9◎日取りの秘密
広い中庭を全速力で走り切り、私たちは回廊に辿り着く。途中、足がもつれかけた私の手を、マテオは自然に引いてくれた。疾走とは違う原因で、胸が少し苦しくなった。マテオの手は走っても汗ひとつなく、肉厚な掌も頼もしい。剣に馴染んだ指はしっかりとした骨格を示し、皮膚は何度も豆が潰れて硬くなっていた。
私とは違う手。魔法使いである父とも違う。逞しく、実直な手だ。爪もきちんと整えられていて、お見合いには真剣に臨んでくれたことも伝わってきた。
わが家を守ってくれている剣士たちの爪はギザギザで、たまに剥がれたり割れたり血生臭い。おそらくマテオも普段はそうだ。それが想像出来る傷や豆の痕がある。だからこそ、身だしなみに気を遣ってくれたことが、とても嬉しい。
「お父様」
「なんだい、カミラ。そんなに慌てて」
「マテオもどうした。ご婦人を走らせるなど」
父親たちの嗜める声には、不安が滲む。
「お母様、インク工房の視察からお戻りになった?」
「もう戻っているんじゃないか?身仕舞いを整えてそろそろ来るだろ」
父は呑気なものである。何だそんなことか、とばかりに腰を下ろした。マテオのお父上も座る。
「本当に?」
私は疑いを込めて、その場にいた召使いたちをぐるりと見渡す。誰も言葉を発しない。
「私、見て参りますわ」
「こら、カミラ。お客様に失礼だぞ」
父の瞳は灰青で、不機嫌な時にはとても冷たく見える。
「でも」
私は言い募る。
「お昼にもお戻りにならないなんて、何かあったのではなくて?」
「視察に行ったのだ。工房の話をしながら村長や職人と食事をしてくると聞いている」
私は拍子抜けして、膝の力が抜けた。へたへたと座り込みそうなところを、マテオの安定感がある腕が支えてくれる。思わず顔が熱くなる。
「ありがとう」
恥ずかしくて一瞬しか顔を見られないが、なんとかお礼を搾り出す。
「いや」
マテオも目が合うと、鼻梁を赤く染めてパッと眼を逸らした。それから2人してチラリと視線を戻して、無意味に含み笑いを交わした。
「ほら2人とも」
父親たちは、その様子を満足そうに眺めて中庭へ押し戻す仕草をした。
「余計な心配をしていないで」
「テーブルに戻りなさい」
私たちは、早とちりを恥じる。
「じゃ、その、ごめんあそばせ」
「お恥ずかしい、では、後で、また」
軽く頭を下げてそそくさと木の下に戻る。
「あ、でも」
私は足を止める。腕を貸してくれていたマテオも立ち止まる。
「今度は何だい?」
父の声は優しい。
「なぜ、お見合いを今日にしたんです?視察は今日でなければならないのでしょう?何故同じ日に?」
「私の都合なんだ」
私の疑問には、聖剣侯爵カサヴェテス様が答えた。
「マルケス領に来る途中、崖崩れで足止めを喰らってしまってね。本当は2週間前に着く予定だったのだよ。悪いことをしてしまったね」
そういえば、そんなことを聞いた気がする。
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続きます