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おれ、今日死ぬの?

 バスは東海北陸道を美並ICでわき道にそれた。

 道の先端がくるりと丸まってロータリーとなっている。そこに小さなバス停の小屋があった。

 数人の降車客が下りた時、えびまよとホームレスは荷物をつかみ、一気に駆け出した。


「おい、待て!」


 ステップを蹴った途端、僧の怒声が飛んだ。

 えびまよは前の客を突き飛ばし、夢中で駆けた。


 半円のロータリーには、道路しかなかった。

 周囲はコロシアムのように坂がせりあがり、草で覆われている。

 人家が見えない。上方にちらりと屋根が見えたが、坂はフェンスでさえぎられている。


(ちょ、どっか、隠れるとこ、隠れるとこ――)


 後方で男の悲鳴が聞こえた気がした。


 ――あの親父、捕まった! 


 のどが絞まるように思った。次は自分だ。

 えびまよはキャリーケースを捨てた。面接用のスーツが入っていたが、命には代えられない。


(交番。おまわりさん)


 ぽつんと赤い看板が立っていた。道路の向こうに、平屋のカラフルな屋根が見える。


 ――コンビニ! ひとがいる。


 道路は大きなカーブとなり、くだり坂になっていた。えびまよは勢いを得て、転がるように駆けた。

 その時、視界の端に黒いものがかすめた。


(!)


 ふりむき、えびまよは悲鳴をあげそうになった。

 恐ろしい勢いで走る僧がいた。小銃のように錫杖を抱え、ほぼ足音をさせず、滑空するように迫ってくる。白目はまっすぐえびまよをとらえていた。


(うわああああ)


 えびまよは懸命に足を繰り出した。


(たすけてたすけてたすけて)


 あれは僧ではない。捕まったら死ぬ。自分の足の遅さに泣きそうになった。


(おれ死ぬん? 今日死ぬん? 変なもんに助けを求めて殺されるんか? ――おかん)


 背後に気配がする。手が伸びてくる。


「!」


 えびまよはわめき、地を蹴って逃れた。

 その時、肩のすぐ横に大きな影が降ってきた。

 えびまよは息をのんだ。


 フロントガラスごしに運転手のひん剥いた目が見えた。顔の前にトラックのバンパーがあった。タイヤのきしむ急ブレーキ音が響き渡っていた。

 弾かれ、えびまよのからだが宙を跳んだ。


(あ。しんだ)


 気づくと、頬の下に人間の腕があった。太い腕が頭と胸をきつく抱え、黒い衣が覆いかぶさっていた。

 トラックからあわただしく人が降りてくる。


「大丈夫ですか」

「当たってないです。大丈夫。行ってください」


 からだの上の人物が、冷静に言う。いきなり跳ね起きると、えびまよの襟首をつかんで、引っこぬくように起こした。


「てめえ!」


 僧が百雷のごとく怒鳴った。


「なにはっちゃけてくれてんだ、こらあ!」


 えびまよは、ぼう然と揺さぶられていた。トラックには当たらなかったようだ。

 が、顔の前に鬼の形相があった。拳のような怒鳴り声を浴びていた。


(これ助けられた? まだ助かってないんかな?)


 僧の額は擦りむけて血がにじんでいた。


「なんで逃げんだ。意味わからねえ。おまえが呼んだんだろ。寺に世話になるつもりで、ネットに書きこんだんだろ。まさか」


 その細目がくわっと瞠き、


「いたずらか? おまえら、あれか? ユーチューバーか? おい、ことと次第によっちゃ、警察突き出すぞ!」


 え? とえびまよは見返した。

 その時、傍らをバスが坂を下り、赤い胴を見せてうねるように曲がった。

 僧がぎょっと顔をあげ、


「あ、あ。ちょ、まって」


 僧は飛び起き、走り出した。が、バスは直線に入って加速した。暮れかけた空の下、悠々と走り去ってしまった。


「……」


 僧はふりかえって、えびまよを見た。影でその表情は見えなかったが、声は暗かった。


「で、どうなんだ」

「――」

「いたずらだったのか」

「ちがいます。本気で」

「あそう」


 僧は疲れたようにさえぎった。落ちていた錫杖を取り、


「今行ったあれが、終バスに乗り継げる、最後の便だった。和良行きは六時四十八分が最終。次のじゃ、もう間に合わない」

「――」

「八幡から寺まで三十キロあんだぞ。おまえ歩けんだろうな」


 えびまよは眉をひそめた。もしや――。

 僧は未練がましく道路を眺め、鼻息をついた。


「台無し。おまえらをあれに乗せるために、職質もぶっちぎって駆けつけたのに」


 えびまよは夕空を見上げた。ついでアスファルトの地面を見下ろした。

 髪が逆立つように理解した。


(田舎の終バスは早い――ッ!)





 夜の山は右も左もわからぬ闇だった。

 舗装状態のよくない山道を、軽トラがヘッドライトをたよりに、よたよたたどって行く。


 えびまよとホームレスは、その荷台で細かく弾んでいた。

 ホームレスは星空を見上げ、


「こういうのもオツだねえ。なんか古いアメリカ映画みたいじゃない? 魂のハモニカでも聞こえてきそうな。フイーン、なんつて。えびちゃん、映画とか見るひと?」

(……)


 えびまよは答える気力もなく、ひざを抱えていた。

 運転席の僧が気になっていた。


(おれはなんちゅーことを) 


 えびまよは頭をひざの間に落とし、苦しく後悔した。


(善意のお方に、なんちゅーご無礼を働いてまったんや)


『臓器売買の、闇商人の方かとおもったので』


 そう打ち明けた時、僧は笑わなかった。のけぞるように壁によりかかって、五秒ぐらい黙っていた。

どんよりした目で、頭陀袋から身分証を出して見せた。

 白馬山明王寺と書かれた手帳には、筆字の文言とともに、


 ――平鉄舟(たいらてっしゅう)


 という名が記されていた。

 さらに、運転免許証も見せた。もうわかったというのに、リュックを押し開いて見せ、中に人間など入っていないことを確かめさせた。


『これはキャンプ用品。ロープとか、刃渡り六センチ以上のナイフとか、ややこしいものが入ってるから、職質されたくなかった。一度撒いたんだ。持ち物検査になったら、バスに間に合わないから』


 自分は旅修行の途中で、これは旅の装備と、くどいほど説明した。


(笑うとこやのに)


 えびまよとホームレスはとまどった。

 勘違いや、漫才やなあ、と大笑いしておしまいになるはずだったが、僧は説明した後、むっつりとバス停小屋から出て行った。その後も態度がそっけない。


(機嫌損ねた。おっさま、まじめな人やった)


 さらに僧が不機嫌になることが続いた。

 ふたりの勘違いのせいで、終バスには乗れなかった。しかたなく郡上八幡から国道を歩き出したが、まもなくえびまよとホームレスはもつれるようにへたばった。

 栄養失調でエネルギーが一滴も残っていなかったのである。


 僧はもう何も言わなかった。ひとり先行し、五時間後、寺のトラックに乗って、ふたりを迎えに来た。


(おっさま、とっくにオーバーワークや。おれらお荷物過ぎ。面倒かけ過ぎ。も絶対嫌われとる)


 えびまよは不安に悶えた。

 ここをしくじれば、明日から路上生活になるのである。本当に餓死するかもしれない。


「おじさん」


 えびまよは闇を見つめた。


「おれら、入信したほうがええかな」

「え」

「お寺。何宗やろ。信者になったほうがええんかな。つか、いっそ出家すべき?」

「えびちゃん、落ち着いて」


 ホームレスが言いかけた時、トラックが止まった。僧がドアを開け、言った。


「下りて。玄関開いてる」


 周囲はくろぐろと山がそびえている。降りた地面は土だった。

 屋根すらさだかでない闇のなかに、玄関らしき千鳥格子が明るく光っている。

 宝生山施無畏寺(ほうしょうさん・せむいじ)に、着いた。





 住職の『131』はいない。転落事故で、入院してしまっていた。

 無人の寺を、代わりに鉄舟僧が采配した。


「ダンディさん、薪で風呂焚けますか? おねがいできますか。えびは、いっしょに見て覚えて。かわりばんこに風呂入ってくれ」


 その間、彼自身は寺を駆けずりまわり、こまごま支度した。

 庫裏(くり)(住居スペース)は古い。廊下は長く、照明器具なども昭和のデザインで薄暗い。


 だが、どこもチリひとつなく掃き清められ、磨きこまれていた。古い家屋のにおいもなく、線香のにおいすらしない。

 風呂はヒノキだった。ダンディは薪のくべ方を教えた後、


「おれ、お湯いっぱい使うから、えびちゃん先入んなさい」


 一番風呂を譲った。

 えびまよは、ひさしぶりに熱い湯に埋もれた。全身の毛穴が開く強烈な快感に、信じられぬ思いで、浮かんでいた。


 脱衣所には、いつのまにか浴衣と新品の下着が用意してあった。

 食堂らしき広い畳の間に入ると、


(!)


 えびまよは、しばし立ち尽くした。

 座卓には、取り皿と箸が三人分、正しく置かれている。座布団も三つ。

 部屋は整頓され、明るかった。えびまよは箸置きに置かれた塗り箸を見て、なぜか放心した。


「悪い。鍋敷き、敷いて」


 鉄舟坊が平たい鉄鍋を手に、入ってきた。

 鍋敷きの上に、グツグツと音をたてる鍋が置かれる。きれいにならんだ豆腐とネギのとなりはすべて、肉だった。


 ――す、すきやき。


 とたんに口中からよだれが滝のようにあふれ出た。


 いただきます、と言っただろうか。

 僧が何か唱えていたが、聞こえなかった。箸をつかみ、夢中で肉を拾っていた。


(うおおおおお)


 噛み締めると、脂と甘みが口中で溶け、のどをすべり降りて行く。快い甘み、歯ごたえが脳を直撃する。いつのまにか飯碗を抱え、大量の白飯をほおばっていた。息をする間もなく、箸が止まらない。


(うおおおお、なんやこれうめえ! でらうめえげー!)


 肉と豆腐、ネギを割り下で煮ただけのものだが、腹に染みとおるようにうまかった。

 飯つぶの甘みに涙が出そうだった。あたたかい飯とあまじょっぱい肉に、知らず唸り声をあげ、鼻をすすっていた。

 ひさびさの白飯。肉。手料理の火の味。


「いやもうなんなの、このしあわせな感じ」


 ホームレス――ダンディも隣で、せかせかと飯をかきこんでいる。

 この男は無精ひげを落とし、さっぱりと人間らしくなっていた。


「最高だねえ。えびちゃん、おじさんについてきてよかったろう。ほら、卵も使いな。いっぱいあるから」


 箸も動いたが、機嫌のよいおしゃべりが止まらない。


「あの山道をねえ。苦労して登った甲斐があったわ。あ、車で来たんだっけ? あん時さあ。足が乳酸で酢のものみたいになっちゃってさ。おんぶお化けにおんぶしてもらいたかったぐらいだもん。山なんか登るもんじゃないよ。ハイジじゃないんだからね――て言うか、てっちゃんもいい喰いっぷりだねえ」 


 鉄舟坊は自分も山盛りの飯を急速に平らげていた。ジャーをとなりにおいて、せわしなくおかわりを盛る。


「おれも、三十二時間ぶりの飯」


 釣られたようにしゃべった。


「おれも、ここの住職に用があって来たんだ。昨日の晩、関から一晩歩いて、ここまで来た。そしたら、崖の下に車が落っこってた」


 きれっぱしのように言って、また肉と飯を口に放り込む作業に戻った。用がなんだったのか、言う気配はない。


「あらあ、大変な一日だったねえ」


 ダンディは感心してみせ、


「関から歩くって。パリ・ダカールレースぐらい距離あるんじゃない? そら、腹もたったでしょう。トンチキがふたり、バスから逃げ出した時は」

「――」

「わはは。ま、あれだね。苦労したね。どんどん食べなさい。ところで、和尚さんてどんな方なの? おケガは大丈夫なのかな」

「頭の皮切っただけだ」


 鉄舟僧はまた卵を割り、


「名前は松井セイクウ。あおぞらって書いて青空。年は二十九か三十」

「……」


 さすがにそれだけでは不親切だと思ったのか、


「前に見た時は、おばあさんを助けようとして、車にはねられてた。その前に見た時は、コンビニで、強盗に説教して、切りつけられてた。うちの寺では『お浄土に一番近い男』と呼ばれてる」

「……」


 ダンディは、


「勇敢なお坊さんなのかな。おれは好きだね。おれが保険屋だったら、また話はかわるけどね」


 ダンディの脳天気なおしゃべりのおかげで、食卓は明るかった。

 えびまよはスキヤキで頬をふくらませながら、ようやく、


(テツさん。怒ってない?)


 と、気づいた。

 このいかつい僧も一心に顎を動かしている。口数は少ないが、不機嫌ではない。腹が減って、早く飯にしたかったのだ、とわかった。


 さらに――。

 部屋に通された時、えびまよは胸を衝かれた。


 和室にはふとんが端然と敷かれていた。

 シーツも枕カバーも輝くように白く、かけぶとんは分厚く浮き上がっている。


 ――ふとん乾燥機! 


 ふとんの間には、膨らんだふとん乾燥機がはさんであった。


(テツさん、こんな)


 えびまよはへたへたとひざをついた。

 枕元にたたまれた着替えの上には、小さなコンビニの袋が乗っている。新品の下着の替えとヒゲソリが入っていた。

 まだ新しいコンビニの袋を見てわかった。


(あのバス停の)


 えびまよたちがバス停の小屋で、『闇商人かと思いまして』とへらへらと打ち明けた時、僧はしつこいほど釈明した後、ぷいと出ていった。次のバスが来るまで戻らなかった。


(あの時、コンビニ行っとったんや。おれらのパンツ買うてくれてた――)


 鼻から水っぽいものがしたたり落ちてきた。

 えびまよは手で涙を掻いぬぐった。


(おれこんな――。こんな……してもらえるような……やないのに)


 胸のなかに、ひどく熱い塊がもたげ、苦しかった。毛布一枚でいいのに、と思った。


 ネカフェでは毛布一枚だった。他人のたてる物音と不安に耳をふさいで、暗闇のなかで目をつぶっていた。不潔な服を着て、日雇い仕事をして、ネカフェで眠る。真っ暗闇で、虫が蠢くように生きていた。


(こんなん、間違いや)


 分厚くふくらんだふとんがまぶしかった。鼻水をすすりながら、あたたかいふとんを撫で、


(きっとなにかあるんや。なんかえげつないオチが)


 この美しいものをブチ壊すなにかが出てくるにちがいない、と思った。


 ふとん乾燥機を片付け、あたたかいふとんを開いた。

 なんの遠慮か、ふとんの片隅にはさまり、身をよこたえた。

 意識が落ちる刹那、おぼれている仔犬の夢を見たような気がした。






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