麒麟 ⅳ
――ジャリ……、3人は奥に進んだ。
「あの柱にあるのが、ひと月前のものだと思うけど……」
彼女は、杭を柱と呼んだ。
灯りが動く。それが照らしたのは黒い塊だった。途端、塊が膨らみ破裂した。パッと飛び散った黒い破片は1頭、1頭がコウモリだった。それが飛び去ったあとに残されたのは赤黒い遺体だった。薄らと赤く輝いている。骸骨と化した他の遺体とは異なる、肉感的な存在だった。まだ〝命〟の香りがする。
咲耶は、夢の中で杭を突きさされた場面を思い出した。彼もそうされ、コウモリに肉をついばまれていたのだろう。そんな彼は、見た目こそ生きていた当時の姿を失っているものの、筋肉も股間の突起もそのままで、つい最近まで生きていたのが明らかだった。不思議なことに両腕だけが黒く、細い枯れ枝のようにゴツゴツしていた。
「他家の神像を盗もうとした男だよ」
咲耶はトヨの顔に目を移し、天具に聞かされたことを思い出した。守護神でない神像に触れただけで腕が焼けたという話だ。同時に、この村には犯罪などないと法山が話したことも思い出した。
犯罪はあったのだ。そして裁かれた。……咲耶はもう一度、串刺しにされた赤黒い遺体に目をやった。そうできるように、トミがそれを長く照らしていたようだった。
「誰がこんなことを……」
「決まっているだろう。神様だよ」
トミが言った。
この村は特別だ。物理的にも、法的にも隔離されている……。そう話した天具の硬い表情を思い出した。この村の人たちは、警察でも裁判でもなく、神様、いや、自分たちの力で犯罪者を裁いているのだろう。
遺体から赤い霧状の物がふわりと拡散した。それまで見てきたものとは違った大きなものだ。それが真直ぐ向かってくる。
「魔物が……」
咲耶はトヨの背後に隠れた。いや、トヨとトミが咲耶の前に出ていた。
「ずいぶん沢山いるね」
「あれの魂は食い尽くされたのかもしれないね」
2人はそんな言葉を交わしながら守り刀を振り、異界の物をあっという間に打ち払った。
「雅と月子は?」
友人も同じような目にあっているのかもしれない。そうさせてはいけない。咲耶はトヨに迫った。
「ここは裁きの家……。彼らは罪を犯した者たちだよ。咲耶さんの友達は、どうなのだろうねぇ」
不気味な口調だった。
「きっと、あそこにいますよ」
――ジャリ、ジャリ……、不快な音を立ててトヨとトミが進んでいく。咲耶は彼女らを追った。
懐中電灯の明かりが大きく動き、離れた場所を照らした。そこに浮かんだのは若い女性だった。やはり赤い霧状の物に薄らと覆われている。真っ白な肌にふたつの乳輪、下腹部にわずかな陰毛があって、その下から杭が生えているように見えた。杭が光っているように見えるのは、体内から流れ出すもので濡れているからだ。両脚はだらりと伸びていて、地面まで届いていなかった。
「ヒャ……」
眼にしたものの衝撃で咲耶の腰が砕けた。後ろに転がりそうになったのを、両手で支えた。いや、背後にいた誰かに支えられたのだけれど、それが誰か確認する余裕はなかった。眼も思考も光が照らす遺体に釘づけになっていた。
白い遺体は雅のものとも月子のものともわからなかった。そうあって欲しくないという願望が眼を狂わせたのかもしれない。なによりも、口から突き出た杭の先端で、顔の上半分が後ろに押しのけられていて見えなかった。
「まさか……」
座り込んだまま明かりの先を見つめていた。遺体は雅だろうか、月子だろうか? それともまったく別の誰かだろうか?
光が動き、もうひとつの裸体を浮き上がらせた。それは少し小柄だった。乳房の下に副乳らしいものがあった。
「お友達でしょう」
トミの声は確信に満ちていた。
最初に見たのが月子で、今、光に浮かび上がっているのが雅だ。体格からそう判断できた。誰が、どうしてこんなひどいことを……。今までに経験したことのない怒りと悲しみと疑問が三つ巴になって胃袋をかき乱して爆発した。荒れ狂う獣のように……。彼女らの魂が、今まさに、魔物に襲われている。
「ミヤビ! ツキ!」
身体が勝手に動いていた。転がっている骨に足をとられ2度転んだ。膝をすりむいたが痛みはなかった。
雅の胸元に抱き着いたとき、肌の冷たさと裂けた口元から流れ落ちた生乾きの血液の臭いで彼女の死を実感した。だらりと下がった右手の指にバラの花飾りがついた指輪があった。顔は見えないが、雅に間違いない。自分に言い聞かせるのがやっとで、もはや月子のもとに走る気力はなかった。月子に触れたところで何も変わらない。絶望に押しつぶされそうだった。
雅にまとわりついていた異界の物が静かに忍び寄り、咲耶を覆った。魂が削られゾワゾワした不快感を覚えたが、痛みはなかった。
「どうして、どうして、どうして!」
それは死んだ2人に対する同情や悲しみではなかった。彼女らが殺された理由が分からない困惑だ。胃袋を食い破った獣が、脳の中で遠心分離器のように回転していた。
「雅と月子が何か悪いことをしたのですか!」
トヨとトミに顔を向けると目がくらんだ。彼女らは守り刀を光らせて、魔物を打ち払いながらじりじりと近づいていた。
「お友達は……、咲耶さん。あなたのために死んだのよ」
天と地がひっくり返ったような気がした。駆け巡っていた獣がピタッと止り、黄金色の眼をトヨに向けた。沸騰していた血と感情が一気に冷めた。
「私のため?」
「あなたが邪悪な存在だから……」
トミの手にした明かりが、遺体から咲耶の顏に移動した。眼が痛む。手で、光を遮った。
「咲耶さん。あなたが大神琉山を殺した」
「私が?……あれは麒麟が……」
麒麟を見たのは幻覚で、自分が体当たりしたのかもしれない、……推理が再び頭をもたげた。それに気を取られ、背後に近づくヒタヒタという足音に気づかなかった。
「……それなら裁かれるのは私のはず。雅や月子は関係ない」
「咲耶さん、あなたもお友達も、神の怒りを鎮めるための贄となるのです」
トヨは胸元で両手を上に向けていた。そこで朱雀の神像が輝いている。
「ニエ……、それってどういうことですか?」
「生贄じゃよ。命を捧げるのじゃ」
左隣で低い声がした。
「エッ……」
そこにあるのは比古造の葬儀で見た老婆の顔だった。彼女はトヨと同じポーズをとっていて、手に白虎の神像を載せている。
「孫をこの手で送ることになろうとは……」
右側にヒムカがいた。やはり、その手に青竜の神像を載せている。隣にいるアヤメは、青白い光を放つ守り刀を宙にかざしてヒムカを守っていた。彼女の隣に、玄武の神像を携える老婆がいた。他にも数人の老婆や中年女性が咲耶を取り巻いている。ほとんどの者が神像を手にし、他の者は守り刀を手にしていた。
「今から4神がお前さんを裁くのじゃ」
白虎の神像を手にした老婆が宣言する。
トミの懐中電灯の明かりが消された。一瞬、裁きの家は暗闇に沈んだが、直後、老婆たちが手にした神像が光を放った。その光の輪の中に、老婆たちの顔が妖しく浮かんでいた。
闇の中を赤い霧が漂う。それらが、神像が放つ光の輪の中に入ることはなかった。守り刀が鞘に納められた。
――ジャリ、ジャリ……。咲耶に近づく老婆たちの瞳が魔物のようだった。
逃げよう。そう思うのを躊躇わせるのは彼女たちが持つ神像だった。それに触れたら身体が焼けてしまう。第一、迷宮のような黄泉の穴から出られるきがしない。出たとして、村から出られるだろうか? 村の者は、おそらく全員が敵なのだ。
決断できないでいると、咲耶は完全に包囲されていた。トヨの持つ白虎の神像が目の前にある。
「媛蛇虜よ。この者を縛れ」
その声を聞いた途端、咲耶の手足が硬直した。
金縛り?……天具が媛蛇虜は金縛りを起こす魔物だと話していたのを思い出した。彼女らは、魔物を打ち払うのも、従えるのも自由自在なのか……。新たな事実に抵抗する気力を失った。
ヒムカが前に出て咲耶の帯を解く。
止めて……。咲耶は叫んだが、声帯が音を作ることはなかった。
白衣をはぎ取られるのに時間はかからなかった。静寂の中、下着が切り裂かれる音だけがした。
「柱を持て、火を焚け」
氷のような声がして、カラカラカラと音をたてて杭が引きずられてくる。目の前に薪がつまれて火がつけられた。パチパチと火が爆ぜ、裁きの家が赤く染まる。麻の実が投じられ、甘い匂いが人々の感覚を麻痺させた。
咲耶は背後から押されて前のめりに倒れた。かろうじて両手をついて四つん這いになった。
――ヒヒヒヒヒ……、それは老婆たちの笑いか、悪魔の声か……。老婆らの無数の手が咲耶の背中を押さえ、そのいくつかが彼女の臀部を左右に開いた。そのひとつは富貴のものだったが、咲耶には見えなかった。
咲耶は股間に杭の先端が触れるのを感じた。態勢は夢で見たものと異なるが、老婆たちが杭を突き刺そうとしているのはわかった。石上家の部屋に置いてきた神像が脳裏に浮かんだ。あれを持ち歩いていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。ひどく後悔した。
「オー……」
神を呼ぶ声に、葬儀の日の惨劇を思い出した。が、生きたまま身体に杭を突き刺されることに比べれば、麒麟の爪で腹を切り裂かれたり押しつぶされたりする方がマシだと思った。
「タカムスビノカミよ、スクナビコナノカミ、クズノカミよ。我らが贄を納めたまえ……」
洞窟内に女性たちが祈る低い声がブツブツと広がった。
ひとりの老婆が咲耶の髪を後ろに引っ張る。
嫌だ。助けて。……咲耶はそう叫んでいたが、身体はいうことを利かなかった。老婆にされるがまま、顔が正面を向いた。
「良かろう。納めませい」
若い女性の声がした。新たに大神となった、かつての新神のものだ。彼女は、その手に麒麟の神像を手にしていた。
「エィ……」
老婆の声がして――ズン……、と咲耶は感じた。体内に杭が押し込まれる圧力と痛み、そして絶望が一気に炸裂した虚無を……。
杭の先端が喉を突き破り口から現れる。
すでに肉体的な痛みはなかった。感覚が麻痺したのか、死んだのか、それはわからない。周囲の妖気が強まったのはわかった。自分の魂を食いに来た魔物たちだ。
「神々よ、この世に迷える異界の物を滅せよ!」
大神が大幣を高く掲げて叫んだ。すると老婆たちの懐にあった12の神像が明滅して、4体の黄金色の雲状のものが現れた。それは朱雀、青龍、白虎、玄武の形を作ると異界の物を襲った。そうして飛び交う哀れな物たちはことごとく四神の餌食になった。
異界の物たちを平らげた四神は、それぞれの像の中に消える。それを待って、大神が静かに動いた。
「柱をここへ」
ジャリジャリと骨を踏んで歩いた大神が足元を指した。そこには深い穴が開いている。
咲耶の背中を押さえていた女性たちが8人がかりで物体と化した咲耶の身体を運び、大神の指示した穴に杭を立てた。咲耶のカッと見開いた両眼が虚空を見上げた。
なんて無様な格好だろう。……咲耶は他人事のように考えた。こんな風に死ぬとは考えてもみなかった、とぼんやり生きてきた自分を笑った。
「サク、助けて」
聞いたのは雅の声だった。
「サク、あなたのせいよ」
恨めしい声は月子のものだ。
「そうよ。私のせい……。ごめんなさい」
もはや声帯は動いていなかった。
「サク、助けて」
「私もあなたたちと同じなのよ。見ればわかるでしょ?」
「あなたは違うわ」
それは母、明心の声だった。
「そうだ。咲耶は違う」
それは父、比呂彦の声だ。
「絶望を知った咲耶は無敵なのよ」
無敵?……母がおかしなことを言うと思った。絶望などそこら中に転がっている。
「咲耶がそれを経験したのは初めてだろう?」
父親の声を聞き、確かにそうだと思った。これまで何を見ても何を失っても絶望を感じたことはなかった。
「問題は、絶望にのまれるのか? そこに安住するのか? それと戦うのか? ということだ」
「お父さん、難しいことを言わないで」
「考えろ。神と共に……。贄はそろった」
「贄? 神? そんなもの……」
自分には関係ない、と答えようとして間違いに気づいた。自分は麒麟を見ている。四神を感じている。
「助けて!」
再び友人の声を聞いた刹那、咲耶の意識が途絶えた。