とある教師の死
山上咲耶が灯りを消してベッドに入ると、天井の隅にクリクリとした黒い瞳が現れ、カーテンの隙間から射す月明かりを鈍く反射した。それは横になったばかりの咲耶との距離を測るようにパチパチと瞬きすると、ゆっくりと彼女の真上に移動した。
見られている……、咲耶は感じていた。怖くはない。2年ほど前、中学3年生の夏休みを迎える直前から感覚が鋭敏になり、自分の動向を追う眼や耳が室内にあることに気づいた。夜中に目覚めて、それを見たことも何度かある。今も眼を開けたら、目玉や耳を見ることができるだろう。わかっていたがそうはしなかった。視線が合ったら、お互い気まずくなる。
その家は、13年ほど前に父親の比呂彦が中古で購入したものだった。生活雑貨の輸入事業で成功した彼が、不動産事業も手掛け始めたときに格安で手に入れたのだ。高級住宅街にあるその屋敷は、300坪ほどの敷地に50坪ほどの木造住宅と車が3台入る屋根つきの車庫があって、庭には立派な黒松や楓、桜、黒竹、紅梅のある日本庭園があり、大きな池には錦鯉が泳いでいた。幼いころ、咲耶は池で金魚や鯉を釣って遊んだ。美しい草花もあって興味を引いたが、毒草があるのでそれには触れるなと両親から注意されていた。
家が古いから妖しげな霊や妖怪が住み着いているのだろうと思った。自分の部屋に目玉の妖怪が現れると両親に話すと、「まあ、怖い。妖怪百目かしら? それとも、目玉オヤジ?」と応じながら母親の明心はコロコロ笑った。チベットの山奥で生まれた彼女は、そうした怪奇現象に慣れているのかもしれない。比呂彦も同じだった。輸入雑貨店を営む彼は世界中を旅していて、不思議な経験を沢山してきたと話し、実害がない限り霊や妖怪など放っておけばいいと言った。
確かに実害はなかった。が、寝姿や着替えを見られているかと思うと、気持ちの良いものではない。それを話すと「日本には八百万神がいる」と比呂彦が言った。
「あらゆる物が神であり精霊、霊魂を持っているということだ。今ここにあるテレビにも、あの人形や観葉植物にも魂があって私たちの話を聞いている。私たちは常に見られているのだから、そのつもりで生きていかなければならないのだ。わかるね」
「うーん、なんとなく」そう応じた。
「父さんも、いつも咲耶を見ているよ」
彼は優しく笑った。
両親に諭された日から、夜中に現れる眼や耳を父や母のものだと思うことにした。すると不気味に感じていたそれらにも親しみを覚え、ひと月もすると、その存在にすっかり慣れてしまった。
初めの頃は1組だった眼と耳も、いつの間にか数が増えた。仲間が集まっているのか、あるいは子供を産むように分裂しているのか知らないけれど、1年ほど前に見たときは、天井だけでは足りず、壁にまで、それがあった。今ならさらに増えているのだろう。まるでドット柄のように目玉と耳が壁や天井に並ぶ姿を想像すると可笑しくさえあった。
――ピロロン――
眠りに落ちる前にメッセージの着信音が鳴った。スマホのディスプレーがほんのりと明るくなると、壁や天井の眼や耳が消えた。
咲耶は瞼を持ち上げて天井を見た。月明りとスマホに照らされたそこには眼も耳もなかった。
隠れたんだ。……そんな風に思いながらスマホを手にした。
〖サク、テストが終わったらカラオケに行こう〗
同級生の天乃雅からだった。彼女は聖清純学園中等部からの親友で、17歳になるのに子供のように無邪気だった。何かと難しく考える咲耶とは対極的な存在だ。だからこそ、お互いに憧れ、仲良くなれたのかもしれない。彼女の無邪気さは性格だけでなく容姿も同じで、背は低く童顔でロリコン男子によく持てた。彼らは彼女を自分の妹か娘のように扱いたがるのだけれど、彼女は、その無邪気さゆえに彼らの気持ちを理解せず、恋人になることはなかった。
カラオケかぁ。……考えるまでもなかった。明日は、担任の田尻幸利が家庭訪問に来ることになっていた。一昨日、化粧品や大人のオモチャといった私物を学校に持って行ったのがばれたのだ。化粧品だけだったら、小言を言われただけで放免されたに違いない。オモチャはまずかった。好奇心でドン・キ〇ーテで買っただけだと言い訳を言っても許してもらえなかった。曲がりなりにもお嬢様学校だから……。本来なら親を呼び出すところ、特別に田尻先生が家庭訪問をして、母親の対応次第では穏便に済ませてくれるらしい。生徒の不良行動は、担任の成績にも影響があるようだ。
【ゴメン、みやび。明日はソッコー帰る】
咲耶は渋々の思いで返信した。
〖どうしたの?〗
【秘密の約束がある】
〖デート?〗
【違うわよ。人生にかかわる深刻な問題】
〖もしかしたらだけど、あれ、ばれた?〗
大人のオモチャを彼女にも見せて自慢したことを思い出した。
【うん……、最悪だわ】
〖ご愁傷様、(-人-)〗
テスト前だというのに、2人の間に緊張感はなかった。通っているのが中学から大学までの一貫校だから、よほど悪い点を取らない限り進学に影響はない。
咲耶の中で家庭訪問の不安が広がった。成績が悪くても退学にならないけれど、あのオモチャの件では厳しい対応があるかもしれない。エアコンの鈍い音が、不安を掻き立てた。
「まぁ、なるようになれ。レットイットビーだ」
全てを忘れて寝ることに決め、タオルケットに頭までもぐりこんだ。
また、眼や耳が現れたようだ。胸の中がゾワゾワした。大人のオモチャで遊んだところを、彼らも見ていたのだろうか? もしかしたら、その目のひとつが田尻先生のものだったのではないか、と思った。そんなことでもなければ、あの日、鞄の中にそれが入っているのを先生がわかるはずがないのだ。
「この、変態教師!」
叫ぶと胸がすっきりして、深い眠りに落ちた。
ひとつ、ふたつ……、十、五十と室内の目玉が増えた。丸い眼、細い眼、黒い眼、灰色の眼、鳶色の眼……、百様の瞳が時には瞬きをし、時には移動しながらタオルケットが作る人型を見下ろしていた。同じ数だけある耳が、咲耶の穏やかな寝息を聞いていた。
翌朝、いつものようにポストから朝刊を取るために外に出た。すると、朝刊の下に小さな段ボール箱があった。それには宛先も発信人もない。
「だれからだろう?」
咲耶は通りの左右に目をやった。怪しげな人物の姿はなかった。
箱を手にしてリビングに戻った。開けてみると真っ白な封筒がひとつ。その下に教師に取り上げられたものと同じ大人のオモチャが入っていた。一瞬、田尻先生が取り上げたものを返してよこしたのかと思ったが、箱の中のものは新品のようだった。
真っ白な封筒には見覚えがある。ストーカーからの手紙だった。昨年から毎週1回、それがポストの中に入れられている。時にはデートに誘うようなことが書いてあるのだが、多くの場合、最近の咲耶の行動をたしなめたり、洋服や髪型をほめたりするものだった。
「まただ……」
つぶやきながら封を切る。
〖期末テスト、お疲れさま。今日で終わりだね。大人のオモチャを先生に取り上げられたのは残念だった。代わりに用意しておいたよ〗
――ゲッ……、吐き気を覚えた。やっぱりストーカーはクソ野郎だと思った。
「どうかしたの?」
「なんでもない」
明心に尋ねられ、慌てて箱を隠して立った。ストーカーのことは両親に話してある。普段なら手紙を見せるところだが、それはできないと思った。大人のオモチャのことは家庭訪問でばれるとはいえ、それをストーカーに告知されたら母が気絶してしまうだろう。
「学校に遅れるわよ」
背中から声が追ってくる。
「まだ大丈夫よ」
階段を駆けあがり、箱と手紙をクローゼットに隠して制服に着替えた。
朝食を済ませて家を出る。ストーカーのことを考えたのは通学電車に乗ってからだった。
どうやってあのオモチャのことを知ったのだろう? それが教師に取り上げられたことまでも……。そうして思い浮かぶのは同級生や教師といった学校関係者の顔だった。「一番怪しいのは……」当然、田尻先生だ。すべてを知っているのは私と彼だけだもの……。そんなことを考えていたから、その日の化学と歴史、美術の試験の出来は悪かった。
「サク、どうだった?」
背後から雅が抱き着いてくる。
「いつも通り。ダメダメよ」
「ダメだといったって、いつも10番いないじゃない。サク、頭がいいから、羨ましいわ」
雅が咲耶の肩を前後にゆすった。
「今日は本当にダメだったのよ」
咲耶はため息をついて立ち上がった。
「カラオケ、行くんでしょ?」
いつも一緒の岩井月子がやってくる。優等生の彼女は期末テストなど、眼中にないという様子。
「ごめん、ツキ。今日は拷問なんだ」
月子に向かって両手を合わせた。拷問は聖清純学園で教師に呼び出しを受けたときの隠語だ。
「どうしちゃったのよ。サクが拷問なんて?」
「私物が見つかっちゃったのよ」
舌をペロッと出して笑ってみせた。
「とんでもない私物がね」
雅は楽しそうだった。彼女は悪いことも苦しいことも、みな楽しみに変えてしまうようなところがある。それで救われた気持ちになることもあれば、バカにされたような気持ちになることもある。そのときの咲耶は、とても嫌な気分だった。
「何よ、それ?」
当然、月子は関心を示した。
「オモチャよ。大人の」
咲耶は自分の口で言った。雅に言われたら、怒りの感情が顔を出してしまいそうだった。
「なんだ、そうなの」
彼女が驚かないことに驚いた。
「わかるの?」と雅が興味を示した。
「わかるわよ。私も持っているもの」
「へー、すごい!」
「オモチャを持っていることより、それを学校に持ってきたのは迂闊よね」
その指摘には言葉もない。
「雅に見せてからかいたかったのよ」
咲耶は正直に話した。
「えー、そんなつもりだったの!」
彼女が抗議の声を上げた。
「だって、何も知らないでしょ?」
「そうかもしれないけど。……私も買うわ。どこに売っているの? 教えて」
「雅には無理よ。お子ちゃまだもの」
月子はそう言って雅の頭をなでた。
「そんなことないです。同級生じゃない」
彼女は頰を膨らませた。童顔が、さらに幼く見えた。
「それじゃ、明日、土曜日だから買いに行きましょう。制服はだめよ。バッチリ大人メイクを決めてきてね」
「サクも行く?」
「私は無理だわ。明日、明後日と母に用事を言いつかっているの。来週なら付き合えると思うわ」
そんな話をしていると幸利が教室に姿を見せた。それに気づいた月子と雅が「じゃあね、拷問、頑張って」と手を振って教室を出て行く。いつの間にか同級生の過半数は帰っていた。
幸利が教室を見回し、「用事のない者は早く帰れ」と声を上げ、犬でも追い払うようにパンパンと手を打った。残っていた生徒たちがぶつぶついいながら部屋を出て行く。彼は咲耶の前に立った。
「5時ごろにお宅に行く。大丈夫だな?」
幸利は20代後半で独身、でもお世辞にもイケメンとは言えず教え方も下手で生徒たちに人気がなかった。ただ教師という立場を利用して生徒を統率、いうことを聞かせようというところがある。咲耶も彼のことは好きではなかった。おまけに今、彼にはストーカー疑惑がある。
「はい。私と母がいればいいのですよね?」
「お父さんもいればいいが、5時では無理だろう?」
「父は、外国に買い付けに出ているので……」
「そうか。では、夕方に行く」
彼はそう告げて踵を返した。
帰宅して、母親に幸利がやってくる時刻を報告した。
「おいしいものを用意しておかないとね」
明心は幸利が来る理由を問い質すこともなく、むしろ浮き浮きした様子でキッチン入った。彼の分まで夕食を用意するつもりのようだ。咲耶も着替えてから手伝った。ジャガイモをゆでてポテトサラダをつくる。メインディッシュはステーキだ。冷凍庫から肉塊を取り出して解凍する。
幸利は約束通りの時刻にやって来た。彼と共に蒸し暑い空気が屋内に流れ込んだ。
「先生、いらっしゃい」
迎え入れながら、彼が持つ黒いビジネス鞄に視線を落とした。そこにあのオモチャが入っているはずだ。
「あ、ああ、どうも……。立派な家だね」
彼は学校にいるときと違って少しおどおどしていた。家の大きさに驚いたわけではないだろう。聖清純学園の生徒には裕福な家庭の子供が多い。訪ねたことのある家には豪邸も珍しくないはずだ。
「どうかしましたか?」
尋ねると、彼は何でもないと応じ、額の汗を拭きながら靴を脱いだ。
「室内は、ずいぶん涼しいのだね」
「エアコンはリビング・ダイニングにしか入れてないんですけど……。きっと家が古いからだと思います」
そう話すと、眼や耳の形をした霊の存在が脳裏をよぎった。
シックなインテリアのリビング・ダイニングにはポタージュスープの香りが漂っていた。10人掛けの大きなダイニングテーブルに並ぶ食器は二人分だけ……。
「先生、ここに掛けてください」
咲耶は食器がセットされている椅子を引いて彼を座らせた。それから冷蔵庫から冷たい水を出して彼の前に置いた。
「お母さんが急用で出かけてしまって、食事をして待っていてほしいということでした」
「えっ、そうなの?」
彼は目を丸くした。
「今、お肉を焼きますからね」
そう話すと彼は立ち上がった。
「ごちそうにはなれないよ。家庭訪問だからね」
「いいじゃないですか。どのみち、夕食を食べるんでしょ?」
担任が困惑するのを楽しみながら、咲耶はスープを温め、肉を焼いた。背中に、ずっと視線を感じていた。霊のものではない。幸利の視線だ。
最初は遠慮していた幸利も、「肉が冷めると不味くなります」と強く勧めるとナイフとフォークを握った。ひと口食べた後は、「美味い」「美味い」と言いながら大きな肉塊をぺろりと平らげた。
食事をすませ、リビングに移動する。
「おいしい料理だったよ。君は良いお嫁さんになれるね」
幸利はすっかり教師の仮面を脱ぎ捨てて、リラックスしていた。
「そうでしょ。先生……」
彼の前にアイスティーを置く。
「それにしても、お母さん、遅いね」
彼が壁掛け時計に目をやる。まもなく午後6時になるところだった。
「きっと遅くなると思います」
「どういうことだい?」
彼が眉根を寄せた。
「そんなことより、この手紙は先生が書いたのですか? 今朝、まったく同じオモチャと一緒に、ポストに入っていました。あれのことは私と先生しか知らないはずなんです」
咲耶は、ストーカーの手紙を彼の前に置いた。
「そんなことって……」
彼は戸惑いながら手紙の文字に目を走らせた。
「こんな手紙、先生は知らないよ」
「1年前から、毎週、手紙が来るんです。先生、ストーカーじゃないですか? 私を監視しているんじゃないですか? だから、私があのオモチャを学校に持って行ったのを知っていたんじゃないですか?」
咲耶は、幸利の隣に移動して詰問した。
幸利の顔に怒気が浮く。目がつり上がり、皮膚が赤らんだ。
「ストーカーだなんて、侮辱するんじゃない」
「あの日、どうして私だけ、私物検査をしたのですか?」
「君は、母親のいない日に先生を呼んだのだな? ステーキで買収するつもりだったのか」
怒りが沸点に達したのか、幸利は咲耶の胸ぐらをつかみ、口から唾を飛ばした。
「汚い!」
咲耶が顔をそむけると彼の腕の力が強まり、ブラウスのボタンが飛んだ。真っ白な胸の割れ目が露わになると、幸利は眼を血走らせて咲耶を押し倒した。
それは、咲耶にとって予想外の行動だった。
「先生、止めて!」
「大人をバカにするな!」
幸利が平手で咲耶の頰を打った。
強い痛みを覚えた咲耶は反射的に拳をふるった。それは教師の頭にあたったが、それで彼が怯むことはなかった。
「教師をなんだと思っている。言うことが聞けないようなら、進学も無理だぞ」
彼に悪魔が乗り移っているようだった。その顔を醜く歪めると、上半身を起こして咲耶の腹を拳で打った。
「俺は知っていたのだぞ。この家にお前がひとりだということなど」
咲耶はめまいを覚えた。それからは幸利の思うままに凌辱された。悪魔には悪魔なりの理性があるものらしい。彼は咲耶の体外に精を放った。
「これからは俺の言うことに素直に従え。約束するなら、今日、だましたことも大人のオモチャを学校に持ってきたことも許してやろう」
耳元で低い声がする。咲耶は、静かにうなずいた。
「ようし、いい子だ」
幸利がソファーに座り直し、首筋を流れる汗を拭いた。テーブルにあったアイスティーに眼が止まる。氷はすっかり解けていたが、グラスを手に取ると一気に飲んだ。
咲耶は身体を起こし、ブラジャーをつけた。幸利に汚されたスカートをどうしよう、と考えていると彼に髪を鷲づかみにされた。
「母親は、いつ帰ってくる?」
今更、言い逃れの効かない状況になって、逃げることを考えているらしい。
「もう、帰ってきました」
「な、何だと……」
幸利が周囲を見回しながら立ちあがった。が、すぐに身体のバランスを失って倒れ込んだ。
「く、苦しい……」
彼は首に巻きついた自分のネクタイを必死の形相ではずそうと手足をばたつかせた。テーブルからグラスが落ちて、ラグの上を転がった。
幸利が暴れたのは短い時間だった。眼をむき、酸素を求めて口を開けた彼は股間をむき出しにしただらしない格好で息絶えた。
「お母さん、殺しちゃったの?」
「咲耶のためよ。あなたを犯すなんて、ひどい先生……」
幸利を見つめる明心の瞳には、憎しみと憐みの炎が揺れている。
「どうするの?」
「あのときと同じよ」
明心が妖しい笑みを浮かべた。
咲耶は床に転がっていたグラスを拾い上げた。
「咲耶、グラスは慎重に、しっかり洗うのよ。トリカブトの毒は強いのだから。おかげで、どんな男性でも動きを封じられるけど」
「わかっています」
咲耶は着衣の乱れたままグラスを洗った。それから母親に命じられ、哀れな教師の遺体を浴室に運んだ。
骨を断つ電動鋸も砕く粉砕機も家にはそろっている。それらを使えば遺体の処理は簡単だった。そのために、咲耶は全裸になった。正確には爪の間に血液が入るのを避けるためにビニール手袋をかけ、掃除用のプラスチック製の靴を履いた怪しげな格好になって骸を切り刻み、解体した。
肉は肉、骨は骨と分別する。几帳面な性格だからではなく、その後の工程を考えると、そうするのがベストだった。内臓は洗濯用ネットに入れて血液もリンパ液も精液も……、水分は絞り出して洗い流し、塊はビニール袋に詰めた。そうした作業は3度目で、前にやったときより手際が良くなっているのが自分でもわかった。とはいえ、真夏の風呂場でやることだ。蒸し暑さと血と糞尿の嫌な臭いで吐きそうだった。
「浴室も漂白剤できれいにするのよ。お風呂に入るのが、嫌になっちゃうでしょ」
明心の声が不気味に反響した。
結局、ストーカーが誰かわからなかった。そんなことを考えながら、ひたすら単純作業を続ける。グォーンという電動器具のモーター音と、ジャリジャリジャリという骨の砕ける音が一晩続いた。
教師に汚された身体を洗うのは最後だった。眠らずにつづけた作業と血生臭さのおかげで身体はだるく気分も悪かったが、髪をシャンプーすると少しだけすっきりした。その後、太陽の明かりを浴びたのは良かった。近隣の住人の声がする頃には、咲耶の肉体はすっかり犯される前の清潔なものに戻っていた。
「少し休むといいわよ」
明心に言われて裸のまま部屋に戻った。エアコンが付けたままの部屋の空気は乾燥していて、とても気持ちがいい。太陽の前に全裸をさらして日光を満喫した。
ふと、迂闊な自分に気づくことがある。ヤバイ! ストーカーに見られているかもしれない。……慌ててカーテンをしっかり閉めなおした。
ストーカーを忘れているなんて、やっぱり疲れているのだ。そう分析してベッドに倒れ込んだ。
眼を閉じると、相変わらず視線を感じた。遺体を解体して神経が昂っているからか、ストーカーの存在を頭から消しさりたいからか、とても挑戦的な気持ちだった。パッと目を開けてみた。
天井をびっしりうめる目玉が視界に飛び込んだ。
眼の大群は一斉に瞬きし、耳の大群はめしべで休む蝶の羽のように揺らめいた。彼らは何かを恥じたように、こそこそと部屋の隅に移動して姿を消した。おそらく異次元の世界にでも行ったのだろう。
彼らに比べれば、排除した教師は害のある存在だった。そう考えると、脳内を漂っていた罪悪感が消えた。
「あとはストーカーだ」
それも殺してやりたくて、つぶやいた。そうして、いつの間にか眠りに落ちた。
目覚めたのは、メッセージの着信音があったからだ。送り主は雅で、月子とドン・キ〇ーテで大人のオモチャを買ったというものだった。
【良かったわね】
返信すると、〖買ったのは私なのよ〗と月子が送ってきた。私服にメイクをしても、雅は大人には見えなかったらしい。それで月子が買ってやったということだった。子供っぽい私服姿の雅と、買ったばかりの卵型の大人のオモチャの写真が送られてくる。オモチャは咲耶が持っているものとよく似ていた。
〖本当はナニの形をしたのが欲しかったのよ〗
率直な雅のメッセージで、咲耶は幸利のナニを思い出した。切り取ったそれをどの袋に入れただろう? そのままの形で保管することはできただろうか?……そんなことを考えながらベッドを抜け出し、下着を身に着けた。
〖昨日、拷問は乗り切った?〗
雅の問いに、少し胸が痛んだ。考えてみれば自分も先生も被害者だと思った。
【痛かったわ】
〖ご愁傷様、(-人-)〗
【みやびは、見つからないように気をつけてね】
クローゼットで黒っぽいトレーナーとジーンズを選んだ。
〖学校には持っていかないよ〗
【そっか、使うの?】
〖検討中。ツキは使ってるんだって、意外でしょ〗
【そうだね】
そう返したが、全然意外ではなかった。便利な道具があるなら使わないほうがおかしいと思う。
〖用事は済んだの? 済んだのならカラオケ、行く?〗
月子からだった。カーテンを開けると、西に傾いた太陽が隣の家の屋根に乗っているように見えた。ほどなく庭に闇がやって来る。そうしたら最後の儀式をしなければならない。
【まだなのよ。今日は無理だな】
〖了解、月曜、学校でね〗
それでメッセージのやり取りは終わった。
咲耶は空腹を覚えてリビングに下りた。そこは昨夜の惨劇などなかったように整然としていた。洗面所に入ると教師の体液で汚れた衣類をゴミ袋に入れた。それから顔を洗い、ダイニングに戻って母と夕食を食べた。
「ぐっすり寝られた?」
「ええ、とても疲れたから」
「それは良かったわ」
フォークに映った母が微笑んでいた。
闇が深くなってから、咲耶はビニール袋をひとつ持って庭に出た。大きさはスイカほどだが、その重さはスイカの比ではない。10キロほどはあるだろうか、両手で持ち上げるのがやっとだ。
「頑張りなさい」
明心が楽しそうに言った。
三日月の美しい夜だった。池の中ほどにも同じものが浮かんでいた。三つのガーデンライトが庭全体を淡く照らしている。エアコンの室外機の音が方々でしていた。
池をぐるりと囲んでいる岩の上に袋を降ろす。鯉やメダカは休んでいるのだろうか? 水辺に屈んで水底を覗き込む。何も見えないとわかっていても、そうせざるを得ない気持ちだった。
「お父さん、今頃どこにいるかしら?」
水面に映る三日月を見ながら声を潜めて訊いた。とても懐かしい気持ちだ。
「さあ……、モンゴルの草原か、中東の砂漠あたりじゃないかしら……」
明心が冗談を言い、クククと、のどで笑った。
「お母さん、どうして頭蓋骨は砕かないの?」
「そこには魂が宿っているからよ。砕いたら悪霊になるのよ。魂はね、自然に戻すことで、また、普通の人間になって生まれ変わるはずなの。摂理というやつね」
「ふーん」
理屈はわからないけれど、母がそう言うのなら間違いないだろうと思った。
「さあ、済ませてしまいましょう」
母に促されて立ち上がると、ビニール袋の中から荷物を取り出した。打ち首にされた落ち武者のような教師の頭だった。月明かりの下で、口や目から流れ出した血液は固まりかけていて黒く見えた。生きているときには暴力的で怖かった教師の顔が、物と化した今になって、威厳のある精霊かなにかのようなものに感じた。
髪の毛を両手で握り、軽く反動をつけて池の中に放り投げた。
――ドブン――
静寂の闇に水音がした。それは湿度の高い世界に、波紋のように広がって消えた。その後も水面の三日月だけは揺れていた。
隣の家の2階の窓に灯りがついた。その家には60代の夫婦が住んでいる。そちらに目をやると窓が開いた。人影がある。逆光で顔は見えないが、頭の影が大きいので、隣のおばさんだろうと思った。彼女は、いかにもおばさんといったパーマをかけているのだ。咲耶は視線を水面に戻した。
「なにかあったの?」
彼女の声がした。
「なにもありません」
声が届いたかどうかわからない。それ以上、話しかけられるのが嫌で屋内に戻った。
「面倒な人に見られたわね。隣の奥さん、うわさ好きなのよ。でも、誰も信じていない。針小棒大。小さなことを何百倍にもふくらまして話すから。それに物忘れも激しいし……。だから大丈夫よ」
明心が咲耶を慰めるように話した。
「ストーカーに見られなかったかしら?」
別の不安が脳裏に浮かんだ。
「大丈夫よ。万が一見られていたら……」
母が言おうとしていることは、咲耶が考えていることと同じだった。
翌日は、涼しい早朝から庭に出て木の根元に穴を掘り、肥料代わりに砕いた骨を埋めた。砕いた骨というと白い粉を思い浮かべるだろうけれど、生の余韻を残すそれは瑞々しい骨髄を含んでいてペースト状だ。生き物の強烈な臭いは、ツンと鼻を突いた。
木陰にあるトリカブトの花壇の周囲にもそれを少し分けて埋めた。秋には美しい青い花をつけるだろう。
「終わった……」
立ち上がると、フーっと長い息を吐いた。朝とはいえ、7月の気温は高く、咲耶は全身が汗ばんでいるのを感じた。
スコップを片づけに向かう時、人の視線を感じた。認めたのは、ストーカーのそれではなく隣家のおばさんのものだった。昨夜と同じ窓から、こちらを見ていた。咲耶は会釈を送り、物置にスコップを片付けて玄関に回った。ポストから新聞を取るときには少しだけドキドキした。またストーカーからの手紙が届いているかもしれないからだ。今度届くときには、一昨日のことが書かれているかもしれない。母は大丈夫だといったけれど、まだ、ストーカーが誰かさえわかっていないのだ。母はどうやって問題を解決するつもりなのだろう?
翌朝、ポストに入っていたのは新聞だけだった。ほっと安堵の息をついた。咲耶は自分と幸利の衣類や鞄、ふたつの大人のオモチャをゴミ収集所に出して登校した。
「おはよう!」
学校に着いた咲耶を雅と月子が満面の笑みで迎えた。
「みやび、楽しそうね。もしかしたら、使ってみた?」
「どうしてわかるの?」
雅が目を丸くした。
「目の周りに隈ができているもの」
咲耶の冗談を真に受け、雅は両手で顔を覆った。
「ヤダァ、本当? どうしよう……」
「みやび、お子ちゃまだと思っていたら、感じやすいのよ」
月子が言うので咲耶は驚いた。
「2人でやったの?」
「買い物の後で、カラオケに寄ってね」
月子と雅は目配せし、照れたように頰を染めた。
「そうなんだ……」
咲耶も頰が熱くなるのを感じた。同時に、嫉妬と仲間外れにされたような悔しさが胸の中で渦巻いて息苦しさを覚えた。
朝礼にやって来たのは副担任の教師だった。「田尻先生がお休みなので……」彼女は何事もなかったように挨拶し、出席を取った。生徒たちも担任の欠勤に疑問を持つことなどなかった。
帰宅すると、家の周囲に赤色灯を点滅させたパトロールカーが数台止まっていて驚いた。朝、捨てたものが誰かの目に留まってしまったのではないか? 規制線の前で足がすくんだ。
「どうかしましたか?」
制服姿の警察官に声をかけられ、覚悟を決めた。
「あの、そこの家に入りたいんですけど……。私の家です」
自宅の門を差した。
「ああ、それならどうぞ。驚いちゃったよね。犯人は捕まったから、安心して」
警察官は怯えた少女の気持ちを解きほぐすように優しく言って、黄色のテープを持ち上げてくれた。
事件は隣家で起きたようだった。門を開けようとしたとき、隣の家から数人の男性が出てきた。その中心にいる初老の男性に見覚えがあった。隣の家の主だ。周囲を取り巻くスーツ姿の男性は刑事だろう。初めて見る屈強な刑事たちの姿に、思わず足が止まった。
「私は殺してない」
隣家の主の声が聞こえた。見れば、その両手に手錠がかけられていた。遠目にも、手が赤黒く汚れているのがわかった。血液に違いない。
彼が警察車両に押し込められる。車が動き出し、目の前を通り過ぎる。それを見送りながら、彼が殺したのは妻に違いないと思った。昨夜、2階の窓から咲耶を見下ろしていた女性だ。
「ねえ、心配なかったでしょ」
明心の声がする。
「まさか、お母さんが……」
近くに警察官がいるので、言葉をのんだ。
「安心して、お母さんじゃないから」
声を聞きながら門を開けて中に入った。
「まさか、お父さん?」
「どうかしらね」
彼女の声が遠ざかった。
燐家の殺人事件は、ノイローゼの初老の夫が妻を刺し殺した、と状況を簡単に報じられただけで世間の耳目を集めることはなかった。一方、教師、田尻幸利の失踪は生徒の中で話題になった。彼がいなくなって悲しむものや喪失感を覚える生徒はなかったが、推理小説の犯人探しをするように、彼の失踪理由を推理、議論した。
「あいつ性格が悪いから、職員室の中でも浮いていたらしいわよ」
「3年生の誰かを妊娠させて逃げたんだって、先輩に聞いたわ」
月子と雅がそんな話をした。
「でも……」月子が瞳を光らせる。「……サクのオモチャを取り上げたから呪われたのだと思うわ」
「ヤダァ、怖い」
雅が咲耶に抱き着いた。
「呪いだなんて……」
咲耶は苦笑するしかなった。