ブリジッダの部屋
少し話がしたい、というブリジッダに呼ばれて3階の部屋へ。
そこはブリジッダの個室だった。
いわば社長室?執務机が置かれ、棚には本が雑然と詰まれていたり、何かのサンプルなのか木箱に何かの液体が入った瓶やら、雑貨が詰め込まれている。それも一つや二つではなかった。
部屋の奥にドアがあることから、その奥はプライベートな部屋なのかも。
ブリジッダは躊躇いもせずに執務室を通過し、そのドアを開けた。
しっかりと鍵を使っていたから、普段は施錠されていることがわかる。そういや、執務室に入るときも鍵を使っていた。
「従業員を信用していないんですか?」
ぼそっと言ったら、ブリジッダは振り向いた。
「ええ。スパイがいるから。知ってるでしょ?」
知りませんよ、そんなこと。先に教えてくださいよ。そうすりゃ昨晩も毒殺されずに済んだかもしれないのに。
俺が思ったことが顔に出ていたのかもしれない。
「そう言えば記憶喪失だったわね」
悪びれもせずに言うと、ドアの向こうへと手招きした。
そこは、大きな窓のある居心地のいい部屋だった。
大きめのソファ。向かい合わせに二脚。棚には何本かの酒類の瓶。観葉植物の鉢があり、低いテーブルにはチーズやスナックが載っていた。
「何か食べる?飲み物は・・・炭酸水があるけど・・・飲めたかしら?」
ブリジッダは上着を脱ぐとコート掛けに放り投げた。
季節は夏だから、薄手の上着で、それは見事にコート掛けにぶら下がった。
グラスを取り出して二つテーブルに置くと、炭酸水の瓶をあけ、二つのグラスに満たす。
ブリジッダは、一つを取るとゴクゴクと半分ほどを飲んだ。
「エレノアもどうぞ。喉、乾いてるでしょ?」
俺は、ブリジッダの向かいのソファに座る。炭酸水に手を伸ばし、それをごくりと飲んだ。
シュワっと口の中で泡が弾ける。すっきりとした感覚がヒリヒリとした緊張感を少しだけ和らげた。
ブリジッダは俺の顔を覗き込んでいたが、少しだけほっとしたような表情をするとテーブルの上のチーズに手を伸ばした。
「食べなさい。お腹空いているでしょう?」
だが、実は腹は減っていなかった。
城門の近くの市場で串焼きを買って食べたからだ。
買い食いだな、うん。
え?金はどうしたか?
昼間の襲撃者を燃やす前に、持っていたものを探ったからな。
財布があったから中身だけ貰っておいた。これから俺が生き抜くためにも、お金は必要だから。何枚かの金貨や銀貨、小銭が少々。
あとは護身用のナイフも頂いた。
空の財布は死体と一緒に燃やした。
まあ、そういうわけだから、食べなくても大丈夫だったのだが、ブリジッダが食べたものなら安全だろう。
チーズに手を伸ばした。
「おいしい・・・」
生前の・・・つまり日本の記憶と比べても旨いチーズだった。
思わずブリジッダの顔を見てしまった。
「でしょう?アッペンツェラーっていうのよ。取引のある商人が年に数度運んできてくれるのよ」
ワイン・・・いやビールにも合いそうだな。熟成されたチーズだ。アッペンツェラーという名前は聞いたことがあるような、無いような、だが、ナッツのような香りがほのかにあり、スパイシーさも感じる。
「炭酸水にも合いますね。お酒ならもっと良かったでしょうけど」
「そうね。エレノアには少し早いけど。私はワインを頂こうかしら」
「そうですか。遠慮なくどうぞ」
少し残念だが、このエレノアの体では幼過ぎだろう。炭酸水で満足しておこう。
ブリジッダは、残りの炭酸水を一気に飲み干し、棚からワインのボトルを取り出すと空になったグラスへ注いだ。
ちらっとこちらを見ると、少し恥ずかしそうに言い訳した。
「もう貴族ではないから。形式ばったことはしてないのよ。それに、この部屋のグラスは自分で洗っているのよ。洗い物は・・・少ない方がいいでしょう?」
俺は曖昧に笑っておく。
しばらく沈黙が続いた。
不快な沈黙ではない。ブリジッダはチーズをワインで楽しみ、俺は炭酸水で楽しんだ。
悪くない。
「ねえ、エレノア。あなたは忘れてしまったかもしれないけど、あなたがまだ赤ん坊だった頃、この部屋で育ったのよ」
乳飲み子を育てるには・・・向いているとは言えない気がする部屋だけど・・・。
「もちろんベビーベッド入れたり、ハンナが休めるよう簡易ベッドを入れたりしたわよ。エミールも一緒に働いてた頃だったから、ある程度は任せることも出来たのが幸いだったわ」
ん?ということは、ブリジッダもエレノアの世話を?
「あなたは赤ん坊の頃からかわいらしくてね。今もかわいらしいけど、初めてあなたにあった時のことは今でもはっきりと覚えているのよ。ええ、大変な思いで逃げてきたのはわかっていたけど、ハンナの腕に抱かれたあなたは、まるで天使のようだったのよ」
まあ赤ん坊というのは、かわいらしいもんだ。
「何度もハンナに言われたものよ。そんなことは奥様にして頂くわけには参りません。侍女であり、乳母代わりのハンナがやりますからって。けどね、エレノアが可愛くてね。そしてあの時から大人しくて手間のかからない子だったのよ。本当に天使のようだった」
ワインのせいか、ブリジッダの血色がいいようだ。
部屋の明かりは魔道具によるもので、まるで日本の蛍光灯のように明るい。
階下の従業員用の部屋の明かりは、魔道具とはいえ薄暗かったのとは大違いだ。
「その時から私はエレノアを守らなきゃって心に誓ったのよ。知っての通り、この国は独裁国家と言ってもいい状態だわ。社会主義なんて理想に過ぎないことなのよ。結局、一部の貴族の都合のいいように物事が決まっていくのよ。そして都合の悪いものは抹殺される。地方の領主なんてひどいものだわ。私は、あの男から距離を取った。だからエミールは生き延びたし、私も生きてこれた」
ブリジッダは目を落とし、ため息とともにワインを揺する。
「あの時、私はエレノアを・・・あなたを無理にでも引き取るべきだった。あの男の元へ返すべきでは無かった。何度も後悔してきたのよ。けれど、わかって欲しい。そうしたくても、そんな力は無かったのよ。誰も、あの男に逆らうことなんて出来なかったの」
なんと答えていいのかわからない。
いや、ブリジッダの語る過去にも、自分の置かれた状況もわからないからな。
「記憶が・・・無いのよね?」
「はい・・・」
「それでもいいわ。私は、あなたを愛してる。自分の娘のように思っている。あなたが望めば、私はあなたを引き取る。今度こそ、あの男の元へは戻させない。もちろん、クレマンティーヌの手の届くところになんか絶対に置かない。それだけはわかって欲しい」
「・・・はい」
ブリジッダはため息をついた。
「昨夜・・・アンドリューはあなたの食事に毒を入れたわね?」
突然の質問に、俺ははっとして顔を上げた。
「やっぱり・・・。朝、嘔吐したと聞いた時、本当に心臓が止まるかと思ったのよ。まさか引き取ったその夜に毒を盛るなんて思わなかった。でも安心して。明日にはアンドリューは追い出すわ。あいつがスパイだということはわかっていた。これまでは証拠が無くて出来なかったけれど、エレノアに毒を盛ったなんて許せない。嘔吐する程度のもので本当に良かった。一つ間違えば、私は自分の愚かさを悔やむことになっていた」
いや、普通に致死量の毒でしたよ、とは言えなかった。
生き返った理由を説明する勇気も無いからな。
「それと・・・あなたの服についた血痕のこと」
「ひっ?」
「驚かないで。あなたは記憶を無くしてるようだけど、私には他人の魔力が見えるの。普通、魔力は無色透明と言われているわよね?けれど、私には、精霊の魔力のように人の魔力にも色が付いて見えるのよ。普段、私はそれを加護の色って表現しているのよ。だからね、エレノア、あなたの加護の色が変わってしまったことが、あなたの記憶が無くなったことと関係しているんじゃないかと思うし、昨日と今日で魔力の色が変化しているのが、あなたの服についた血と関係があるんじゃないかと思うの」
「これは、えっと・・・」
「責めてるんじゃないの。いいえ、あなたが例え誰かを手に掛けたのだとしても、私は自分の意思を曲げるつもりはないわ。むしろ、エレノアが自分で自分を守る力があるんじゃないかと知って少し安心すらしてるのよ」