序 魔王と執事
執事キルヴァイスの前には、ソファに座る魔王の第三王妃、オルヴァナがいた。
オルヴァナは、火焔族の女王だ。紅色の髪はドレッドヘア、目は美しくも毒々しい真紅だ。
オルヴァナは、自らの傍らに座る息子トーリの頭を撫でながら言う。
「いつまで、あの出来損ないを生かしておくの?」
母子の座る、ソファの少し手前に、キルヴァイスは立っている。
スーツの似合うすらりとした長身、後ろに撫でつけた黒髪、感情を排した銀色の目。執事は、実際には苛立ちを抱えていた。
「そう申されましても。私には、リアム様に手出しをする権限がありません」
「陛下の執事でしょ」
「そうです。貴方の、ではありませんし、後継者争いは、後継者候補同士で行うものです」
「偉そうに」
「そうですね。私などが相手では、奥様も気分が悪くなるでしょう。では私はこれで」
と、回れ右して出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!出て行けなんて、言ってないわ!」
慌てて、引き留めるオルヴァナ。
執事は、内心で毒づきながら全くの無表情で振り返る。
オルヴァナは、息子に、自分の部屋で遊んでいる様に言って、退室させた。
「いらっしゃい」
オルヴァナは、寝そべる様にソファの肘置きに両腕を乗せ、気だるそうに言った。
執事は、無表情に歩み寄り、自ら跪いた。
オルヴァナは、満足気に微笑む。執事の顔に自分の顔を近づけ、鮮やかな紫色の唇を執事の唇に重ねた。
執事は、眉一つ動かさなかった。
人間の世界の、とある国の王の執務室―――。
窓からは、城の立派な中庭が見える。
窓際の執務机には国王が座っているが、何も見えていないし、聞こえていない。心を奪われ、魔王ヴァルディシオンの傀儡になっていた。
「王妃たちの面倒を見るのは、もう辞めたいです」
キルヴァイスは、国王の傍に立つ魔王にはっきりと言った。
ヴァルディシオンは、にやりとしてキルヴァイスを振り返る。
「まあ、そう言うな。今は重要な時だ。もう暫く辛抱してくれ」
「嫌です」
キルヴァイスは、前魔王の執事だった。前魔王をヴァルディシオンが倒した際、前魔王に付いていた魔族は皆殺された。
キルヴァイスは、ヴァルディシオンに魔剣で胸を貫かれた。
剣を引き抜かれ、傷口から、口から、黒い血が噴き出す。前魔王を倒した瞬間から新たな魔王となったヴァルディシオンは、全身にその血を浴びた。魔王の体は、あらゆる色の血に染まっていた。
キルヴァイスは、倒れた。ふっつりと意識が闇へと落ち、そのまま永遠に目を覚まさない筈だった。
しかし、気が付くと、ベッドの上に寝かされていた。
キルヴァイスは、魔王に命を与えられ、生かされた。それは別の視点から見れば、血の契約だった。魔王の命ある限り、キルヴァイスは嫌でも魔王に尽くさねばならなかった。
魔王の命令に否と言えば、キルヴァイスの心臓は、いばらの鎖に締め付けられる。それでもキルヴァイスは、顔色一つ変えず、嫌と言った。
魔王は、微笑んだ。
「俺の為だ。それでは駄目か?」
執事の表情が、微かに緩む。
「リアム様の為でしょう?」
「それが俺の望みだ。残念だ。誰もあれの真の価値を分かっていない」
「死にかけの赤子です」
「言葉が過ぎるな、キルヴァイス。仕置きするぞ」
キルヴァイスは黙り込んだ。心臓の痛みで気を失いそうだ。
魔王はうっすらと微笑んだ。
「近い将来、お前はリアムの真の姿を目撃することになる。心して待っていろ」
そう言って、右手を差し出した。
キルヴァイスは、何も言わず、その手に自分の右手を乗せた。沈黙は、了承であった。
二人の姿は、忽然と執務室から消えた。