最終回 空を飛ぶ木
千二百年生のイチイの古木が発見された。
お市は興奮して言った。
「舞台みたいな岩の下にさ、根から倒れて転がってた。胸高直径百二センチ。夏千代ちゃんが見たところ、洞はナシ」
その隣にはなぜか、夏千代もいた。夏千代は昨夜突然、お市に懇願され、山歩きに付き合わされたのだという。
お市はいわく、
「だって、イチイの木を知ってる壮健な若者が、かちおちゃんしかいなかったんだもん」
夏千代は眠そうな顔をして、文句を言った。
「お市がへたばらなかったら、もっと早く戻れた」
彼女は自然にえびまよのとなりに腰を降ろした。
えびまよは虚脱して口がきけなかった。アドレナリンでまだ手が震えている。
夏千代がひょいと見た。その手はどうしたのか、とあのふしぎな目がたずねている。
その頬はバラのように新鮮で、光を含み、かたちよい唇はまだ軽くはずむ息にうすく開いていた。
えびまよは急に泣きそうになった。顔をそむけ、衝動をこらえた。
お市は手ぬぐいで顔を拭き、言った。
「おれさ。前、新商品のために、いい材料がないか調べてたのよ」
寺の史料を漁るうち、無畏大師お手植えのイチイの木の存在を知った。この木は近代の絵本にも登場し、これは一本残っているのではないか、とテツに心当たりを聞いていたのである。
テツも見たことはなかった。
栄作は相談をうけ、ロクさから聞いたことがある、と彼らを引き合わせた。
そこは寺の土地の最奥の山だった。
地すべりの時、その山も一箇所崩れおちていた。
そこに、イチイは根をからげて倒れていた。地を削がれて耐えられなくなったらしい。
テツたちを待つかのごとく、割れもせず端然と横たわっていたという。
ロクは笑った。
「まんだあったんかい。うちの村のもんは、欲がないんなあ」
青空は涙ぐみ、本堂に向かって手を合わせた。
「うちのご本尊様は、やっぱりツンデレだった」
和泉兄弟は、戸惑い気味に立っていた。重大な発見があったようだが、彼らの問題は解決していない。
弟は苛立って、お市に食ってかかった。
「それで金はどうしたんだ。坊さん。現金で渡すと言ったはずだ」
「ああ、用意した」
弟が眉をひそめた時、寺への一本道に白い乗用車が入ってきた。
その車のフロントグリルには、銀の三叉鉾がついていた。えびまよはぼんやり思った。
(マセラティ、レヴァンテや)
それはなめらかに寺の前に止まり、中から、ゆでたまごのような見事なハゲ頭が出てきた。
「キンカ頭!」
お市が手を振った。
「キンカ頭言うな、ボーズ頭」
銘木屋の明智だった。手に黒カバンを下げていた。
「金持ってきたぞ。木はどこにあるんだ」
お市はすでに明智に動画つきメールを送っていた。
明智はすぐに応じた。
「わたしらの商売は身軽が身上でね。いい木があれば、とりあえず買っておく。とくにこのお市ちゃんは商売上手だから、うっかり考えるヒマを与えちゃいけない」
明智は黒カバンのなかから、無造作に札束をつかみ出した。人々が目と口を開いて見守る中、座卓に山と積んだ。
「二千二百万だな」
「うむ。今回は特別サービス」
お市はそこから百万の束を六つ取り、ひとつの束の帯をはずした。札で扇をつくって数えながら、
「和泉さん。ダンディの借用書、出して」
和泉兄は札束の山を前に、身じろぎもせず座っていた。その目は泥のように鈍く、どこかもの悲しかった。
大柄な弟が、貴ちゃん、とうながした。バイク便で届いた書類が、座卓の上に置かれ、互いのサインが済んだ。
五百四十万の束が置かれる。
そこへ、青空がするりと座って、風呂敷をひろげた。
残った札束をとり、風呂敷に次々置く。さらには、兄弟の前の札束までつかみ、そこへ積んだ。
「なにを」
お市が言葉を飲み、不安な顔をした。兄弟も動けずにいる。
青空は手際よく風呂敷包みをつくると、兄にずいと差し出した。
「全部お持ちなさい」
兄は驚愕して、僧を見つめた。弟も口を開いている。
そこにいた者たちはすべて、あ然と、あるいは情けない顔で、青空を見ていた。
えびまよだけはおどろきつつも、わずかにホッとした。
青空は言った。
「これで銀行に支払いをして、事業を建てなおしてください。会社のためとはいえ、そんなにつらい思いをしてはいけません。こんなことで犯罪に手をそめて、道をあやまってはいけません」
これからはうまくいきますよ、と励ました。
兄のくすみ疲れた土気色の顔が、破れるようにゆがんだ。彼は僧の前に深く、頭を下げた。
イチイの木はヘリコプターで運びだされることになった。
その日は、テレビ局まで集まり、運搬の様子を撮影していた。
「千二百年前、無畏大師さまのお手植えの木が発見された」
大学から識者も呼ばれ、全国紙に載るニュースになった。
「ああ、二千二百万が飛ぶ」
軒の端からヘリコプターのローター音が響き、お市は縁側からむなしく見上げた。
テツはとなりで同じく空を見上げ、ぽんぽんと相棒の肩を叩いてやった。
庭先から官九郎の小さな足が歩いて来た。ふたりの隣に腰を下し、同じく空を見上げた。
「飛んでったか。札束が」
ヘヘっと笑った。
「あれだけ派手に宣伝すりゃ、いい値になんだろうな。無畏大師さまのお手植えだからな」
お市が、
「カンクローのばか」
とつぶやいた。
和泉兄弟の苦境に気づいて、青空に話したのはこの老人だった。
官九郎は苦笑して、
「おれだって、まさか全額やっちゃうと思わないもの。ただ不憫なやつらなんですよってことをお話しただけで」
官九郎は兄弟を見て、堅気の人間だと気づいていた。
大地主のビル持ちのくせに、なぜ五百万ごときに血迷っているのか、とふしぎだった。
ルイたちと調べ、狭山茶の老舗、和泉茶園が近年、急激に業績を悪化させていたことを知った。
「ああいう顔をしたやつらは何人も見てきた。おれも、ああいう顔をしてたからな。返済のことしか頭に無い。不幸すぎて、ひとのことなんかどうでもいい。鬼の顔だ」
官九郎はちがうよ、とお市は言った。
「たぬき顔だよ」
そうだ、とテツも言った。
「いいたぬきの顔だ」
「……」
カンクロー、とお市はふてたように言った。
「もういいかげんに、自分がいい社長だったとみとめろ」
「――」
「力尽きるぎりぎりまで、社員の家族食わしてたんだ。いい社長だろ。一介の木挽き職人だったら、養えない人数を食わしてたんだぞ」
そうだ、とテツも言った。
「いいたぬき社長だ」
官九郎は聞こえないふりをして、庭を眺めていた。茶色いニワトリが木陰でうずくまっている。
お市は言った。
「息子さん――。オサムさん。今度、栄作さんの建前の時、来るよ」
「え」
そんな話は父親本人は聞いていない。
「おれも青空兄も時々、電話受けてるよ。親父の体調、どうかって。苦労してきた親父だから、なるべく長生きして、好きなことしてほしいんだって」
官九郎は答えず、空を見上げた。
ちょうどヘリコプターの音が頭上をよぎり、彼方へ消えていった。
えびまよは軽トラを停め、喫茶店に似た瀟洒なオフィス、飛匠・め組の事務所に飛び込んだ。
迷わず言ってしまうつもりだった。
人生、いつ横から死の穴が飛び出してくるかわからないのだ。
顔見知りの女大工が、書類から目をあげた。何か言っていたが、えびまよは聞いていなかった。
「かちおちゃん――」
応接セットから白い額があがった。
えびまよは怒鳴るように言った。
「かちおちゃん! 好きや! いっしょに郡上おどり行こう!」
夏千代はぽかんと見返した。
その視線が水平に動き、えびまよはその場に別の人物がいることに気づいた。
(来客中!)
全身の血がカッと顔に差し上った。
「あ、あの。あとで」
悶絶しつつ、下がろうとした時、パーテーションの上ににゅっと男の顔がのぞいた。
「なんや、彼氏か」
夏千代は、「そうや」と言った。
えびまよは耳ざとくそれを聞きつけた。
夏千代は何か書類を片付けながら、
「そういうこっちゃ。――えび、あとで」
「なんや、おるんかいな。どれ、モノ好きの顔見よ」
ちょっと、と止められながら、中年親父がノコノコと出てくる。
浅黒い男らしい顔立ちながら、切れの長い厳しい眼がどこか夏千代に似ていた。
「どうも。夏千代のパパですうー」
えびまよは杭で打たれたように立ち尽くしてしまった。
「あ、あ、ああ」
どもるように名乗り、その後、言葉が継げない。
男はニヤリと笑って言った。
「間のええ男や。今、こいつに見合い話持ってきたとこやった。こりゃ神さんのはからいやな」
青空は朝六時の鐘を突いた。
鐘の音が朝の山村に響きわたる。
鐘楼から駆けおりると、本堂へ向かった。テツとお市はすでに控え、導師を待っている。
三人の僧は本尊に向かい、朝の勤行をした。
青空は振り返り、
「本日まで、お山をお助けくださり、本当にありがとうございました」
合掌し、深く頭を下げた。さらに、封筒を出し、
「――これ少ないけど。医療費だけは手をつけちゃダメだよ」
ふたりの弟弟子はえびす顔を隠すようにひれ伏した。
青空はいつもの笑顔に戻り、
「わたしはね。テツくんのお父さんに助けられて、坊さんになったんだよ」
「――」
「まだ学校に上がらない頃、病気で死にかけてね。テツくんのお父さんと、まだ小学生だった智秋先生がご修行で通りかかって、お加持してくれたんだ」
テツはその話を知らなかった。青空は、はにかんだように笑い、
「だから、こないだの事故の日、テツくんに助けてもらって、デジャブかと思った。ちょうどお父さんにああやっておんぶしてもらって、庭を見せてもらったんだ。実の親も見捨てるような、汚らしい病気の子を、あやして、おんぶしてくださってね。大きな背中があったかくて。外の世界が水晶みたいにきらきら輝いていて、庭木や花が色あざやかで、空がきれいで。はじめて、この世に生まれてよかったとおもった。――」
ふたりに言った。
「鉄舟さんも、市安さんも、仏様のよい片腕になれるよう、しっかり修行してくださいね。瞬間瞬間が修行ですよ」
ふたりはふたたび、頭を下げた。
その日、朝飯を済ますと、ふたりは村中に見送られて、山を下りた。
お市は言った。
「青空兄は、旅に戻りたいだろうな」
「――」
自分の好きなことばかりしていては修行にならない。仏が導いた縁のままに、そこで仕事をするのが僧だと、青空は言っていた。
テツはぼんやり黙っている。お市は見透かし、
「お父さんみたいな、スーパー祈祷僧になりてえな、なんて思ってんだろ」
「――」
「旅先で子どもを救うカッコいいシーンを夢見てるだろ」
「こいつ、脳内を」
「誰でも見えるわ。それにはね。阿闍梨にならないとダメなんですよ」
「――」
「こんな寄り道ばっかしてたら、いつまでたっても、小僧のままですよ」
「――ですね」
「一年歩いて、水戸から岐阜って、平安時代の人より遅いペースだから。平安貴族がかたつむりに乗ってても追い抜いてるからね」
「急ぎましょう」
「そう。急ぐのです。次は天台帝国の帝都、滋賀ですよ」
ふたりは蝉時雨の降る山道を、笠を目深にかぶり、軽快に下りていった。
その夜、郡上八幡には、地元、県外から踊りを楽しむため、華やかに浴衣を着付けた男女がひしめいていた。
えびまよは広海に借りた浴衣に帯を締め、緊張しながら待っていた。まだ踊ってもいないのに、のぼせたように熱かった。
(かちおちゃんが彼氏って。彼氏っていった。彼氏。彼氏!)
その一事だけで舞い上がっていた。
(しかし、なんなんでしょうか。コレ)
えびまよの隣には、小柄な老人たちがネズミの群れのようにかたまっている。
「手をこうやろ。ほして、こうやろ」
「いまの浴衣はみょうちきりんやんなあ。なんや、ズロースみたいなヒラヒラがついとるわ」
「なあ、おれのゲタ、もう指の股がかゆいんやけど」
「はりきって新しいの買うやでや」
栄作たちは勇気を出して、村の外に観光に出てきた。久しぶりに見る大勢の人間に圧倒されていた。
栄作は言った。
「壁の花になってはだしかんぞ。今日は絶対、一曲だけでも踊るぞ」
広海はしきりと扇ぎながら、
「どしてそんに社会運動でもするみたいに、力みかえっとるんよ」
「おまんかて、車のなかで、ずっとフリの暗記しとったがな」
「コロッケ、コロッケ」
ヘチマが現れ、老人たちにコロッケと飲み物を配る。
「ちびっこはどこ行った?」
「ぼーたちはもう、ダンデーとよしのちゃんと踊り行ったがな。なあ、ヘチマくん、ちょいとフリ見とくれ」
その時、えびまよは声にならない叫びをあげ、飛び上がった。
夏千代が白い手で団扇を振っていた。
(ああ! 今日も、今日もきみは、――)
夜の灯のなかに、夏千代の浴衣姿は映えた。紺地に大振りの牡丹。白い襟元、白い手首、立ち姿があでやかで、まぶしかった。
えびまよは糸で引かれるように進み出た。
夏千代は笑い、
「エリカたちも来てまった。いま、下駄買い行っとる。そっちも団体さんやなあ」
「ごめん――」
ふたりは笑い、黙った。えびまよの心臓が激しく跳ね上がっていた。咽喉をひきつらせ、言った。
「キッ、きれいやお」
「――」
夏千代は噴き出した。
「果たし合いかな」
彼女は笑い、団扇で踊りの輪へとうながした。踏み出しかけ、あっと、何かを見て、眉をひそめる。
「なに?」
「いま、坊主頭があったような――ふたつ」
「え?」
えびまよも踊りの列に首をのばした。提灯の灯りの下で袖をさしあげ、人々がくるくる回っている。
囃子の笛、のびやかな歌声に合わせ、踊りの群れが万華鏡のように袖をひらめかせて流れる。
指差し、駆け出すふたりの下駄が、カラコロとふくよかに鳴った。
しゃみしゃっきり。
―― 了 ――