チンチンカラカラ、トウトウミ!
お市は両の拳を左右に振り、
「チンチンカラカラ、トウトウミ!」
官九郎が、
「とうのの金がみな欲しい!」
イエー、とふたりは拳をつきあげた。
ふたりは長良川にいた。
ホオバ料理を堪能した後、酔っ払った官九郎は、『岐阜に来た以上、鵜飼いを見せずに帰すわけにはいかない』と言い出した。
お市も酔っており、
「あ、おれも鵜一羽ほしい」
と応じた。
「腰ミノ買って、鵜匠になる」
「アホか。鵜匠は決まった家でしかできないの」
酔っ払いふたりはタクシーを駆って岐阜市まで来た。が、鵜飼いにはまだ時期が早いということで、遊覧船に乗り込む。
「鵜飼いじゃ、鵜飼いじゃー!」
船頭が、鵜飼いはないよ、と苦笑するが、お市は対岸を指し、
「カンクロー、あれ鵜じゃない?」
「鵜だな。カラスとも言うな」
「あれが鵜かな」
「鵜だな」
「あいの次は」
「うだな」
ぎゃはは、と笑いころげる。船頭はほかの乗客に口上も言えず、もてあました。
春の長良川は川面もおだやかで、風もやわらかかった。船頭が、遠景に盛り上がった山を金華山だと教えると、
「見ろ」
官九郎は酔った指をあげ、
「お市、あれが金華山だ」
「いま、そう言ってたよ」
「おまえはな。ずうずうしい。ガキのくせに態度でかい。でも、度胸がある。だから、乗せてやったんだ。誰にでもこういうサービスはしないんだぞ」
「いえーい」
「おれもな。むかしは旅ガラスだったのよ」
官九郎はとろんとした目で岸を眺め、
「東京行って、武者修行したもんよ」
「――」
「東京の木場さ。こんなきれいな水じゃねえ。ヘドロの海よ。あの頃は、もう新木場にどんどんみんな移転していって、さびしくなってたけど、それでも田舎者には面白くてしかたなかったよ。よく仕事帰り、遊びに行ったなあ。銀座、浅草、門前仲町」
お市は満腹で機嫌がよかった。ほろ酔いで、適当にあいづちを打っている。
「なんの修行」
「木挽きだよ」
「こびき」
「ノコギリでぎしぎしやって、木を切る職人だ。おれの親父が恵那で、ヒノキばっかり専門に挽く木挽きやってたんだ。で、ほかの木も挽けるように、おれを東京のおじさんとこへやったのさ」
官九郎はケケッと笑って、
「世の中はもうとっくに帯ノコの時代になってんだよ? おれも修行はしたけどさ。あの頃は、なにしろ木が飛ぶように売れる時代だ。悠長に手作業で木を切ってるヒマはねえ。岐阜に戻ってさ。おれは奮起して、ちゃんと機械化した製材屋をたちあげたんだ」
やがて安い外材の時代になり、外材輸入加工の材木屋をつくり、会社を大きくしたという。
「えらいぞ。生きている昭和、歩くプロジェクトX」
お市は無責任にもちあげた。官九郎は照れて、
「尊敬するか。平成生まれ」
「えらいえらい。映画化決定」
「よし。――船頭さん、こいつに一杯飲ませてやんな」
船員がイライラと解説を続けようとするが、官九郎は心地よげに民謡を唸った。
「岐阜はよいとこなあ~、岐阜はよいとこな~。金華山のふもと、そうらばえ~」
お市も、
「ひゅるひゅるひゅ~、ひゅるひゅるひゅ~」
いい気な合いの手を入れ、ゆらゆら手を舞わせている。
船頭がついに、あんたらちょっと、とにがい声を出す。
「ほかのお客さんに迷惑だから」
官九郎はいきなり声を張り上げた。
「人生ってのはコレよ! お市!」
「うお、ビックリした」
官九郎が丸い目を輝かせた。
「舟遊びよ。酒、花、女だ。流れに乗って、酒喰らって、芸者さんにおだててもらって、ぱっと金使って、メロンにシャンパンだ。なにがわるい。誰に負い目もありゃしない。酔っ払って、オケラになって、風に吹かれて、さようなら。こいつが男の花道よ」
舟遊びのあとも、官九郎は上機嫌でお市を連れ回した。金華山に登り、岐阜城を見物させ、夕暮れには、
「おれの友だちのやってる鮎料理屋に行くぞ」
と離さない。
料理屋で、本人はまた酔っ払った。
「お市、おれの会社見るか?」
「何言ってんだよ。もう外暗いよ」
お市のほうは酔いが醒めていた。ご馳走に満腹したが、出発のタイミングを逸してしまっていた。
「おっちゃん、おれ今日、おっちゃんちに泊めてよ」
「いいぞ。泊まってけ。まさやーん、ちょいと――」
店の主人が出てくる。小学校以来の友人だというその老人は、酔っ払った友を見て、あわてた。
「カンちゃん、だちゃかんて。病人がこんな大酒――。はー、おけ」
「こんなもん、どったなーて。おれあ、肝臓のカンちゃんやよ? 肝臓の――ま、ええわ。ほれキミ、わが社のヘリを呼びなさい。わたしゃ帰りますよ」
「なにがヘリや」
とにかく送ると言い、老人は従業員に声をかけに戻った。
老主人は自らワゴンを運転し、お市と官九郎を乗せた。
官九郎はしばらく、
「お市に大阪の本社見せてやる」
ヘリポートつきだ、と自慢していたが、車は大阪ではなく、ひたすら東へ向かっているようだった。官九郎は気づかず、
「男はよ。勝負だぜ。おれは、木挽きなんちゅう辛気臭い商売はいかんと思ってな。一発勝負に出たのよ」
「その話は聞きました」
「ところが、おれが船出した翌年、オイルショックよ。世の中大混乱。おれはもう――血尿出たよ。でも、まだ住宅ラッシュだった。おれは地道に取引増やしてよ」
官九郎は半分眠ったような顔つきで、
「円が三百六十円だったのが、ずばっと百円ぐらい円高になっちまって。外材のほうが安いってんで、ちゃっと見切りつけたんだよ。あれは、一世一代の決断だった――。平林に工場作って、――アメリカにも行ったっけなあ」
「そう。行って帰ってきた。めでたしめでたし」
「へんだ。おれは木を見にいったんだよ。本場のベイツガをよ。見たことあるか? まーず大きいに。ふつうのが、お祭りの太鼓より太いんやて。日本の木みちゃ、エンピツみたあなもんや。アメリカはなあ。深いんやよ、土壌が。やでな、わが邦のな、家の構造材はみんな米材や。おれが買い、おれが切った木が、日本の家を支えとるんやて」
運転している友人が、ぼそっと言った。
「おんし、なんで病院、だまって脱け出したんや?」
「……」
「ナッちゃん、どえらあ心配しとったぞ」
お市は官九郎を見た。
官九郎は目をつぶっってたぬき寝入りしている。
会話が止まり、お市も待つうち、少しうつらうつらした。
目を開いた時、車の周囲は真っ暗だった。畑か田か、車道のまわりはほぼ闇となり、たまに看板があるほかは、人造物が見えない。
対向車もほとんどない。寂しい道をひたすら進んでいく。
八百津を過ぎ、はて、とお市はあやしんだ。
(会社どころか、住宅も見えないが、このじいちゃんはどこに進んでいるの?)
尋ねようとした時、車は止まった。
「着いたぞ」
道沿いに家の明かりが見えた。お市は下りて、そのとなりにそびえる暗い建物に気づいた。
倉庫のような三角屋根の大きな建物には、車が通るほどの入り口があった。そこは板戸でふさがれ、いかつい鎖がかかっていた。
壁には、ハシゴや板木がむぞうさにたてかけられ、建物脇にはタイヤのない車の残骸が放置されている。
あきらかに長い間、無人だった。
街灯の灯りで、看板の薄い文字『新建材・糸屋材木店』が読めた。
(……)
お市はふりむいて、官九郎を見た。
官九郎は小さな手を浮かせて、わけがわからぬように突っ立っている。
「あれ……なんで、鎖がかかってんだ」
「いっつか潰したやに」
友人は苦々しげに言った。
「十年も前や。潰して売れんもんで、ぶっといたんやらあ」
「ええ……」
官九郎は口をあいて、友人を見た。
「つぶれた……? なんで」
「なんでて――。カンちゃん」
友人は声を険しくして、
「さっきから、なーに寝ぼけたこと言よーる――。おんし、あん時、はー、あかんて全部手放したやに。ほんで全部清算して、関で隠居しとったんやらぁ?」
「……ええ」
官九郎はよたよたと工場に歩み寄った。
「オサムがつぶしたんか」
「――」
「けど、大阪はまんだ大丈夫やらぁ?」
友人はつらくなったようだった。
「――はよ帰って寝やあ」
官九郎は閉じたドアに小さい手を触れた。そこには南京錠のかかった鎖が幾重にもまきついていた。
(――)
お市はとまどった。
ガチャガチャと鳴る鎖の音が不気味だった。南京錠をいじっている老人が、にわかに別の世界の影法師のように見えた。
隣家のドアが開き、明かりが洩れ出る。
「おとうさん?」
女の声が通った。
中年女らしい影が出てきた。
「ナッちゃん」
友人は、官九郎の状態について簡単に説明した。女は官九郎の娘らしかった。
女は険のある声を出し、
「おとうさん、何してんの? どこで何してたの? 人に世話かけといて、よくそんな勝手できるね? パパ、警察に電話したんだよ? もう面倒みないからね! ひとりでやってよ!」
「……」
女はぺこぺこ頭を下げ、官九郎の袖をつかんで家へ戻った。官九郎は合点がいかぬ様子のまま、連れていかれた。
「おんし――あんた」
友人は、取り残されたお市に言った。
「どこの寺や。送ってったろか?」
お市は関市まで戻ってくれるよう頼んだ。
お市は荷を背負い、錫杖を突き、ひとり夜の国道を歩いた。
小瀬まで送ってもらい、郡上街道をひたすら北上していた。
(まったく、こんな時間に放っぽりだしてくれおって)
ご馳走に釣られて、道草を食ってしまった。
官九郎の老友は施無畏寺まで送ろう、と申し出たが、お市は修行であるため遠慮した。
(郡上まで四十三キロかよ)
錫杖の音、自分の乾いた靴音を聞きつつ、お市は気づくと官九郎の身の上を考えていた。その都度、雲を掻き消すように錫杖を振った。
――大阪の会社にヘリポートあったちゅうのは、本当なんやて。
車の中で、官九郎の老友は、いいわけするように友の苦労を話した。
官九郎の会社は、時運にめぐまれなかった。岐阜で産声をあげた途端、円高の嵐に巻き込まれた。
安い外材がどっと流れ込み、地場のヒノキが蹴散らされていく。
官九郎は思い切って、国産材を捨てた。外材商売に切り替え、大阪に新工場を作った。
まだ人々が一戸建てのマイホームを求めている明るい時代だった。会社は順調に伸び、やがてヘリポートつきの新社屋を建てられるほど成長した。
しかし、バブルが崩壊する。日本経済が揺れかしぎ、大手ホームメーカーが次々倒れた。官九郎も事業を縮め、嵐が過ぎるのを息をひそめて待っていた。
しかし、不況は終らない。長く待つうちに、建築工法が変質した。
より工期の少なくてよい、プレカット材(あらかじめ加工してある材木)が多く使われるようになった。
熟練の大工が減り、無垢材より、うすい板を張り合わせた集成材のほうが便利に使われだした。
めまぐるしく変わる現場の要請に、そのつど、官九郎は銀行を駆けまわり、設備投資して喰らいついた。が、いつまでたっても不況は終らず、ついに、
――このままでは、銀行に全部むしられて、退職金も出せんようになる。
事業を断念した。
会社を手放す時、と老友は淡々と言った。
「うちの二階来て、おれに打ち明けてなあ。まんだヘリ買うてなあて、血ィ吐くみたあにして泣いとったわ。ほんに、たるうこっちゃった」
会社を清算した後は何も残らなかった。部下も去り、副社長だった息子とはケンカして、関にひとりで住んでいた。
老友は、お市に会えてうれしかったんだろう、と言った。
「ああつ、東京もんが好きなんやて。しゃべりも、なんや江戸っ子みたいやらぁ? ああつ、三十年、大阪におったに、東京の親方んとこいた頃が、一番幸せやったんやらぁ」
お市はまた錫杖を振り上げ、雲を払うように振った。
(おれはまず、今夜の寝床を見つくろうんだよ)
今夜はどこかで野宿しなければならない。変な親父にかかわったばかりに、今日は寺へはたどり着けないのだ。
あえて声を出す。
「六根清浄、お山は晴天――」
いつのまにか黙りこんでおり、またぱっぱと錫杖を降る。お市は誰もいない路上で大きな声を張り上げた。
「チンチンカラカラトウトウミッ、とうのの金がみな欲しい!」
その時、闇の中に小さな光点が見え、人声を聞いた気がした。
(?)
道路の先に、自転車らしい光点が動いている。街灯が一瞬、白い坊主頭を映し出す。
おーい、となじみの声が聞こえた。
「お市ィ―!」
お市の胸に、ぱっと花が咲いた。
(てっちゃああああん)
お市は笑って駆け出した。見慣れた、いびつな頭のかたちを見て、なぜか苦しいような、なつかしさがこみあげた。