蝉しぐれ
お市は言った。
「正直、六百万は破格だと思う。これは受けるべき」
官九郎もにぎやかに言った。
「いいよ。材料は全部切り出してやる。風呂桶なんかこっちでヒノキのいいの作ってやるよ。先生、いんだろう?」
もちろんですよ、と青空は強くうなずいた。
「栄作さんの家の建材は、施無畏寺で全面的にバックアップします。村の人間はみんな同じ気持ちですよ」
ダンディは自分の家でも建てるように、
「囲炉裏? 掘りごたつ? あ、薪ストーブなんかおしゃれじゃない?」
栄作だけはうつむいている。
テツは老人のはずまない様子に気づいた。
「六百万はきびしいですか?」
お市も聞いた。
「栄作さん、借金はあるの?」
栄作は唇をうごかし、首を横に振った。借金はないらしい。
青空が隣に来て、耳を傾ける。
「『もう死ぬのに、家なんかいらない』?」
栄作は小さく肩を丸め、座卓に目を落とした。
官九郎が、カカカと笑い、
「それがよ。そんな都合よく死なないんですよ。もう勘弁、ヤダ、お迎えに来てもらいたいったって、ぜんっぜん来ないんだから。おれなんか、なんもかんも無くして、女房も先逝っちまうし、せがれには愛想つかされるし、老境みじめなもんだが、しょうがない。格好がつこうがつくまいが、命あるかぎり、ケツまくって面白おかしく生きていくしかないんですよ。あんたもさ。ここまで人の世話にならず、がんばってきたんだ。今回ばかりは若い人に甘えて、元気取り戻しなさいよ」
栄作はうつむいたまま唇をかたく結んでいた。
えびまよは少し高い変な声で、
「あの、ちょっと」
と口をはさんだ。
「ちょっと、おれ、栄作さんとサシで話していいですか。――みんないると恥ずかしいので、ちょっと」
人々は面食らったが、理解した。ふたりを残し、座敷から立ち去った。
栄作は同じ姿勢で座っていた。
なにが始まるのかわからず、じっと待っていた。
青年はふたりきりになっても、なかなか口を切らない。少しして、やっと、
「なんか、話しにくいですね。ちょっと歩きましょうか」
と、庭へうながした。
栄作はおとなしくついて出た。
ふたりで寺の庭の木陰を縫って歩いた。庭には、アブラゼミが猛々しく鳴き、どこにいるのか幼児が何かねだる声がよく聞こえた。
ようやく青年は言った。
「ぼくの在所、大垣なんですよ」
「……」
「父は長距離の運ちゃんで、母は医療事務員です。父はぼくが五つの時に事故で亡くなりました」
青年はぽつぽつと、自分の生い立ちを話した。
母子家庭で育ち、高校生の時、母が再婚したこと。義父とうまくいかず、高校卒業と同時に自立して、名古屋に行ったこと。大手中古車販売店の修理工になったこと。
栄作は夏の濃い影を踏みながら、ラジオを聞くようにそれを聞いていた。
さして関心はない。
もうなにも関心はなかった。神の瞋恚に触れた以上、我を通す気はなかった。家などどうでもいい。山もなにもかも、残る者が好きにすればいい。
希みは、放っておいてほしい、ということだけだった。
青年は仕事を点々としたあげく、家賃が払えなくなった、と言った。
「恥ずかしくて、昔の同僚に見つかりたくなくて、でも地元の友だちに会うのも恥ずかしいから、大垣にも帰れなかった。で、岐阜のカプセルに住んでたんです。でも、住所不定だと、履歴書書くようなマトモな会社からは、弾かれてしまうんですよ」
しかたなく、履歴書のいらない派遣仕事をやりながら、さらに安いネカフェで暮らすようになった。
仕事は途切れがちで金は溜まらない。毎日の宿代と食事代で、大きな穴の開いた袋のように金が洩れていった。
「ネカフェのブースに、居酒屋の出前メニューが置いてあるんです。でも、高いんです、当時のぼくには。そのメニューに、『えびマヨおにぎり新登場』って広告が出てて。それがものすごくうまそうだったんですよ。えびマヨって言っても、えびカツなんです。マヨネーズソースをかけたエビフライが、一本まるまるおにぎりに入ってるんです。でも、一個二百八十円するんですよ。食パンが二斤買えるんです。だから、買えない。写真見ながら、パサパサの食パン食べて。こんなおにぎり、いくらでも買える人生もあるのに、おれは何でこんなみじめな人生なんだろうって。毛布かぶって、泣いて。でも、ブースの壁薄いから、声出さないよう泣いて。朝が来るのがつらかった」
「……」
栄作は知らず、その情景を思い浮かべていた。ほんのり哀れみの気持ちがきざしたが、すぐに立ち消えた。
いつのまにかふたりは木陰に立ちどまり、降り注ぐ蝉時雨を浴びていた。
青年は思い出し、
「暑くないですか」
栄作はわずかに首を振った。
青年はまた話した。ネットで青空が応えてくれたこと。テツに迎えられ、施無畏寺に来た日のこと。
えびまよは話しながら、相手に少しも言葉が届いていない、と感じていた。
栄作の表情はにぶい。話を聞いているのか、蝉の声を聞いているのかわからないような顔をして、ぼんやりたたずんでいた。
(でも、話すのがまず礼儀だから)
えびまよは、家を建てる話、間伐の話をもちかける前に、自分たちが何者か知らせるべきだ、と律儀に考えていた。
栄作についてもたずねた。
「栄作さんは、ここでずっと過ごしておいでたんですか」
「……はあ」
いくつか栄作の暮らしについてたずねたが、栄作は小さく、息のような返事を返すだけだった。
会話はすぐ途切れた。
「暑いですね。少し歩きましょうか」
えびまよはしかたなく、老人を誘い、寺の庭を抜けた。
心をほぐす、うまい言葉はみつからない。深い憂悶の中にある人間に、話を聞けというほうが無理なのかもしれない。
キュウリやナスのたわわに生る畑を過ぎ、藁の上に転がるかぼちゃを見ながら、えびまよは自分の口下手に滅入っていた。
(ほんま、なんもできん子やなあ。えびくん、しっかりして!)
それでも、えびまよは言わなくては、と思った。
家も間伐も何もしなくていいから、とにかく会話だけは続けていきましょう。元気出しましょう。
「栄作さん。またこうして、話しましょう」
栄作はふりむかなかった。一点を見て、凍りついたように止まっていた。
(?)
えびは栄作の視点を追って、そちらを見た。
そこは畑のふちで、竹垣から、一段下がった水田の風景が見渡せた。
それは水を張った新しい貯木池だった。
いくつかの池にはすでに丸太が浮いている。だが、雲の映る水面は、かつての田園の風景に返っていた。
「……」
栄作はよたよたと前に踏み出した。
取り壊されていない空き家がいくつか、現れていた。百姓家。蔵。雑貨屋。雑貨屋にはなぜか、色あせたのぼり旗が立っていた。
「あれは、その、カッコよかったので」
えびまよは追いつき、なぜかいいわけした。
栄作はおどろきに打たれたように、口をあいていた。
雑貨屋のそばに人間がいた。たも(虫取り網)をかついだルイが先頭を歩き、麦わら帽子をかぶったふたごが手を伸ばして何かせがんでいる。
父親の足に飛びかかろうとした幼児が転ぶ。細い泣き声が聞こえた。
(ありゃ)
えびまよがふりかえって笑いかけると、栄作は口をあいたまま、ぼろぼろと涙を流していた。
えびまよはとまどい、にわかに気づいた。
あの雑貨屋のそばに、小さな栄作と小さな広海がいたのだ。麦わら帽子をかぶった栄作がたもをかついで闊歩していた。
その頃、雑貨屋は生きていた。百姓家にはひとがいて、田で働く農夫がいて、通り過ぎる少年たちをからかった。牛の獣臭がして、木材を運ぶトラックが過ぎ、世界は、若かった。
栄作は涙をぬぐい、えびまよの手をつかんだ。
「……こちらこそ、おねがい、します」
拝むように頭を下げた。