瓶の中
座敷に上がると、ロクは勝手に座り、猟銃をひきよせた。
「なんや見んうちに、知らん人間がようさん増えとるなあ」
ロクはなぜか、和泉兄弟のことも知っていた。孫に菓子でも与えるような柔らかい声を出し、
「金を受け取るまでに、まんだ時間はあるろ。ちいと落ち着いて座りなれ」
兄は言い返そうとして、たじろいだ。
老人の顔には、なにかの欠落したような大きな笑みがあった。武力をためらわない人間特有の鈍さが、笑いに現れていた。
兄は弟に小声で、
「有馬を見張ってろ」
言いつけ、老人に対座した。
えびまよもまた、駆けつけたヘチマとルイに小声で頼んだ。
(ダンディさんについててくれ)
自分は庭側の広縁に控え、障子の陰に座りこんだ。
この老人は味方らしいが、不安だった。銃声がまだ耳と腹を貫いている。
(ちょっと待って? 今猟期やないやん? この鉄砲はなんのため? これから何がはじまるんや)
青空がたしなめた。
「ロクさん、銃口をひとに向けておいちゃダメです。また暴発したら危ない」
「ええやんな。そうなったら完全に事故やで、おれも長く喰らわんで済む」
「!」
兄が身構えた。
いけません、と青空は猟銃を取り上げた。客ふたりの間に座卓を運んで引き離し、猟銃は自分の尻の後ろに離して置いた。
ロクは笑った。
「冗談やがな。どうや。退屈やろ。おじいさんがひとつ、昔話でも聞かしてやるわ」
「?」
兄は遠慮しようとしたが、ロクは座卓をトンと叩いて、
「千二百年前、この寺を創った無畏大師さまのお話や。おまんの利益にもなる。なに、五時までには終るで。――これはおれの婆さが、炉辺でしゃべっとったのを耳で覚えたもんで、ちいと飛騨言葉がまじるかもわからんが、なるべくわかりやすく話すでな」
そう言って勝手に話し出した。
「むかーし」
ロクは話をした。
「無畏大師、寛円上人が、東国巡錫へ行かっしゃった時のこと。ま、平安時代やな? ――」
それは、寛円上人が村のタネをめぐり、イチイの乙女と旅をするという長い物語だった。
一行は神不知の鬼をうまく騙し、石の花瓶を手に入れた。大鷲に藤籠ごと掴まれて逃げたものの、降り方がわからない。足裏をくすぐってみたら、そのまま落下することになった。
「しかし、船のように大きい藤籠や」
ロクは語った。
山のてっぺんに落ちると、そのままズザザーとすべってな。果てしなくすべった。
勢いがついとるから、下るだけやない。上る。上っては下り、上っては下り、とうとう飛騨まで戻ってしまったんやと。
乙女がわめいた。
「このままではわしの崖をも過ぎてしまう!」
手津丸さまが籠から飛び出した。駆けながら大きゅうなってな。びゅうっと籠を通り過ぎた。
崖の手前で向き直り、その前肢で籠をはっしと止めたんやと。
はずみで、みなは籠から飛び出たが、痛い尻をさすっても、
「よう生きてた。よう生きてた」
みな笑うばかりや。
ちょうどイチイの木の前に来ておった。
さて、と寛円上人は思い出され、
「約束じゃぞ。あのいなごの怪を調伏する法を教えてくりゃれ」
「なんのことはない」
乙女はこともなげに言うた。
「わが木種をあのトンブシに食わせればよいのじゃ」
「?」
「わが木種は猛毒じゃが、病の者には薬となる。あの物の怪が人に食いつくのは病からじゃ。病が癒えれば、無害であろ」
ただしな、と乙女はまた意地の悪い笑みをつくり、
「食わせるのがむずかしい。あやつはすぐ飛んで逃げてしまうでな。一番よいのは、寛円、そなたがこの実を食い、あの物の怪に丸ごと喰われることじゃ。瀕死の人間なら、あの臆病者も必ず食いつく」
手津丸さまと飛騨の匠が、険しい目に変わった。
乙女は笑い、
「だから、むずかしいと言ったのじゃ。放っておけ。あそこに村がなくても何も困らぬ」
「しかし、ひとが喰われておる」
寛円上人は立ち上がり、言わさった。
「イチイの乙女よ。木種をもらおう」
「……」
乙女は赤い実をひとつかみ、差し出した。
上人は手に受け、幾つぶかポイと口に放り込まれた。
「ほう。甘い実じゃ」
「――腹が減ってるだけじゃ」
もはや乙女も笑ってはおらなんだ。
寛円上人はにっこりと一首詠まれた。
「――ひとの世や 舞う姿や雅やか にぎやかなるかな 逢坂の関」
さらば、と身をひるがえし、村へ向かわれた。
先まで明るかった森は、日が落ちて、影をのばしておった。その暗い中へ上人はひとり入っていったんやと。
乙女はあざけって言った。
「阿呆な男じゃ! あのトンブシが喰うたのは、臆病者、年寄りや病もち、ごく潰しばかりじゃ。放っておいても害はあるまいに!」
手津丸さまは言わさった。
「ごく潰しゆえに、祐くるのよ」
「――」
「昏き、欲深き、むごき衆生を救うのが、神仏じゃ。欠けるからこそ祐くるのよ。衆生とはな。どれほど昏き者であれ、苦界の道を懸命に歩いておるものじゃ。そのような者が流した涙を、師は見捨てぬ」
手津丸さまは歩き出した。
「師は浄土へ帰り、御仏の姿に戻られる。わしは修行して追う。そなたは、さっさと石の水を飲むがよい」
乙女は石の花瓶を見ていたが、どうしてか、ついに飲まなんだ。
袖をひるがえし、花瓶を崖から深い谷底へ、ぽーんと放り捨ててしまったんやと。
乙女は駆けだし、寛円上人の背を後ろから思い切り叩いた。
「喰うてはならぬ!」
その拍子に、上人の口からパッと四粒の赤い木種が飛んだ。上人はつんのめって倒れ、伸びてしまった。
「飛騨の匠よ」
乙女はふりむき、匠に命じた。
「われを伐って、人形に刻め。われの袖に木種を多く隠し、あの物の怪に喰わせよ。この馬鹿めに――」
乙女は歌を一首詠んだ。
「――あぢきなし 仏の果報は 思わねど きみの笛の音 忘れかねつる」
言い終わるや、乙女の姿が薄くなり消えた。
すると、イチイの大木がぐらりと揺れ、大きな地響きをたてて倒れたんやと。
飛騨の匠は一夜のうちに、見事な仕事をした。
乙女そっくりな木像が彫りあがり、村に置かれた。イナゴは木像にかじりつくと、その岩のような歯ですり潰して食べた。
まもなくトンブシは激しく跳ね回った。村の田も畦も踏み潰し、家すら壊して、跳ね跳んだんじゃ。
「あ」
寛円上人と手津丸さま、飛騨の匠も見守る中、なんと、トンブシの口からどろどろとよだれが垂れ、赤い実の汁が出てきた。つづいて、人間がつるりと出てくる。
小さな子どもがつるり。
百姓男がつるり。
女がつるり。
それらはまんだ動いておる。
次々と今まで食べた人間が、口から吐き出された。二十人も吐き戻したあと、しまいにちっこい、犬コロをつるっと吐いてな。
トンブシはほっそりと痩せてしまった。羽をひろげ、軽やかに森へ跳んで行ったんやと。
最後に出た小さな仔犬は、どこでくっつけたか頭に小さな瓶をかぶっておって、
「おそがい、おそがい(こわいこわい)」
言うて、手足をもぞもぞ掻き、助かったことに気づかずにおった。
上人が独鈷で瓶をコンコンと叩き、
「見よ。聞け。嗅げ。味わい。触れよ」
そう唱えらさると、からりと瓶が割れた。
「ほうれ。そこは足がつくぞ」
仔犬ははじめて目をあけ、よろこんで矢のように走ったんやと。
けど、乙女だけは木っ端となってどうしてもみつからなんだ。
寛円上人は、草の上で、イチイの赤い木種を四つ拾って、それを思いっきり投げ、
「イチイよ。大きく育て。結界となって村を守れ」
するとな。一度、聖の口にふくまれた木種は、すぐに若いイチイの木となって村の四方に立ったんじゃ。
上人はイチイの若木に言わさった。
「そなたらの母御は嫌われ者じゃ。妖怪どもは近づかぬ。千年後、村のタネが育つ時まで、村を守れよ」
四方が守られ、そこは道ではなく村となったんじゃ。吐き出された人々は、その村で暮らす村人となったんやと。
小さき神はたいそうよろこんで、
「寛円よ。うれしいぞ。なにか願いをかなえよう」
「では、ここに御仏の堂を」
寛円上人はイチイの乙女を哀れんでな。残ったイチイの幹で観音菩薩を彫り、堂にたてまつったんじゃ。
この観音様は、なぜかはじめから片腕がない。
「片腕はもうすでに、苦しみあえぐ衆生を助けておられるからじゃ」
それが、施無畏寺の単臂観音さまのいわれなんやと。
しゃみしゃっきり、とロクは結んだ。
和泉兄は半分催眠状態にあったかのようなにぶい顔をしていた。
ロクは彼に向かい、
「さて。このおとぎ話、じつはまったくのデタラメではないんやぞ。無畏大師さまがイチイの木を植えたのは、史実やでな。記録もある」
思い出すように本堂の方へ目を向け、
「施無畏寺縁起ちゅう巻物があって、そこに無畏大師寛円上人が東国巡錫のおり、この村に立ち寄り、単臂観音の堂を開基、イチイの木をお手植えされた、とあるんじゃ」
「……」
兄は眉をひそめた。老人が何を話しだしたのかわからずにいた。
「そのイチイは明治の廃仏の混乱で、四本切ってまったが、お話と違い、お手植えされた木はじつは五本あった」
「?」
青空も言った。
「そのほうが理屈に合います。密教では、地水火風空など、五の数をとても大事にします」
「つまりやな。千二百年前に植えられたイチイの木が、まんだ一本残っとるちゅうこっちゃ」
兄はまだ話の方向が読めないでいる。
ロクは言った。
「イチイは、高級材でな。大径木は今はほとんど市場に出よらん。樹齢千年のイチイはめったにない。状態がええなら、金になる。数千万はするろ」
金額を聞き、兄はわれに返った。
「――加えて、一化宗の祖、無畏大師さま御手植えの木じゃ。好事家はよだれ垂らして欲しがる。億、いくやもしらん」
「おい、まさか」
兄は思い至り、ぎょっとしてロクを見た。
「あのふたりの坊主は、その木を伐りに行ったってのか」
「見つかったらな」
ロクはからかうように眉を釣り上げた。
昨日、ロクの丸太小屋に、栄作とふたりの若い僧が現れた。栄作はダンディの事情を話し、伝説の木の場所を教えてやってくれと頼んだ。
ロクは川釣りをするダンディと小さなつきあいがあった。
「場所も寺山の深いとこで、よう人が行きよらんのよ。ご本尊さまが斧を持った人間は迷わせるいうてな。おれもナン十年も前、一度見たきりや。それに、記録にはないが、だれかバチあたりがもう伐って、金に替えたかもわからん」
兄の形相が変わっていた。あごを細かに引き攣らせ、歯を軋ませていた。
「――こんなくだらん与太話のために、一日引き伸ばしたのか。あるかねえかもわからねえ話で」
時刻はすでに二十分過ぎていた。いまだ僧たちの姿はなかった。
青空はなだめ、
「山道ですから、多少遅れてるのかもしれません。でも、イチイの木はきっとありますから」
「あんたは見たことねんだろ! 伝説レベルの話なんだろ! ふざけやがって。現金じゃなきゃ意味ねんだよ! 今、丸太もらってどうしろってんだ!」
額に筋をたて、険しく顔をゆがめると、立ち上がった。
「カイ! 有馬を連れて来い!」
待って、と立った途端、青空が蹴られ、ひっくり返った。
「!」
兄の手に、猟銃が握られていた。
「もううんざりだ。邪魔をするな」
兄は広縁に踏み出た。
えびまよが立ちふさがっていた。
「どけ!」
えびまよは覚悟があって、立ち向かったわけではなかった。
とっさに立ち上がったら、目の前に銃口が飛び出てきたのである。
えびまよは黒い丸い穴を見つめ、動けなかった。いきなり死がぽっかりと口を開いていた。
この瞬間、えびまよはふしぎな精神状態に陥った。
急に視界が全方位に広がり、周囲がまぶしいほどに明るくなった。
ふたりが立つ廊下も、黒い軒も、紫がかった夕空、庭のぶどう棚の緑、子どものじょうろの黄色も、一切が黒い線で区切ったように鮮烈に見えた。世界が南国の蝶の羽根のように光を帯び、脈動している。
その中心に男が立ち、銃を構えていた。
なぜか顔が見えない。顔だけ霧がかかったように、目鼻の判別がつかない。
(瓶だ)
男の顔は陶器の瓶で覆われていた。
奇妙な光景だった。絢爛たる色彩の世界に真ん中に、あごまで瓶をかぶった男が立つ。
えびまよは男のかぶった瓶を見つめ、そのよろこびと無縁の沈黙に気づいた。
(あの瓶の中は)
そう思ったとたん、光が消え、視界が暗くなった。
瓶のなかに、豆電球で照らされたような暗い世界があった。
黒い川が流れ、大気がざわざわと騒がしい。羽虫の唸りのような音のひとつひとつが、否定する呪いだった。
その世界に、男が孤立無援で立っている。男の手には銃ではなくロープの輪があった。穴のような目で宙を見上げ、縄をかける梁を探していた。
(え?)
唐突に、時間が破裂した。
「やめな――ぬああっ!」
青空が悲鳴をあげた。とたん、兄とえびまよは広縁から吹っ飛んだ。
青空は立ち上がろうとしていた。その時、ケガをした足首がねじれ、激痛によろけた。とっさに座卓を掴んだ。
座卓は日に灼けた畳をすべって、広縁にいたふたりのすねに当たり、庭に突き落としたのだった。
銃を抱えていた兄は、受身がとれなかった。
えびまよは夢中で転げ起きた。目の前に銃があった。それを引っ剥がし、放り投げた。
おそろしかった。
兄の腹に飛び乗り、めちゃくちゃに殴った。その顔に固い瓶がかぶっているかのようにゴンゴン拳を浴びせた。
――割らなくては。
混乱していた。見た幻影が何かわからなかった。ただ、組み敷いた悪党のあまりの生気のなさ、はてしなく落下していく人間を打つような手ごたえのなさに、うろたえきっていた。
兄はあっけにとられたようだった。ようやく我に返り、えびまよの腕を掴んだ。跳ね除けようともがいた時、
「そこまで」
二の腕を、上から飛んできた泥靴が思い切り踏んだ。
肩で荒く息をしたテツがそこにいた。