魔母衣村から来た使者
逮捕された隣家の主人は、気づいたら包丁を握っていたが自分は刺していないと主張、隣家には捜査員が出入りしていた。咲耶の元にも2度ほど刑事が訪ねてきたが、事件当時は学校にいて、両親も海外に出張しているので何もわからないと伝えると、それっきり姿を見せなくなった。学校では幸利の失踪が既成事実として受け入れられて、咲耶は夏休みを迎えた。
その初日のことだった。インターフォンの呼び出し音が鳴った。モニターには、眉目秀麗だけれど唇を覆うような髭をたくわえた、どことなく怪しい30歳前後の男性が映っていた。
「どちら様ですか?」
咲耶はモニターに映る男性に向かって訊いた。もしかしたら刑事、あるいはストーカーかもしれない、と思った。
「石上天具といいます。山上比古造さんの遠縁にあたる者です」
比古造という名前は知っていた。咲耶の祖父だ。だからといって、髭面の男性を無条件に信じることはなかった。
「あのう……、父は留守なのですが……」
「お母さまは?」
「母も一緒です」
「はぁ、それは困りましたね。連絡は取れますか? 山上比古造さんが亡くなったもので……」
「お爺さまが……、本当ですか?」
「噓などつくものか。明後日、葬式がある。詳しい話をしたいので入れてもらえないかな?」
入れる?……咲耶は迷った。遠縁の者とはいえ初対面だ。いや、遠縁ということさえ事実かどうかわからない。彼がストーカーという可能性だってある。
「あなたは一人娘の咲耶さんですよね?」
その程度のことならストーカーだって知っているだろう。……咲耶は沈黙を守った。
「あなたはお祖父さんに会ったことがない。それどころか、お父さんが生まれ育った村に行ったことがない。そうだよね?」
客の言うことは当たっていた。咲耶の心が動いた。
「咲耶さん、聞いていますか?」
「あ、はい……」
「ご両親が無理なら、あなたが葬儀に参列すべきだ。莫大な遺産の件もある」
葬儀に出るなんて荷が重いと思った。だからといって無視し続けるのも人間としてどうなのだろう? 実際のところ〝莫大な遺産〟という言葉にも魅かれた。
「わかりました。今、鍵を開けます」
玄関に向かいながら、その日、雅や月子と旅行の打ち合わせをしようと約束していたことを思い出した。
旅行、どうしよう?……悩みながらドアを開けた。
「どうも」
会釈する天具の姿に驚いた。道着のような謎の白衣に古びたジーンズ、足元は下駄で、肩からカンバス布の鞄を下げるという不可解な格好で、清潔そうではなかった。
咲耶が言葉を捜している間に、彼は下駄を脱ぐとスリッパに履き替えた。使い込んだものらしく、下駄には彼の足跡がくっきりと残っていた。
「いやー、中は涼しくていいね」
そう言いながら勝手にどんどん奥に向かった。
「ちょっと……」
慌てて、彼の後を追った。
天具は迷うことなくリビングのドアを開けるとソファーに腰を下ろした。
「すみません。何か冷たいものを頂けるかな? もう、喉がカラカラで……」
無遠慮に言うと、室内にぐるりと視線を走らせる。
咲耶は天具の気配に意識を向けながら、キッチンに入って氷と麦茶をグラスに入れた。彼が座っている場所は、奇しくも、半月ほど前に教師が息絶えた場所だ。
彼は一気に麦茶を飲み干すとグラスを突き出した。もう一杯、欲しいということなのだろう。それを受け取り、もう一度、キッチンに足を運んだ。
「父が生まれ育った村というのは、どこなのですか?」
彼の前にグラスを置きながら訊いた。
「咲耶さんが、こんな美人さんになっているとは思わなかったよ」
彼は質問に答えず、再び一息で麦茶を飲み干した。今度はグラスをテーブルに置いた。
「魔母衣村……。お父さんから聞いたこともないのかい?」
「マホロですか……、全然聞いたことがありません」
「そうか……。お父さんは村の秘密をしっかり守っているんだな。感心だ」
「秘密の村なんですか?」
思い浮かぶのは秘密結社の秘密基地だが、日本にそんな村があるはずない。天具が胡散臭い人物に見えた。
「信じられないだろうけれど、行ってみればわかるよ。で、咲耶さんは覚えていない? 一度、俺と会ったことがあるんだよ。この家で」
「えっ、そうなのですか?……すみません」
古い記憶を真剣に探した。こんな変わった姿をしているのだから覚えていそうなのに、まったく記憶になかった。
「仕方がないか、もう15年も前だから」
「それなら、私は2歳です」
「2歳かぁ。そうだよね。よちよち歩きだった……。覚えているはずがないよな」
彼がすっと立ち上がり、壁際のサイドボードに向かった。
「物騒だな……」
扉を開けると卵ほどのサイズの白い置物を覗き込んだ。
「具墨かな……」
彼がつぶやくのが聞こえた。どういうことだろう?……咲耶は彼の背中を見守った。
「これ、出してくれるかな?」
「あ、はい……」
彼の求めに応じて龍に人が跨った置物を取り出した。何でできているのかわからないが、とても重い。それを天具に差し出すと、彼は首を横に振った。
「俺はそれに触れられない。それ、お湯につけてもらえるかな?」
「どういうことですか?」
祖父の葬儀のために来たと言いながら、そのことを話そうとせず、置物の話をするのが理解できない。
「多分、本物だと思うけど、具墨、あ、塗料のことだけどね。それを落としてみないとよくわからない。本物なら、それを持っていけば、あなたが山上比古造さんの子孫だと、みんな納得してくれるはずだ」
「へぇー」
置物を四方から観察した。龍も人間も精巧に作られているが、それにどんな意味があるだろう。
「とにかく、熱い湯につけてごらん」
言われた通り、それをステンレスのボウルに入れて熱い湯を注いだ。
「それは青龍神と日の神だ。山上家のシンボルなんだよ」
「シンボル?」
湯の中で揺らいで見える置物に目をやった。
「どれくらい、入れておくんですか?」
「3分ぐらいかな」
カップ麺かよ、と思った。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取ってリビングに運んだ。彼の目の前で、それをグラスに注いだ。
「ありがとう。ご両親との連絡は?」
「チベットの山奥で珍しいものを探しているので、しばらく連絡が取れないんです」
両親がチベットに行ったというのは嘘だ。そうでも言わなければ、連絡を取りたいと言われるだろう。
「そうかぁ。やっぱり咲耶さんが行くしかないね」
「はい」
莫大な財産のためだ。両親の代理として葬儀に臨もうと決心したものの、雅や月子と約束している旅行をすっぽかすのも悪いと思った。
「あのう、友達を連れて行ってもいいですか? ひとりじゃ心細いし……」
そこが本当に秘密の村なら、雅と月子は面白がってくれるだろう。
「うーん、連れて行くのは構わないけれど……、未成年だろう? 早すぎないかな」
彼は咲耶が友人を連れていくことに消極的に見えた。でも、高校生が友だちと旅をするなんて、普通のことではないか……。咲耶には天具の不安が古臭い価値観に思えた。
「友達に話してみます。出発は明日ですか、明後日?」
「葬式は明後日の午後からだよ。ここからだと4時間はかかる。余裕をもって、明日行くか、明後日の早朝に出発するか、どちらかだな。……そろそろ、あれを湯から出してみて」
「あっ、そうですね」
台所に駆け込み、ステンレスのボウルの湯を捨てた。白い置物は熱を持っていた。軽くこすっただけで表面の白い塗料が薄皮をむくようにはがれた。中から現れたのは金の輝きだった。
「これ……」
それが金製だということぐらいは、咲耶にも想像がついた。
「純金だよ。山上家の神像だ。その像は霊的な力を持っている。俺の守護神は玄武なので、それには触れられないんだ」
いつの間に移動したのか、天具が隣に立っていた。
「触れたらどうなるんですか?」
「罰が当たる」
彼は大げさな畏怖の表情を浮かべ、青龍の神像に向かって両手を合わせた。
「迷信ではありませんか?」
改めて金色に輝く像に眼をやった。
「以前、他家の神像を盗もうとした男がいた。……それを盗ってどうするつもりだったのか……。今となってはわからないが、いずれにしてもその男は、それを手に取った。瞬間、握った手は肩までひどい火傷を負った。世間から途絶し、信仰深かった村でも、いつの間にか信じない人間が増えていたのだな。が、その事件のおかげで、強固な四神崇拝が復活した。大神と新神の権威も高まった」
真剣に語る天具に眼を向け、この人は真面目に迷信を信じているらしい、と思った。すると、迷信などではないよ……、という父の声が脳裏をよぎった。おとうさん?……問いかけると、とにかく村に行ってみることだ……、と父親は続けた。
「ハイ……」思わず声が漏れた。
「ん?」
天具が妖しいものを見る眼で、咲耶を見ていた。
「あ、すみません。父の声がしたような気がして……」
恥ずかしさで顔が熱くなった。顔を見られないように、先になってリビングに向かった。
「いや、村には特殊な力を持つ者がいる。特に、神の意思を継ぐ者には……。咲耶さんもそうかもしれない。テレパシーのように、遠くのご両親とやり取りができても不思議ではない」
「そうなのですか……。石上さんも?」
ソファーに掛けて尋ねると、彼は首を振った。
「そうした力が得られないかと、天狗のように修行してみたが無駄だった。それでこうして村長の伝言係のようなことをしている」
あまりに深く絶望したように言うので、咲耶は言葉を失った。
「まあ、俺のことはいい。とにかく葬儀だ。行くだろう?」
「はい」
父親の声を聞いたこともあり、自信を持って答えた。
「お父さんから守り刀を見せられたことはあるかい?」
「守り刀ですか?」
そう言ったものには、心当たりがなかった。
「こんなやつだよ」
天具は自分の鞄から長さ40センチほどの小刀を出した。柄にも鞘にも彩色を施した幾何学模様が彫られている。
「ああ、そんな物なら、昔、見たことがあります。てっきりどこかの国のお土産だと思っていましたけど……」
彼が鞘を抜いた。銀色の刃に玄武の彫り物があった。
「俺の守り神の玄武だ。お父さんの物には青龍が彫ってあるはずだ。もし、お父さんが持ち歩いているのでないなら、持参したほうがいい」
「それはどうして?」
「言葉の通り、身を守るためだよ」
「わかりました。探しておきます」
彼の言葉を信じたわけではなかったが、祖父の遺産を得るまで彼の言うとおりにしようと思った。
「ひとりではたどり着けない場所だから、俺が案内する。明日、東京駅で合流しよう」
天具は満足げにうなずいて言った。
「友達に声をかけてみます。少し待ってください」
神像を持ったまま自室に入り、事情を詳しく書いたメッセージを雅と月子に送った。
〖行く!〗
間髪を入れず、雅の返信があった。月子の返事は少し遅かった。
〖私も行きます。明日の午後、出発でいいのね?〗
【ウン、ウチの葬式だから費用は全部、ウチで持ちます】
〖やったー!〗
〖悪いわぁ。でも、ありがとう〗
【どういたしまして】
〖2泊? 3泊?〗
〖4泊? 5泊?〗
月子と雅のメッセージを見て少し考えた。葬式で最低1日は潰れるだろう。田舎だから、もしかしたら2日……。それ以上、長くいなければならないけれど、何もない場所だというから、すぐに飽きてしまうに違いない。
【4泊で、どう?】
〖OK〗
【詳細は天具さんと打ち合わせてから、改めて連絡するね】
〖天狗?〗
【案内人の名前です。石上天具さん。変な格好のオジサンだよ】
〖なんか、会うのが楽しみ!〗
〖了解デス〗
メッセージをやり取りする間、室内がざわついていた。あの眼や耳たちが神像に反応しているようだった。
リビングに戻ると、天具は窓際に立って庭を見ていた。
「3人になるのですけど、いいでしょうか?」
声をかけると彼が振り向いた。
「ああ、多い分にはかまわないよ。村長は喜ぶだろう。ただ村に入ったら行動に気を付けるよう、友だちには話しておいてくれよ。古い因習の残った村だから」
「はい。これは……」神像を持ち上げて見せる。「……友達が触っても大丈夫なのでしょうか?」
「人によるね。四神、知っているだろう?」
「いいえ」
ついさっき、その神像が青龍だと聞いた。天具の守護神は玄武だとも聞いたが、理解してはいなかった。
「青龍、白虎、朱雀、玄武……。4つの神が東西南北に対応しているのは良く知られたことだ。そして、青龍は水を司り、白虎は火を司る。朱雀は時空を、玄武は大地と物質を司る。水は命の始まりで、火は終わり。それは村でしか語られないことだ。山上家は青龍、俺の石上家は玄武が守り神だ。そうした神と縁がある者なら、別の神にはうかつに触らない方がいい。4分の3の確率で痛い目に合う」
「それは、どうやったらわかるのでしょう?」
「すべて伝承だ。婚姻で他家に嫁げば守護神も変わる。アレルギー検査のようなチェック方法はない。とりあえず、それっぽい物には近づかないことだ。そう、友だちにも注意しておいてくれ」
「わかりました」
そう答えたが、半信半疑だった。
「ついでだから話しておこう」
天具は再びソファーに掛けた。
「この世には、四神以外にも神がいる」
「八百万神ですね」
父親に聞いた話を覚えていたので得意げに応じた。
「それとは少し違うが……、似ているともいえるか……。天照大神を知っているかな?」
「はい。伊勢神宮の」
「その兄妹に月読と素戔嗚という神がいる」
「あ、それなら聞いたことがあります」
「ふむ。天照は太陽、月読は月、素戔嗚は大地と海、つまり地球ということになっている。日本人は、その三つの神のどれかの血筋にあたる。山上家と石上家はどちらも太陽……。その龍に乗っているのは太陽神だ」
彼が神像を指した。
「龍に月読や素戔嗚が乗っている像もあるということですか?」
「なかなかのみ込みがいいね。四神と太陽、月、地球の組み合わせができるから12の神像がある」
「それじゃ、青龍の神像でも私が触れられないものがあるということですか?」
「いや、それは問題ない。ただ、違ったものがあるということは知っていてほしい」
「わかりました」
「一応、電話番号を交換しておこうか。東京駅で会えなかったら困る」
彼はカンバス布の鞄からスマホを出した。
「村内では、これは役に立たないけどね」
「日本に電波が届かない場所があるのですか?」
「電話どころか、村にはテレビやラジオの電波も届かない。外に出た時に買ってくる新聞が唯一のニュースだ」
「どれだけ田舎なんですかぁ」
思わず笑った。
「まあしかし、住めば都というだろう。他人と競う必要がない、のんびりした村さ」
そう言って彼は立った。
「これからどちらに……」
用事がないなら、もう少し話を聞きたかった。
「山上さん以外にも、葬儀のことを伝えなければならない村出身の人がいるのでね」
彼はそう言って去った。
その日の夕食時、テーブル上ではあの神像が輝いていた。咲耶が置いたのだ。
「純金だったのね。知らなかったわ」
明心が目を細めた。
「お父さんが白塗りにして隠していたのね?」
「私が売ってしまうと考えていたのかもしれないわね」
「触っても平気だった?」
「平気よ。こんなもの」
彼女は神像を手に取り、青龍の顔にキスをした。
「お母さん、止めてよ。石上さんが、それは神様だって言っていたわよ。罰が当たったらどうするの」
「神様が罰を当てるというのなら、私たち、とっくに当たっているわよ」
神像を両手に挟み、リビングの向こう側に虚ろな目を向けた。その視線を咲耶は追った。リビングの窓から薄暮の中に灯るガーデンライトがあった。教師の頭が沈んだ池の近くにある照明だった。
「葬式かぁ。本当なら夫婦で行かなければならないところだけれど、今の私たちには無理ね。咲耶に任せる。頼むわね」
明心が言った。
「私だって気が重いわよ。でも、雅たちが一緒に行ってくれるというから……」
目いっぱい、恩着せがましく話した。
「友達は有難いわね」
「お母さんは魔母衣村には行ったことがないの?」
「行ったわよ。結婚の挨拶とか、なんだかんだと……、3回ぐらいかしら」
「村、嫌いなの?」
「お母さんが生まれた村と似ているのよ」
「チベットの?」
「そうよ。住んでいる人はいい人ばかりだけれど、空気がねぇ……。乾期でもじとっと肌にまとわりついて骨の髄まで冒されるような感じ……。あれは湿気じゃないのね。生きられない人の困惑や苦悩のようなものだと思う。わかる?」
「そうなんだ……。よくわからないけど」
「まあ、一度ぐらい経験してみると良いわ」
そう言うと、明心は箸を置いた。
守り刀の場所は明心が知っていた。見た目は天具が持っていたものと瓜二つだったが、刀身に彫られていたのは、天具が話した通り青龍だった。
その晩も沢山の眼や耳が、ベッドの咲耶に注目していた。咲耶と言えば、明日は旅の空にあると思うから、しばらく感じることのできないざわざわした緊張を楽しんだ。
翌日の午後1時30分、咲耶と雅、月子は東北新幹線のホームで落ち合った。みな、天具のアドバイス通り、ハイキングにでも行くような動きやすい服装で、足元はスニーカーだ。早くに来ていた天具は、昨日と同じ奇抜な姿のままだった。
「大石さん、何歳?」「いつも下駄なの?」「その白衣は、何のものなの?」
山形新幹線に乗ると、雅はいつもの陽気さで天具を質問攻めにした。彼は苦笑いを浮かべながら、33歳だとか、冬は靴下も履くし、長靴も履くとか、白衣は修験者が着るものだとか、渋々答えていた。
「サクのお父さんが隠れ里の出身だとは、驚いたわ」
月子は咲耶に向かってそんな感想を述べた。
「私だって驚いたわよ」
「普通、両親の出身地なんて知っているものでしょ?」
「そうなの?」
「そうよ。正月やお盆には、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと会うのだって普通でしょ?」
「ウチはお母さんがチベットの山奥でしょ。だから祖父母に会わないことも当たり前のことだったのよ」
そう話すと、月子は納得した。
雅と月子は魔母衣村のことを知りたがったが、咲耶は何も知らなかったし、天具は「秘密の村だからな。誰にも教えられない」そう繰り返すだけで新しい情報は得られなかった。
新幹線が新庄駅に着いたのは午後6時になろうという時だった。4人はそこで夕食を済ませ、そこからは駐車場に停めてあった天具のRV車で魔母衣村に向かった。
「ヒェー、もう真っ暗だ」
後部座席の雅が声を上げた。助手席の咲耶はアスファルト道路を照らすヘッドライトがつくる光の輪を見ていた。暗いのは日没を過ぎたからだけではない。山に向かう道には、街灯も住宅の明かりも、すれ違う車の明かりもなかった。ほどなく舗装は途切れ、でこぼこのひどい山道に入った。
「ヒェー、舌を噛みそうだ」
雅が声を上げ、月子が黙っていた方がいい、と注意した。
1時間ほど走った時、車が減速した。それは道端にある空き地に入った。そこが村人たちの駐車場らしく、他にも数台の車が停まっていた。
「家が見当たらないけど?」
咲耶たちは周囲を見回した。どこもかしこも深い闇だった。
「ここからは歩きだ」
天具は鞄からランタン型の懐中電灯を出して明かりをつけた。けもの道のような細い道が山頂に向かって続いていた。
「ヒェー、疲れそう」
「確かに隠れ里だわ」
雅が声を上げ、月子が感心した。
「離れるなよ」
そう警告して天具が歩き出した。咲耶たちは足の速い彼の後に必死で続いた。離れたら足元が暗くなる。
山頂に向かっていると思われた小道は、ほどなく向きを変えた。谷に向かって下っているようだった。
「止まれ」
天具が言った。足元に古い石碑があって、彼は屈んだ。
「何ですか?」
咲耶は訊いた。
「道祖神だ。村に入る挨拶をする」
彼は両手を合わせてタカムスビノカミとかスクナビコナノカミ、クズノカミとか、ぶつぶつ言った。
「何これ?」
咲耶の耳元で月子がささやいた。
「魔母衣村の人たちは信心深いのよ。教えたでしょ。自分の守護神と違う神像に触れたら腕に火傷を負ったという話」
そうささやき返した。
「ああ、そうだったわね。みやび、気をつけなさいよ。祟られちゃうから」
月子が隣の雅にささやいた。
「ヒェー、怖いよ」
彼女の叫びが谷間にこだました。
天具が祈る時間は1分ほどだったが、咲耶にはとても長い時間に思えた。
「行くぞ」
村に近づくほど、彼の態度は威厳に満ち、口は重くなっていた。やがて見通しが悪くなった。それまでは透き通っていた暗闇は白く濁り、懐中電灯の明かりが乱反射して先まで届かない。
「霧ね……」
「なんだか冷えてきた」
月子と雅が言うとおりだった。真夏だというのに冷たい空気が谷底から静かに流れてきて霧を作っているようだ。背中の汗が引いた。