記憶の彼方へ
しばらくして自分の部屋に戻った。
ブリジッダはエレノアの思い出を語り、俺は罪悪感のようなものを感じていた。
ブリジッダの愛したエレノアは、もういないのだ。
ここにいる俺は、エレノアの姿をした別人に過ぎない。
それが、心に鉛のように圧し掛かっていた。
俺は、エレノアの記憶を取り戻さなくてはならない。
ブリジッダの愛に答えようとか、そんなのは偽善だと思う。
エレノアは死んだんだから。ここにいる自分は、エレノアでは無いのだから。
でも、エレノアの記憶を取り戻せるのなら、それはブリジッダの慰めにはなるかもしれない。
神にも、実の父親にも捨てられたエレノアを、この世で唯一愛してくれているブリジッダの話し相手くらいなら出来るかもしれない。
俺は昼間もらった薬を取り出す。
クロリンダ。
記憶を取り戻す薬。
さっきブリジッダの部屋を出る時に、水のボトルとチーズやハムを貰った。
皆と一緒に食事をするのは不安でしょうから、と言って貰ったものだ。
自分の店なのに、その従業員でさえ信用出来ない世界。
ズシンとした重荷が腹の奥の方に落ちてくる。
多くは語らなかったが、ブリジッダ自身も、そしてまだ会ったことは無いが、ブリジッダの実の息子、エミールも命を狙われているのだということ。
裏切りを監視するために送り込まれてくるスパイがいるという事実。
なんて世界なんだろうな、おい。
「あーあ」
声を出してため息をついて、その声がかわいらしい声であることに自分で驚く。
エレノアは・・・天使のようにかわいらしい少女、7歳の少女。
中身の自分とのギャップに改めて驚く。
記憶を取り戻すことは、正直、少し怖い。
薬が本物か、という不安も少しある。
だが、それ以上に記憶を取り戻してしまったら、俺は自分という自我を維持出来るんだろうか、という不安もある。
エレノアの7年間は、俺にとってどういう扱いになるんだろうか。
あくまで他人の人生の記憶なのだろうか?
それとも、エレノアの人格が、俺の人格に上書きされるんだろうか。
日本で生きた30年以上の記憶が、たった7年の経験に打ち消されたりはしない・・・とは思うが・・・なんの保証もないわけだしな。
だが。
エレノアの記憶無しに生き延びることは不可能だと、つくづく思い知った。
例えエレノアの記憶に人格が影響されることがあったとしても、記憶を取り戻さないという選択肢は、きっと無い。
それに・・・思い出さないだけで、既にこの頭の中にはエレノアの記憶がちゃんと保存されているんだからな。
俺という人格が消えてしまうわけでもないだろう・・・たぶん、な。
ベッドに横たわり、一回分の分量だという薬を口の中へ。
それからコップに移したボトルの水でゆっくりと流し込む。
深呼吸をして、目を閉じた。
ま、最悪、この薬が毒だったとしても、だ。
不死効果はまだ有効なはずだし。
死にはしないだろうよ。
あ、そういやドナを呼び出すのを忘れていたな。
あいつ、最後くらい顔を出せばいいのに。3日間の約束だったはずなのに、昼間、何度呼びかけても、あれっきり出てこなかったんだよな。
まあ、どうやら嫌われていたようだし、仕方ないことかもしれないが、な。
薬には催眠効果もあるのだろうか・・・。
すうっと深い闇の中へ落ち込んでいくような感覚がやってくる。
いや、闇ではない。
これは・・・ブリジッダ?さっき見ていたブリジッダよりも若い?
ハンナ・・・ああ、なんだろう。この懐かしさ。知らないはずの顔なのに、とても・・・寂しい・・・恋しい・・・甘えたい・・・ハンナ・・・。