首だけの葬儀
山上家は出入り口も雨戸も開け放たれていて、人々は思い思いの場所から上がり込んだ。昨夜、並んでいた座卓はかたづけられ、白い布で囲われた空間以外には何もなかった。
咲耶は多賀史と比古一の間に座らされた。比古一の向こう側には弟の比古次が座った。
やがて室内は、30人ほどの白喪服の人間で埋まった。山上家の者を除けば、ほとんどが老婆で、残りも中年の女性だ。誰もが無口で、これから行われる儀式を前に厳粛な気持ちでいるようだった。
――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――
縁側の太鼓が鳴った。打っているのは咲耶と似たような年頃の少女だった。
「新神だ」
比古一が親しげに、小声で教えてくれた。本人は、咲耶の夫になるものと思っているのかもしれない。
腰の曲がった老婆が立った。手には麻糸をまとめた大幣を手にしている。
「皆の衆、これより山上比古造の魂の引き戻しの儀式を行う……」
凛とした声が室内を制圧し、人々は頭を下げた。咲耶はそれに倣った。
「神職の大神琉山、大神さまだ」
再び、比古一がささやくように言った。
――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――
新神がたたく音に合わせ、アヤメと多賀史が白い幕を外した。中にあるのは昨晩と同じ、比古造の遺体とヒムカのやつれた姿だった。
琉山が比古造の枕元に座り、大幣を額の前に掲げてゆっくりと降る。
「オー、魔母衣の地を治めるアメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミよ……」
そこまでは咲耶にも聞き取れたが、その後はモゴモゴと音はするものの、言葉のようには聞こえなかった。これが祝詞というものか……。そんなことを考えながら、声が止むのを待った。
――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――
祝詞が終わると太鼓が鳴り、数人の男性が小さな膳を運んでくる。その中に天具の姿もあった。
参列者の前に置かれた膳には汁椀と小皿がひとつ。汁椀の中身は米と草の実らしいものを混ぜた粥で、真ん中にウナギの肝のような小さな肉片がひとつ……。小皿に乗っているのは一切れの煮凝りだった。咲耶はそのゼラチン質が苦手で、まいったなぁ、と胸の中でつぶやいた。
膳が配り終わると、「いただきなさいませ」とヒムカが言ったが、それは最前列の者たちにしか届かなかった。
「山上比古造の魂、受け取りなさいませ」
琉山が凛と発した。
「いただきまする」
参列者が一同に額を傾け、箸を取った。
食べ方にも礼儀があるのではないか? 煮凝りの中身や粥に入った肉も草の実にも意味があるはずだ。……咲耶は、比古一を窺ったが、彼は何も教えてはくれなかった。
比古一は、小皿を手にすると煮凝りを口に運んだ。咲耶はそれを真似る。口の中でゼラチン質が溶けた。ヌルっとした煮凝りを、目をつむって飲み込んだ。口の中に焼き肉のような固形物が残った。この触感は……。それは、咲耶の記憶に深く刻まれたものだった。
比古一が粥の椀から肉片だけをつまんで口に運んだ。それをしばらく噛んでいた。それから、流し込むようにして粥をすすった。咲耶も同じように肉片を口に入れた。その感触に記憶はない。とても固かった。粥の塩味の具合は良かったが、中の草の実は飲み込みにくかった。
全員が食べ終わったのを見計らって、太鼓が打ち鳴らされた。すると配膳した男性が現れ、膳をかたづけた。
――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――
再び太鼓が鳴った。
「一緒に来てくれ」
比古一が耳元でささやくと立った。訳がわからないまま彼に続き、遺体の枕元に座った。そこにアヤメが炊飯器ほどの大きさの杉目模様の美しい桶を運んできた。中は空っぽだ。
「ここにお祖父様の首を入れてください」
彼女が咲耶に向かって言った。
何を言っているのかわからず、咲耶は遺体の顔と比古一に視線を泳がせた。すると彼が比古造の体を覆っていた真っ白の布団をめくった。
「エッ……」
咲耶は息をのんだ。比古造の身体は頭部だけで、首から下がなかった。あるのは薄っぺらな人型の作り物だ。
やはり……。咲耶は、自分の推理が当たっていると確信した。
「驚かないで。これが村の葬儀方法です。さあ、首を」
アヤメが、目で比古造の頭部を指した。
「はい」
咲耶は指示された通り、比古造の首を持ち上げて桶に入れた。重いと思うことはあっても怖くはなかった。
多賀史が首桶のふたを閉め、天秤棒に括り付けた。
――ドン、ドン、ドドン……、ドン、ドン、ドドン――
「お頭の出立だ。立ちませーい」
琉山が号令を発すると、参列者は静々と立って表に出た。参列者が列を作る。天秤棒を背負った多賀史が列の中ほどに立ち、その後にヒムカ、アヤメと咲耶、と親族が続いた。
「参る」
琉山が先頭になり、葬列は出発した。細い道を山へ、山へ……。
普段なら咲耶は、葬儀の行列など陰気くさと心の底から嫌っただろう。ところがその時、心は躍っていた。もし、行列の中にいるのでなければ、スキップをしたかもしれない。そんな気分になった理由に心当たりはなかった。
「私、浮かれているかな?」
後ろを歩く比古一に訊いた。彼は理由を知っていた。
「麻の実のせいだ」
「麻の実?」
「粥に入っていただろう。麻の実は栄養もあるが、幻覚作用もあるんだ。それで、浮かれた気持ちなのだろう」
「なーる、ほど」
麻というと、大麻か? それは栽培が禁止されているはず。あー、この村は何でもアリなんだ。……などと考えていると、藁草履ですれる皮膚の傷みも忘れた。
坂を上り、碧い深山に潜った。地面まで届く光は少なく、景色は夕闇のようだ。麻の実の効果が切れたのか、足が重くなった。それを忘れるために比古一に声をかけた。
「あの肉のことだけど」
「なんのこと?」
彼が平静を装っているのがわかる。
「煮凝りに入っていたのが何の肉かは見当がつくの。わからないのは、粥に入っていた硬い肉片。あんなもの食べたことがない。あれは何ですか?」
「あれは……」比古一は躊躇していた。が、結局、話した。「……心臓の肉片だよ」
「心臓……?」
人が産まれてから死ぬまで動き続ける心臓。その筋肉が強く硬いということは想像できた。
「先人の心臓をいただいて、その人が持っていた魂と能力を引き継ぐんだ」
「……なるほど。そうなのね」
咲耶は、アヤメや多賀史が比古造の身体を切り刻む様子を思い描きながら、ダラダラ歩いた。
「もう疲れたわ」
行列の歩みは遅いが、藁草履が指に食い込んで痛む。裾の長い着物も歩きにくい。後ろを歩く比古一に愚痴った。
「もうじき黄泉の滝だ。そこには眩い滝がある」
「黄泉の滝……」
良いイメージは浮かばなかった。
パッと空が晴れた。森から出たのかと思ったが、そうではなかった。目の前には水の流れがあり、その先に黒い森が続いている。
流れの上流、北側に切り立った崖があり、上空から落ちる糸のような水流が5本、一体の滝を構成していた。空中で分散する水滴は虹色に輝いていて、〝黄泉〟という言葉が持つイメージとは遠く離れている。青い滝壺は直径10メートルほどで、その上空、直径20メートルほどに渡って樹木の枝が無く、強い夏の日差しがそこから降り注いでいた。
行列は清流に入り、滝壺に向かってジャブジャブと歩く。水底は白い小石と砂で、川魚の影が映っていた。流れは徐々に深さを増し、先頭を歩く琉山の腰ほどの深さに達した。それでも彼女は大幣を掲げながらどんどん進んだ。滝の真下をくぐる時には、水は彼女の胸に達していた。そこに入った者でなければ、琉山が溺れるのでは、と案じただろう。
「禊だ。黄泉の穴に外の穢れを持ち込まないようにするんだ」
後ろで比古一が言った。葬儀が真夏なのは良かったわね、と言った富貴の顔を思い出した。これが真冬なら、心臓麻痺を起こしそうだ。
黄泉の滝で禊をした後、黄泉の穴というところに行くらしい。行列が止まることはなかった。
目の前で滝に打たれた首桶が揺れていた。咲耶は滝の下に入る。トトトト、と脳天を水が打った。水量は少なく、痛むようなことはなかった。胸の中で厳粛な思いが増した。
滝を過ぎると水深が急に浅くなる。列は喘ぐようにして水から上がると足を止めた。そこに濡れた者を出迎えるように火が焚かれていた。先に来ていた天具たちが用意万端、段取りを整えているらしい。
滝を透過した光が乱反射し、立ち上る煙に色を付けている。その光の先に巨大な洞窟があった。ぽっかりと崖にあいた黒い穴の上部には太い注連縄が張られている。
「黄泉の穴だ」
比古一が言った。
「オー、魔母衣の地を治めるアメノミナカヌシノカミ、タカミムスビノカミ、ウブスナノカミよ……」
炎の前で琉山が祝詞をあげた。それは濡れた着物を乾かすためでもあるようで、人々は炎の周囲に輪を作り、思い思いに白喪服を乾かした。
長い祝詞を終えると、「並びませい」と琉山が命じて洞窟の内部に進んだ。
そこは湿度が高く、シダやコケの臭いが満ちている。咲耶は驚いた。洞窟は自然が造ったものだったが、その暗闇の中に点々とともる灯が道を作っている。よく見れば教科書で見た円筒埴輪のようなものの中で油皿に火が灯っていた。
――ザッザツザッ……、ひとりひとりの足音はとても小さかったが、葬列のそれは岩壁に反響し、まるで重武装の軍団が行進しているようだった。
時折どこからともなく赤みを帯びた霧のような物体が現れて葬列にまとわりつく。人々は守り刀でそれを打ち払った。
洞窟の奥に行くにしたがって植物の青くさい臭いがなくなり、動物の息遣いのような生ぐさい臭いが強くなる。分かれ道がいくつかあったが、光の道に沿って進むとやがてホールのような大空間で行き止まりになった。
宙を漂う霧状の物が増えた。咲耶は、全身を走るざわざわしたもので緊張した。自宅のベッドで眠る前に感じるものに似ていた。
そこはあまりにも広く、円筒埴輪の明かりは壁まで届かなかった。ただ、大空間の中央に積まれた薪が浮かんでいる。咲耶は小学生のときに参加したキャンプファイヤーを思い出した。
琉山が積まれた薪の前に立つと、魔法のようにパッと火が着いた。それはあっという間に巨大な火柱になって大空間を照らした。
――ヒッ……、咲耶の息が詰まった。その空間を作る三方向の壁が数えきれない髑髏で出来ていたからだ。
髑髏の空洞の黒い眼が、葬儀の列をじっと見つめている。咲耶は確信した。夜中に自分の部屋に現れる眼や耳が、それらの髑髏のものに違いないと……。
新神が火柱に向かって麻の実を投げ入れる。パッと火の星が昇って消えた。代わりに甘い香りが残った。
「桶を……」
琉山の指示で、炎の前に首桶が降ろされる。比古一に背中を押され、咲耶が首桶の前に立った。なすべきことは見当がついた。比古造の頭部を壁の髑髏の列に加えるのだろう。
咲耶をはさむように、右隣にヒムカが、左隣にアヤメが立った。再び新神が麻の実を火に投げ入れ、咲耶の胸は甘い香りで満たされた。
仕方がない……。諦めて桶から比古造の頭を取り出した。
「あれへ」
琉山の手にした大幣が右側の壁の一点を指した。そこに眼をやると、頭を置くスペースが空いている。ヒムカとアヤメにはさまれて、咲耶は琉山が指した場所に向かった。長い影が頭を納める場所まで伸びていた。
足元がザクザク鳴るのでよく見ると、そこにあるのは砂や石ではなく、様々な形の骨だった。頭蓋骨以外の骨は地面に捨てられているのだろう。
ここは、巨大な墓なのだ。そう思い至った時、足元から赤みを帯びた光が立ちのぼり、咲耶の足が止まった。アヤメが1歩前で足を止め、振り返った。
光は比古造の頭の周りをまとわりつくように飛んだかと思うと、シャボン玉が弾けるようにして消えた。
――炎蛇吏だ……、頭の中で比古造の声がした。
「案ずるな。先祖の魂がここを守っておる」
琉山の声が洞窟に反響した。
咲耶はうなずくと歩き始め、指定された場所までいって足を止めた。その間も、いくつかの赤い影が生まれては消えた。
空いた棚は咲耶の膝ほどの位置だった。膝をついて比古造の頭をそこに置いた。亡くなった順番に並んでいるのだろう。隣の頭にはまだ髪や皮膚、肉といったものが付着していて、目玉があった空洞を足の多い虫が出入りしていた。膝をついた場所には頭蓋骨の破片が散乱しているから、古いものは棚から落ちて砕けたのだろう。古代から何百何千、何万といった頭蓋骨が棚に祀られてきたのに違いない。
「お父様、さようなら」
頭の上でアヤメの声がした。ヒムカも何かを話しているが、内容は聞き取れなかった。
中央の炎の柱が消えてくすぶる熾火に代わっていた。そこで繰り返される赤と黒の点滅は魂の終焉の時を刻む時計のようだ。
新神が熾火に麻の実を投げ入れる。パッと火の星がはじけて消えた。
「億万の御霊よ。冥界の門を永遠に封じ、我が魔母衣村に平和と安寧をもたらしたまえ。億千、億万の地の民よ、己のいるべきところを静に守りたまえ。オー……」
琉山が大幣を頭上に抱えて唱えると、そこにいる者たちも次々に両手を合わせて「オー」と声を上げ始めた。比古一までがそうするので、咲耶も手を合わせて「オー」と声を発した。やがて自分の声さえも、自分のものでないような感覚に陥る。自分の意思で発しているはずの声が、どんどん自分の身体や心を犯し、自由な意思を縛っていった。
「オー」音は神に至る荘厳な音楽だ。それを甘い香りが強化する。人々は音で世界とひとつになった満足を覚える。世界の一部になったのではなく、世界を支配した感覚だ。
神を呼ぶ声は、洞窟をも揺らした。壁面の髑髏の中で赤や青の発光がある。そこに潜んでいた炎邪虜や艶邪虜、燕邪吏などが浄化、消滅しているのだ。
人々はトランス状態にあった。脳が痺れ理性が封じられ、官能にも近い熱い酔いが全身を支配する。自然、身体が前後左右に揺れた。今にも踊りだしそうだ。それは咲耶も同じだった。一瞬、幸利に犯された場面が脳裏をよぎったが、それで状況が変わることはなかった。
「オー……」
神を求める声は終わることがない。その中で、琉山だけがぶつぶつと祝詞を上げている。
壁に並んだ髑髏のふたつの黒い穴の中に眼球が生まれ、欠けた歯の並ぶ口には唇が現れた。彼らも瞳を輝かせ、唇を震わせて「オー」と祈りをあげた。
人々は何を祈っているのだろう?……咲耶は神が与える快楽に酔いながら「オー」と言い続けた。頭が痺れ、脳裏に比古一の顔と、彼に抱かれる様子がよぎった。いや、そうしているような気持ちでいた。