13◎普通の人
「このお見合いもな」
「ええ。あの小説で婚約したからって、私たちも婚約しなければならないなんて、考えることないのよ?」
本当は、私としては婚約したい。もうかなり気に入ってしまった。だが、小説の筋書きだから、物語を終わらせて正しい輪廻に戻りたいから、という理由で婚約を押し付けてはいけないと思ったのだ。
「父には、互いに気に入らなければ無理に婚約しなくても良いって言われてる」
マテオは真剣な顔で、背筋を伸ばして告げた。
「あら、うちもよ。お父様、甘いから」
私も緊張しながら、同じように背筋を伸ばす。
「世間では珍しいらしいな」
「そうみたいね」
マテオは急にモジモジし始めた。どうやら大丈夫そうである。元の人問題も解決したようだし。
「あの、カミラ」
「はい」
「そのう、どう思う?」
「え、私?」
マテオは、ハッとして一瞬唇を引き結ぶ。それから徐に言葉を紡いだ。
「いや、すまない。どうだろう、俺たち、婚約してみては?」
「なによ、歯切れが悪いのね?」
「いや、その」
私たちは初対面だ。お見合いなのだが、好感触なら、またお会いしましょうという言葉が適切である。後日、家同士で婚約が成立するというのが、この世界での慣例だった。だからマテオは、早々に心を決めてしまった自分が怪しまれるかも知れない、と不安なのである。
「どうだろうか」
マテオは繰り返す。
「いいわよ」
私はわざと軽く答えた。
「いいのかっ!」
マテオが隣にいた。何が起きたのか解らない。正面に座っていたマテオが、気がついたら隣りにいた。白い小さな花が咲く大樹の陰で、根元の苔や草花に膝をついて見上げてくる。なんて優しい菫色。茶色の癖毛は柔らかく春風にそよぎ、緊張のあまり鼻の穴が膨らんだりすぼまったり忙しい。
「ええ。いいわよ。お父様たちに報告しない?」
「する!」
マテオは立ち上がると、丁寧に私の手を取った。マテオの手を借りて立ち上がり、大人たちの方を見る。
「魔法伯爵夫人じゃないか?」
大人テーブルにひとり増えていた。真っ黒な髪を高く結い上げた妖艶な婦人である。母だ。血色はよい。肉付きもよい。小説で虐待されて骨と皮ばかりだった役の人物とは、似ても似つかない。呑気に手を振っている。
「うふふふ!そうよ!母だわ」
「さ、お手をどうぞ、わが未来の花嫁殿」
「まあっ、マテオったら」
急に図々しくなったマテオの腕を軽くはたく。
「何これ?樫の木のテーブルみたいに硬いわ」
「ははっ、頼りになるだろ?」
「ふふっ、そうね!さあ、行きましょ」
「ああ、行こう」
すっかり変わってしまった怪奇小説は、元の設定など無かったかのようだ。今は、明るく健康的なホームドラマ世界として進行している。きっとこの人生が終わったら、私もこの人も、あるいは私たちの親を動かす魂も、「普通の人」用の転生列に並ぶのだろう。
「ねえ、また転生列で会いたいわね?」
「気が早いよ!今そんなこと考えんな。縁起でもない」
マテオは呆れて顔をしかめた。しかめた弾みに、柔らかな茶髪に留まっていた白い花びらがハラリと落ちる。それは、血を吸い人を隷属させる怪物とは程遠い、清らかな心を意味する小花のものなのである。
「いい香り」
私は地面に落ちる前に、手を伸ばして花びらを受け止めた。上を向けば、花の蜜よりも甘い眼差しが待ち受けているとも知らず。
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完結です