることなくエリザ様を蝕み続けている。
これで判った。私が考えていたとおり、原作の流れや行動を強制する力はあっても、物語自体に<意思>はないのだ。
つまり……。
「色んなことを言われたわ、ウィルがいるのに酷いとか、ウィルがあれじゃ仕方ないとか…………何も知らない小蠅のくせにっ。私たちがどんな思いでこの関係を続けてきたかっ……。私がどんなにウィルが好きか、誰も、知らないくせに!! みんな勝手に、勝手に!! 勝手ばかり!!」
「お嬢様!」
突然叫び、上掛けに拳を叩きつけ始めたエリザ様をサラさんが慌てて止める。サラさんに宥められ、枕に顔を埋めたエリザ様は力なく呟いた。
「今度こそ、ウィルと一緒になれると思ったのになぁ……」
落ちた呟きが、思考の海に沈んでいた私をすくい上げた。
励ますように手を握るサラさんの向こう側、燦々と日の光が降り注ぐ窓へ目を向けたエリザ様は、そちらを羨むように見つめて呟く。
「ねぇ、このまま死んだら私また生き直すの? 折角ここまでやってきたのに、また最初からやり直し? 私、何か間違えた? そもそも、なんのための、やり直し? これって何かの罰? 前世の私は、そんなに悪いことしたの?」
「お嬢様」
「やり直して、ウィルとも上手くやっていけてたのに、また最初からなんて……もう無理、気力が持つわけないじゃない。私には幸せになっちゃいけない呪いでもかかってるの? だから、ウィルもああなの?」
「お嬢様、落ち着いてください。お嬢様が幸せになってはいけないなんてことあり得ません。お嬢様は聡明で、頑張り屋で、私たち使用人にも優しい最高の主なんですから、こんなに素晴らしいお嬢様が幸せになれない定めなど、ありえません」
「ありがとう、サラ。一人でもそう思ってくれる人がいて嬉しい。……でも、やり直して、やっと、やっと、ここまで来たのに、また死にそうになってる。前世の私も、若くして死んだわ。なら、あの日を越えられないように寿命が決まってるのかもしれない」
「お嬢様!」
「だって、そう考えないとおかしいじゃない。こんな急に、原因不明の病なんて……、あぁ、このまま、死にたく、ないなぁ」
明確に終わりを意識した言葉の数々に勝手に足が震えた。
「ウィルに忘れられちゃうの、嫌だなぁ。やり直せるとしても、また最初からでしょう? ……こんなに辛いなら、いっそ、好きにならなきゃ良かった。前の酷いウィルしか知らなかったら、こんなに苦しくなかったのに。
ウィルがまた冷たくなるなら、やり直すのはもう嫌。やり直しても、ウィルがまた私を好きになってくれるとは限らない。寧ろ、前みたいに嫌われて、ウィルがあの女を好きになるところを見なきゃいけない可能性の方が高いなんて、そんなの、もう嫌よぉ……」
「お嬢様っ……」
ウィル、ウィル……名前を呼んで子供のように噎び泣き、サラさんに縋ってやり直しの絶望に嗚咽を零すエリザ様の声を聞いた瞬間、胸にせり上がったのは……罪悪感ではなく、どうしようもない怒りだった。
確かに、私は身勝手な理由で原作を壊そうとした。
坊っちゃまの幸せだけを願って、物語の改変に挑んだ。
すべての原因は私。
物語が原作通りに進まないのは、私の行動の所為だ。
私が坊っちゃまの破滅の未来を回避した結果、ヒロインが死にそうになっている。
今彼女を苦しませ泣かせている原因は、突き詰めれば私だ。
エリザはテオバルトと結ばれると知っていたのに、ウィリアルドと惹かれ合っていくのを止めなかった。
エリザが、ウィリアルドを好きになったことが間違いなのだとこの結果は示している。
彼女が選ぶべきはテオバルト以外いない。
それは判った。
だが……。
それは、ヒロインの意思を殺しても成し遂げなければならないことか?
そもそもは、この人が幸せになるための物語だろう?
なら、相手が坊っちゃまでも良いじゃないか!?
こんなに好きだと本人が言っているんだ、認めて欲しい!!
神よ!!
この世界を造ったものよ!!
どうか、どうか……!!
唇が切れる程噛んで唱えても、返事など当然無い。
物語の行き着く未来は一つだけ。
ならば、この後私に出来ることも一つだ。
この物語を壊した責任を負い、坊っちゃまにもエリザ様にも必ず、<幸せ>になっていただく。
それがどんなかたちで、
どんな終わりになっても。
決意を新たに、問いかけた。
「……そこまで仰っていても、婚約解消の意思は変わりませんか?」
エリザ様はピタリと啜り泣きをやめ、酷くゆっくりこちらを向く。涙に濡れて真っ赤になった瞼や頬が痛々しい。
私と真っ直ぐ見つめ合って、彼女は指先で頬を拭い、表情を引き締めて頷いた。
「……だから、よ。私はウィルが好き。だから彼に幸せになって欲しい。ウィルを私の運命に巻き込んで不幸にしたくない……誰よりも、好きだから。
どう説得するかは貴方に任せる、噂を利用するのでも良いの。お願い、ウィリアルドを幸せにして……行って、ゴードン」
強い意志に再度促され、今度こそ私は飛び出していった坊っちゃまを追った。
更新遅くてすみません。
読んで頂きありがとうございました。