きのこの山の孤軍奮闘
(え。こども?)
えびまよがつい思ったほど、童顔の男だった。地蔵のような丸顔で、黒目がちの大きな目が可愛らしい。
先ほどまで堂を揺るがすような迫力ある誦経をしていたとは思えないほど、首が細く、法衣の肩も華奢だった。額半分を大きなガーゼが覆っているせいで、よけいたよりない。
「え、『えびまよ』です。百瀬直希です」
えびまよはぎくしゃくと頭を下げた。ダンディが座布団のとなりに手をつき、頭を下げる。
「このたびはお招きいただきまして、ありがとうございます。ダンディと呼んでください」
「ダンディさん、ようこそ」
若い住職はふざけた名乗りをとがめず、
「そして、もうひと方、どーん」
うれしそうに背後の本尊を紹介した。
「こちらが当山の一番おえらい方。単臂観音(たんぴかんのん)さま。千二百年拝みこまれてきたんですよ。一応、重文です。拝むと、たいへんよく面倒みてくださいます。でも、ちょっとツンデレです」
あ、と思い出した。
「宗教イヤなんだよね。ごめんごめん。向こういこうか?」
いえ、とえびまよは恐縮した。
(拝みます。今からでも拝みます。なんなら太鼓もドラも叩きます)
となりのダンディは、すでに座布団にあぐらをかき、
「わたしは全然かまいませんよ。でも、目下の関心事はどっちかっていうと、釣り竿ですね。村のとこで、ステキな川見つけちゃって。えびちゃんと通って、木で突いてたけど、さすがに三日目は見切られてきしまってねえ。拝んだら、一本授けてくれるかしら」
「ああ、ここの川いいでしょ! 魚いっぱいいたでしょ!」
住職は気さくに世間話にこたえた。
「あの川見てると、わたし、戒忘れそうになります。岩で囲ったら、一網打尽だなあとかフラチな考えが」
(あは、は……)
ふたりが川釣りの話に興じる間、えびまよはひとり硬い笑いを浮かべて、待っていた。
もうすぐ来る残酷な瞬間を待って、気が遠くなりかけている。
「ああ、肝心なことを言わないと」
ついに青空が思い出した。
(!)
えびまよはノド輪が締まるような思いで、身構えた。
青空は微笑んだ。
「まず、このたびはこの寂しい山寺に来てくださり、ありがとうございます。本当に山しかない貧乏寺ですが、心から歓迎いたします。田舎のおじいちゃんちに来たと思って、のんびりしてってください」
ダンディがあっさり聞いた。
「いつまでお邪魔してていいのかしら」
「お好きなだけ」
青空はニッと笑った。
えびまよは思わず目を剥いた。毛穴からどっと汗が噴き、脳天からなにか熱い気体がぬけていくような気がした。
ダンディは上目に見て笑い、
「本当にのんびりしちゃうよ。おじさん、ぶぶづけも食べちゃうし、ホウキ逆さにしても、天井掃除しちゃうからね」
あはは、と青空は笑い、
「ほんとにゆっくりしてください。このお寺、現金収入はあんまりないんですけど、食べものだけはいっぱいあるんですよ。米は村の人にいただくし、畑に野菜が食べきれないほど生るんです」
ニワトリもいて、卵をよく産み、山でシイタケも栽培しているという。
青空は言った。
「わたしも以前は遊行していて、ひもじくてつらいことがよくあったんです。そんな時にいろんな方にご喜捨をいただいて、本当に有難かったので。――おなかすいてる人がいたら、いっしょに食べようと、声をかけさせていただきました。だから、遠慮しないで!」
(菩薩や)
えびまよは涙ぐみそうになった。
(おれはいまナマ菩薩を見ている!)
かわりに何かしろということもなく、ただただ、無償で飯を食わせるという。
寺を去る時にだけ、声をかけてくれればいい。行方不明だと山捜しをしなければならないからで、無理に引き止めることはしない、希望の場所まで送る、と言った。
ヒモのついてないまったくの善意らしい。
えびまよは安堵し、思いきって聞いた。
「あの、ここで暮らすことはできますか。ちゃんと働きたいんですけど。農業とか」
僧はニッコリと微笑んだ。
「えびまよさんはもう遊び飽きた?」
「――」
「ひとまず飽きるまで遊んでれば?」
えびまよはとまどった。同時に何かを見透かされたように、気後れした。
僧はうふふ、と笑い、
「もう、明日の心配はしないで大丈夫」
黒い眸がやさしく見つめた。
「仏様はクタクタのえびまよさんに、すぐ起きて働けとはおっしゃってません。早く生活を立て直せと、せっついてはいません。まず頭をからっぽにしましょ。まず元気になってください。よく寝て、よく食べて、五感をひらいて、生活を味わいましょう。いつか退屈してきたら、仕事や移住のことはまた相談しましょ」
えびまよは返事ができなかった。唇がふるえださないように力を入れていた。
ぶっちゃけ、と僧は笑った。
「ここ、住民は超募集してますけど。あわてて決めて後悔しちゃいけませんから」
「――」
ダンディは首をかしげて聞いた。
「じゃ、一生、釣りして暮らしててもいいのかしら」
ダンディさん、と青空は頬を引き締めた。
「アリです」
グっと親指を突き出した。
春の空はばかばかしいほどのどかだった。
えびまよはぼう然と見上げ、僧の言葉を反芻していた。
――もう、明日の心配はしないで大丈夫。
どこかで鳥が鳴き、空には白い雲がゆっくり流れている。
いつしか、仔犬の白日夢を見ていた。泥水を飲んで、濁流に沈みかけた仔犬の世界。
灰色の空も、黒い水も無声映画のように遠い。
泳いでいる仔犬の前に、ちぎれた人形の腕がプカプカ浮いている。
鼻先を流れ過ぎしな、木の腕はぐるりと動いた。仔犬の首を掴み、勢いよく天へと放り上げた。
仔犬の世界はいきなり明るくなった。
大きな手のひらがぽんぽんと頭をなだめていた。遠雷がにわかに人の声に変わった。
――そこは足がつく。
犬の目が瞠いた時、えびまよも目を醒ます思いがした。
同じ頃、寺の裏山のふもとでは、青空とテツが籠を手にシイタケを採っていた。
山形に組んだボタ木のまわりをめぐりつつ、青空はキャッキャとはしゃいでいる。
「テツくん、道も整備してくれたでしょ! あれやってくれたのキミでしょ。もうスゴイ。おにいちゃん、涙出る。ちょっとサインもらっていいかな。お数珠で頭撫でてもらっていいですか」
「――」
「なんか山がパッと明るくなったみたいだよ。ご本尊さまもご機嫌だったし。テツわんこが来てうれしいのかも」
「いえ」
そんなことは、と言いつつ、テツの動きが弾むように早くなる。自分の籠を瞬く間に山盛りにして、青空の籠を借り、
「一応、重機系の免許はひととおり持ってるので」
もごもごと言った。
「お市、市安が来るまでなら……力仕事でなにかお困りのことがあれば、やらせていただきます」
「てっつーーーーん!」
うおお、と青空は拳を天にふりあげた。
「百人力きたーっ!」
「――」
テツの袖に飛びつき、
「え、木の伐採とかできる?」
「できますよ」
「え、玉掛けとかも」
「はい。免許あります」
「まさか架線なんて――軽架線なんだけど」
「架線士の免許はないですが、軽架線なら、うちの山でやったことあります」
「ふおおおおおおっ!」
青空はのけぞった。
「なんでできるんだー! ご加護だー! ご本尊さまから、お助けきたー!」
爆笑し、積んだ枯れ葉の上にゴロゴロ転がった。よかったよかった、と枯れ葉を撒き散らして喜ぶ。
よろこびすぎる兄弟子に、テツはたじろいだ。
「あの、お市が来るまでで……」
起き上がった時、青空の笑った黒い目が濡れていた。
「本当に恩にきる。わたしひとりでは、とても間に合わなくて――もし、人死にでも出たらどうしようかと」
「?」
青空は村落を囲む山の現状を話した。
寺を囲む山は、ほぼ寺の地所で、五十年ほど昔に植林された、杉ヒノキの人工造林であった。ひどいところは、ここ四十年ほど間伐されていない。
「わたし三年前に、この施無畏寺、引き受けることになってさ。山見て、おどろいた。あちこちに、木がぐしゃぐしゃでサルガッソーみたいになってるとこあって。そういうところって、残った根っこも腐って、土を支えられなくなっちゃうんだよね。すると次は、土砂崩れが起きる。大雨のたびにどっか削れて、気が気じゃなくてさ」
まっすぐな木材を得るために、造林された木は密植されている。間伐されないと日差しが入らず、太く生長できない。
細い木々は雪の重さ、激しい風に耐えられず、崩壊してしまう。
「最近、毎年のように大雨が降るから、こわくてね。ちょこちょこ入って間伐してるんだけど、寺の山だけで四百ヘクタールあるもんで、手がまわらないのさ。村のほうもあるのに」
面積は村の山のほうがさらに広かった。同じように崩れている箇所もあったが、年寄りたちは山をかまいたがらない。
この百年、何もなかったのだから、ここの山に危険はない、という。
青空は苦笑し、
「うちの村の人たち、なんかさし障りがあるとかで、わたしがやりますからって言っても、手出しさせてくれないんだよ」
「――」
「でも、わたしがお寺の山をきれいにして、木でお金が作れるようになったら、意識も変わるよ。だから急いでる」
テツはじっと黙って、兄弟子の言葉を聞いていた。
――急いでない。悠長すぎる、
と思ったが、言えなかった。
青空はニコニコしながら、
「ここのヒノキね。いい木はすごく質がいいんだよ。枝打ちもしてあって、まっすぐで。ちゃんと育ちさえすれば、ここは宝の山なんだ」
もう初年に伐った木は二年乾燥している。売りに出せる、と言った。
「木で現金がドンドコ入ってくればさ。村のひとも自分の山で儲けようって言う気になる。山の手入れもする。それに、林業の仕事の口もつくれるし、若い人を呼べる。人口増えて、村も安泰。山も安泰。ついでに寺も安泰の三方一両得さあ」
木に大きな期待を寄せているらしかった。
テツがたずねた。
「木ってそんなに金になるんですか」
「うーん。今はちょっと安いかな」
「――」
「三十年かけて育てた杉丸太が一本、千円?」
「は?」
つい無礼な声が出た。
青空は『いま国産木材の需要は増えてるからもうすぐ』といいわけしたが、値段はまだ騰がっていないらしい。
「だから、時を待つのだよ。いつか騰がる。それまでに木を太らせ、乾燥をしっかりして、雌伏」
テツは、これも時を待つのか、と思った。
青空は言った。
「そこでだ。じつは先に貯木場を山の中腹に作っちゃったもんで、トラックが入れなくてさ。木が取りにいけない」
「……」
「ちがうんだよ! おっちょこちょいじゃないんだよ。そこに池があるの。それが貯木池なの。まず、そこにね。木を集めたわけだ。でもなかなか、道作ってる間がなくてさ」
「……」
「鉄舟さん。作業道作り、手伝いお願いしていいだろうか」
テツはしばし考えた。答えはもちろんイエスだったが、兄弟子はこれを何年がかりでやり遂げるつもりなのか、と疑問に思った。
もうすぐ梅雨である。
山崩れの危機は旦夕に迫っているのではないのか。今年は乗り切れるという保証はあるのか。
しかし、目上の僧にものを言うのははばかられる。
「あの、道を作るのはやります」
テツは相手の輝く目を制し、
「でも、その後、にいさんひとりで、大丈夫ですか」
「だいじょうぶさ」
童顔の兄弟子は元気に言った。
「うちにはツンデレ菩薩がついている」
「……」
テツは言った。
「森林組合に頼むのは」
「お金かかるよ」
「補助金出ますよ」
「それでも結局、赤字になる。それに大きい重機入れたくないんだ。根が傷むから。そういうのは年輪に出るんだよね」
じゃ、と聞いた。
「えびたちに、手伝ってくれと声をかけるのは」
青空は笑った。
「彼らを招いたのは、休養してほしいからだよ。山の話とは別。それに、いま声をかけたら、フェアじゃないでしょ」
寝床を提供してくれる相手にものを頼まれたら、断れない。
テツはそれを理解したが、兄弟子の計算力の無さが不安だった。
人間の都合を、自然災害が待ってくれるのだろうか。
青空は山盛りのシイタケを抱え、スキップするように下りて行く。
「テツわんこが来てくれて、ホントラッキー。なんとかなりそうな気がしてきた。なんか勇気出た。この勢いで、木材商売もはじめられそう。ふおおお! 山はこれで大丈夫だ! そんな気がする! ついでに国産木材の夜明けもくるぞ」
(――なんでだ)
テツは青空の後ろに従った。ひょこひょこと跳ねる細い背から、シイタケがこぼれ落ちそうだった。
針葉樹の黒い山をふりかえり、思った。
(うん。これは、お市の出番だろ)