じゃあ、うち来なさいよ
いくら急いでいるからと言ってドスドスと歩くのは優雅じゃない。
常に優雅にお淑やかに。それが貴族令嬢であり、アリスも勿論その事は弁えている。
靴の音は勿論ドレスの衣擦れすら立てず、淡い金の髪をたなびかせながら歩く姿からは全く想像がつかないがアリスは絶賛めちゃくちゃ焦っているし大激怒中だ。
そしてそこへ火に油を注ぐかのように現れたのは他の女に愛を囁いたらしい婚約者様だった。
「ごきげんようプライス様。」
「ああ。アリスか。すまないがペディアを見なかったか?」
何をしてらっしゃるのですか?と聞く前にこれである。最早この婚約者は口を開く度に燃え盛るアリスの堪忍袋に油を投げ入れる存在でしかない。
「ええ、先ほどお見かけしましたわ。」
「そうか!どこで見かけたんだ?」
見かけたと言うやいなやパっとわかりやすく笑顔になったプライスはある意味無邪気だ。
「プライス様。婚約者を自ら他の女の所へ案内する女がいると思いまして?」
「な……、はは!どうしたんだアリス。冗談を言うなんて君らしくもない。」
「あら、私も冗談くらい言いますわ。ああ……冗談と言えば先程面白いお話を耳にしましたの。聞いてくださる?」
「そうだな、聞きたいのは山々なんだが少し急いでいるんだ。ペディアが帰ってしまう前に用があってね。で、ペディアはどこに―――――」
「幼い頃から婚約者がいる男が婚約者ではない女に惚れて口説いたそうですの。
一体どういうことかしらね?」
ヘラヘラ笑っていた婚約者の顔が一瞬にして固まったのを見てアリスはこれみよがしに面白い、と声を立てて笑った。
「義務としての結婚は珍しくもありませんわ。社交界において愛人や正妻という噂も確かに少なくありません。
けれど今やそれは秘密にする物。下卑た輩に話の種に使われてしまいますもの。
社交界で愛人だの正妻だのと噂されているものは大半が憶測にすぎませんわ。だから皆様方憶測として楽しみながら好奇心で話をしていらっしゃる。
けれどそこにペラペラと私は他の女と結婚ないし婚約している彼に愛を囁かれましたと言ってしまうような人が出てきたらどうなるのでしょうね。きっと瞬く間に噂ではなく聞いた話として出回りますわ。
そうしたら女性は男に浮気をさせた魅力のない人として、男性は妻では満足出来ずに他の女性にまで手を出した浮気者として社交界に名を馳せることになるのでしょうね。
そんな情けないレッテルがもし王族と公爵家にでも付いたらそれこそとても面白い話ですわ。
ねぇプライス様、この国で愛人や正妻という言葉が公に許された時代ってかなり昔の事ですのよ、ご存知?」
ずいっとプライスへ近付き、見上げるように彼の懐へと入る。
しかしそれは上目遣いとえるような可愛らしいものではなく、下卑た物を見るような嘲笑の眼差しだった。
「い、いや。えっと……。」
こいつ隠し事するの下手だな。と思いながらツーっと扇子で胸から喉仏へ、喉仏から顎へとなぞっていく。
プライスからしたら扇子がナイフにでもなったかのような心地であった。
何故婚約者にバレているのだろう。二人の約束にしたのではなかったのか。彼女が言ってしまったのかそれともあの場にアリスが居たというのか。
プライスの心臓は破裂するのかというくらいバクバクと音を立てていた。
「ペディア・シャグラスに愛を囁いたそうじゃありませんか。
もしかして愛人にでもするおつもりでした?」
ぐっとプライスに顔を近づけて陶器人形の顔で囁いた。
身長差があったがハイヒールとプライスのへっぴり腰によってアリスの顔は耳元まで近付いていた。
そして扇子はと言うと心臓に突き立てるかのようにトントンとプライスの左胸をつついていた。
「嘘をつく必要はありませんわ。ただ婚約者として気になるだけです。あの娘を口説きましたの?」
「聞いてくれアリス、私は――」
「私は?口説かれましたの?」
「口説い…………た…… 」
よく言えたものだと思うが正直なのはいい事だ。
プライスは良くも悪くも正直である。
まぁそうだろうなとは思っていたが実際耳にすると少しショックなものだ。
幼い頃は大人になったら共に互いを支えながら国王様にお仕えしようと約束したのだ。
だからそれなりに信頼関係もあったし、もしペディアに本気で惚れ込んだとしてもそれをアリスに告げてくれる位はしてくれると思っていたのだがまさか内密に告白しているとは。
うっかりため息をつく所だった。
「そうですか。まぁですがそれはプライス様とシャグラス様の問題でしたわね。口を挟んでしまい申し訳ありませんでした。シャグラス様ならサロンの庭でお見かけしましたわ。」
それでは、と会釈をして畏怖も嘲りも感じさせない微笑みで踵を返す。
もちろん声もさっきとは打って変わって軽やかで爽やかな印象を与えるように透明感溢れる鈴のような声だった。
「ごめんなさいアリス、盛大に笑っていいかしら」
「どうぞ。」
「あはははははははは!!!!!! 」
ハラメスの声がサロンに清々しい位に響き渡る。女口調だがハラメスはイケメン、イケボイスと完全に見た目はイケメンな男である。ヴェディハットより低い声が遠慮なしに笑い声を響かせると本当にうるさい。
ヴェディハットも「んっふ…ぐ、ぬん」と笑いをこらえてるかのようなうめき声をあげている。堪えるな、笑うなら思い切り笑え。
「はー……腹筋大崩壊ね。下手な筋力トレーニングより腹筋使ったわ。」
「それは良かったわ。」
「まさか本当に口説いたと言うとは……言ってはなんですが馬鹿なんですかね。」
「馬鹿なんでしょ?私の国では一夫多妻制とか愛人とかを公に言うなんてよくある事だけどヴェディの国もこの国も違うじゃない。そういうのは2人の秘密っていうよく分からない背徳感を味わいながら楽しむんですってね。私理解出来ないわ。」
「まぁそうですね。背徳感はよく分かりませんが禁断の恋って燃え上がるじゃないですか。」
時々ヴェディってよく分からないこと言うな、と思いながらティーカップを口に運ぶ。
ハラメスがふー。っと息をつくと先程までの和やかな雰囲気とはガラリと変わり、ヴェディも今後の事を真面目に話し始めた。
「それで、どうするんです。」
「私ったら一体前世でなんの罪を犯したのかしらね……
あぁそう、すっっっごい気になってた事聞いていいかしら。」
どうぞ、という声が揃って彼らの口から出る。
先程のシャグラスの発言によりずっと気になってたことだ。
「ねぇ、明日って舞踏会よね?」
「そうね」
「そうですね」
「ねぇ、私はペディア・シャグラスに明日にでも、って言われたわよね?」
うんうんと相槌を打って聞いてくれていた2人もあっと何かを察したような顔になる。
「私知ってるのよ。大概婚約破棄って舞踏会でやるわよね。何故か。」
「あの〜周りにも表明する、みたいな感じのやつですよね……我が国にもなんかそんな物語ありますね……」
「実際2人は舞踏会で婚約破棄されてるの見た事あるの?」
ある、と2人して頭を抱えて応える。
そう、あるのだ。
というかこの学園でそれをやらかした人間がいるし、謎のジンクスがある。
舞踏会で愛を囁くとそれが叶う。という。
それが何故婚約破棄をするなら舞踏会になったのかは分からないが。
「まぁ、アレよ。じゃあ本当にうちにきなさいよ。」