彼もまた、特別な存在だからです
その晩、兄弟は寺を去らなかった。
ダンディを見張るといって聞かず、寺に泊まりこんだ。
「あいつら、拉致る気やないか」
ヘチマは心配して、ルイに言った。
「県道の木、切り倒して、道塞いどいたらどうやろ。車出せんように」
「えびなら、車自体動けなくできるんじゃね?」
庭先でふたりが暗い額を寄せて話していると、官九郎が、
「おまえら、変な小細工はするなよ」
若者をたしなめた。
「不誠実なマネをすりゃ、むこうもヤケクソになる。寺に火でもつけられたらどうする。ガキもいるんだぞ」
「……」
しかし、若者たちは不安だった。
あの兄弟は裏社会の人間か、あきらかに裏社会とつながっている。ダンディのそばに置いておくのは危険だった。
ルイは腹立たしさすら感じていた。
「青空先生もテツさんも意味わかんねえよ。お市さん、時効って言ったじゃん。むこう、もう権利ないじゃん。ほっぽりだしゃいいんだよ。なんでかまってやってんだよ」
官九郎はじろりと見て、
「金を借りたら、返すのがスジだ。人として当たり前だろうが」
「……」
「お市とテツに任せておけ。あいつらには、なんか考えがあるんだ」
ちょいと、と小さいあごをしゃくった。調べものを手伝えとふたりを中へ誘った。
その頃、えびまよは本堂にいた。
本尊に花を供養する青空の所作を、ぼんやりと見守っていた。
青空は早めに儀式をきりあげ、ふりむいた。
「えびくん、心配しないで。といっても、心配になっちゃうよね。拝む? 拝む?」
青空は茶化すように言ったが、えびまよは笑わなかった。裏返りそうな細い声を出し、言った。
「先生。もし、テツさんたちが、お金作れなくても、行かないでください。……おれが、行きます」
青空は目を丸くした。
えびまよは恐怖で眩暈がしていた。こんな恐ろしいこと言いたくない。その場になったら逃げてしまうかもしれない。
だが、一瞬だけでも、いいやつ、でいなければならなかった。
えびまよは打ちのめされていた。
ダンディが連れ去れらた時、暴漢ふたりに近寄れなかった。僧である青空がしゃにむに食いついて、車に引きずられるほどのことをしたのに、三才児でさえ、かかっていこうとしたのに、自分はただ突っ立っていた。電話で通報すらしていなかった。
(おれ、ホントにゴミや)
土壇場で、いつも役にたたない。そんな自分がもはや無視できないほど苦しかった。
(おれも隠れてたらあかんのや。大人なんやから!)
青空はパッと笑った。
「じゃ、いっしょに行こうか!」
えびまよは笑おうとして、涙ぐみそうになった。青空の大きさに、すがって泣きたいような気分だった。
「先生は、なんで動けるんですか。怖くないんですか」
青空はきりっと見返した。
「慈悲の心があれば、恐怖など幻」
「――」
ドヤあ、と笑ったが、えびまよは困惑していた。
「調子こきました。すいません。まじめにいうとね。お坊さんは強力な守りがついてるの。仏様が守ってくれる、って信じてるからかな」
えびまよはがっかりした。もっと凡人にも使える話がよかった。
青空は笑い、
「あとね。これナイショにして欲しいのだけど、今回は私情もあった」
「?」
「ダンディさんをとられたくなかった。あの人はこの村にとって、特別な人だから」
じつはね、と青空は小声で話した。
以前、住むところのない若者に声をかけ、寺で世話をしたという話だった。
彼らは皆、真面目で善良な人間だった、としながらも、その人々は数ヶ月もしないうちに下山した。
「それ自体はいいことなんだ。家も仕事も希望もなくして、ふさぎこんでた人たちが、たくましく自分の足で出ていったんだから。それは卒業なんだよ」
とはいえ、村の過疎は深刻な問題である。
「でも、今回はダンディさんが来てくれたでしょ。わたし、これでえびくんも残ってくれると思った」
「?」
人が集まることも予感したという。
現に、すぐに官九郎が居つき、ヘチマとルイ親子がやってきた。
いまの村には、村の旧住民が来たり、夏千代たち大工チームが来たり、人の出入りがある。さらに、ドールハウスのためにバイトを募集しよう、という話さえ出ていた。
「たぶん、えびくんだけだったら、えびくんもきっと卒業して行ってしまったと思う」
「どうしてですか」
「孤独で」
えびまよは首をかしげた。青空は笑い、
「ダンディさん、あのゆるいとこが、凄いんだよ」
自分の考えだけど、とことわりながら言った。
「集団って、ああいう人が必要なんだと思う。ああいう、戦わない人。いつも好きなことやって、あんまり役に立たなくて、人に呆れられてもへっちゃらな人」
たとえば、と青空はやさしい目をした。
「今、えびくんが『どうしたら、怖くなくなるのか』って聞く」
「――」
「わたしは、怖いのなんか気にすんな、ぐらいのことしか言えない。でも、ダンディさんはいっしょに隣で震えてくれる」
えびまよはうすく口を開いた。
はじめて会った日を思い出した。バスの中で、テツの不気味な行動に、ふたりで震えていた。臓器を取る闇病院に連れていかれると思い、ふたりで泣きそうな顔を見合わせていた。
「責めないで、しっかりしろとか言わないで、いっしょになってあわててくれる。いっしょにヘマして泣いてくれる。そういう役に立たない人。誰とも戦わない人。そういう人がいないと、人間の集団は疲弊してしまうんじゃないかと思うんだ」
(――)
えびまよはあのバカバカしい出来事を思い出し、なつかしく、せつなくなった。
軽トラの荷台から星を見上げた時も、えびまよがくよくよ悩んでいる時も、ダンディはいつもふんわりと目の端にいた。
ほとんど、いただけだった。勝手にしゃべり、釣りをしたり、鼻歌を歌っているだけだった。
だが、いなかったらと思うと、えびまよはその痩せた風景に愕然となった。
あの鼻歌には確かに、何らかの大きな作用があるのである。
青空は、
「もちろん、えびくんたちも大事だよ。誘拐されたら、命に代えても取り返す。でも、わたし、ダンディさんは村のタネみたいな人だな、と思ってて。だから、今日は焦った」
私情、私情と笑った。
えびまよは先より少しだけ暖かい気持ちで言った。
「ダンディさんを、きっと守ります」
「おう。いっしょに守ろう」
青空はニッと笑い、
「といいつつ、汗をかくのは弟たちなんだけどね」
和泉兄弟はダンディの隣の部屋にいた。
ふたつの部屋はそれぞれ蚊帳がつられ、薄い帳で仕切られている。
扇風機はひとつしかなく、細い羽音をさせながら、熱風と蚊取り線香の煙を吹きつけていた。
ダンディの高いびきだけが、断続的に響き渡る。
「なんで眠れんだよ」
弟はスマホをいじりつつ、呆れた。
彼はふとんの上に長々寝そべり、ゲームをしていた。
「貴ちゃん。明日、ホントに金出来ると思う?」
兄もスマホを睨んでいた。こちらはメールを開いている。
「あ?」
「どっから持ってくんの。明日、葬式でもあんのかな」
「銀行だろ。それとも太い檀家でもあるのか」
スマホを閉じ、枕元に置いた。
「金の出所なんかどこでもいい。闇金でも隠し金庫でも」
兄はシーツのあたたまった部分を避け、転がって天井を向いた。扇風機の風がにぶく過ぎる。
弟はそちらに目を走らせ、
「おれは池上さんのほうがアテになると思うけどね」
「そっちは二百万じゃねえか。五百四十万のほうがいいだろ」
「二百万だって確実じゃん。なんなら、根本のばあさんもセットでつければいい」
兄は吹き出した。
「ババアの運び屋はいいかもな。案外バレねんじゃねえ?」
「だろ。ババアも海外行けて喜ぶよ」
弟はそう言って笑ったが、ふいに思い出し、
「前テレビでやってた。どこだったか、南の国の刑務所に運び屋の日本人がつかまっててさ。その牢屋、スシ詰めなの。座れないぐらい詰まっててさ。一日みんな立ってんだって。南国だよ? 四方にべったり男が貼りついてんだよ。あせもできちゃうよな? 小便どうすんだろ」
「……」
兄は弟の話に興味はもたなかった。
「金返さねーやつの末路だ」
メガネを外し、うるさそうに目を閉じた。
翌日は日本一の猛暑が岐阜を蓋った。
森林に囲まれた寺は、比較的涼しかったが、それでも猛々しい陽にあぶられ、外に出られない。
客たちは開け放した座敷で、麦茶ばかり飲んで、時がたつのを待っていた。
テツとお市は未明から姿を消している。
ダンディは水風呂に浸って、暑さをしのいでいた。青空はいつものように諸堂を供養し、飯の支度、手紙を書くなどして過ごしていた。
夕方、四時。えびまよはひとり、庭のぶどう棚に椅子を出し、スマホで音楽を聴きながら、客を見張った。
官九郎たち年寄り組はいない。ふたごをよしのの家に避難させている。村人たちにも今日は、上がってくるなと伝えてあった。
ヘチマとルイは庫裏の玄関先に縁台を出し、ゲーム対戦をしながら、変事に備えていた。
時々、山門を出て、テツとお市の姿がないか、見に行く。一度、バイク便が書類を届けに来たほか、誰も訪れない。
四時四十分。残り二十分を切っても、ふたりの姿は影もかたちも見えなかった。
えびまよは不安と激しく鳴る心臓に吐きそうになっていた。
(間に合わない)
ふたりに文句を言っている場合ではなかった。テツがいない以上、自分がダンディを守らなければならない。
(じゃあ、おれが助ける。おれが)
だが、中で騒動が起きた時、えびまよは腰を抜かしかけた。
青空と大男のわめき声が聞こえている。座敷でパンツ一枚のダンディを挟んで、もみ合っていた。
すっ飛んで逃げたい、という衝動を必死におさえ、えびまよは駆け寄った。
(や、やめてください。おれが)
言わねば、と腹に力をこめた時だった。
ガーンッ
庭を揺るがすような爆音が響いた。
「!」
人々はすくみあがった。息をつめ、いっせいにそちらを見た。
庭先にふらりと背の高い老人が現れた。年季の入った猟銃を手に抱え、
「おう。暴発してまった。堪忍堪忍」
面長の端整な顔に、ニヤリと凄みのある笑いを浮かべた。
ダンディはその男を知っていた。
「ロクさん」
村衆のアニキ分、古川のロクと呼ばれる老人だった。