あらしのよるに
その日も豪雨だった。滝のような雨の中、黒いSUVが飛沫を切って寺の前に停まった。
「戻ったでー」
ヘチマは玄関で陽気な声をあげ、靴を脱いだ。玄関は変わらず、きれいに掃き清められている。
だが、人がすぐ出て来ない。何か言い争う不穏な声が聞こえていた。
「おー、ヘチマくん。お帰りー」
出てきたのはダンディだった。この男は変わらぬのんきな顔をさげ、
「あら、なんかちょっと、イイ男になったんじゃないの? スキンケア変えた?」
「元からやで。みんなどうしたん。ケンカか」
まあまあ、とダンディは中へとうながした。茶の間には、青空以外の全員がそろっていた。
人々は二十日ぶりに戻ってきたヘチマを見て、一瞬、目を瞠ったが、すぐにもとの険しい顔に戻った。
「ど、どうしたんや。なんかあったんか」
お市がちょいちょいと呼び、脇に座らせた。
「さっき、ハリヤ林業から電話があってな。うちの山のド真ん中に栄作さんの森があるだろ。あそこ皆伐するって話でな」
ヘチマは思い出した。
寺の山の中にも栄作の土地があった。皆伐するなら、たしかにそこも例外ではない。
「それはな、こちらもしかたないと覚悟してたんだが。栄作さん、皆伐した後、塩を撒くっていうんだよ」
「は? 塩?」
知らせてきたのは、当のハリヤ林業だった。
ハリヤ林業側も、困惑していた。栄作からの指示はファックスだった。
――当該植林地には塩を撒き、草刈りの必要のないよう処置してください。
ひとの山に塩を撒けばトラブルの元となる。ハリヤ林業は栄作に、シート等で草を防ぐ方法もあると申し出たが、
――施無畏寺側も了承している。
と返答があった。
ハリヤ林業はきなくさいものを感じ、用心のため確認してきたのだった。
ヘチマはあきれた。
「それ、ウソやん」
そう、ウソ、とお市も鼻息をついた。
「なりふりかまわなくなったのだよ。あの油すまし先輩」
ルイも陰気な目をして、
「宣戦布告ってわけだ。いっそせいせいするわ。こっちももう甘い顔しなくていい」
ヘチマは、誰か栄作と話したのか、と言いかけ、その言葉を飲み込んだ。
えびまよは扇風機の前に、どんよりと座っている。悔いているような、疲れきったような、なんともいえぬわびしい顔をして、風に吹かれていた。
官九郎は小さい拳で座卓を叩いた。
「とにかくだ。塩なんか撒いてみろ。絶対、雨で流れてくる。うちの木をダメにしようってんなら、訴えをおこすしかねえな!」
勝てるんだろう? お市、と聞いた。
「勝てる。勝てるけどなあ」
お市はむずかしい顔をした。
「青空兄が訴訟するかって問題。兄さんはそもそも、お年寄りたちの暮らしを考えて、山を整えたかったわけだ。当のお年寄りに塩を撒くなんて言わせちゃ――」
官九郎が茶色い目を剥いた。
「じゃあ、うちの木はどうなるんだ。塩害だぞ。むこうは戦争しかけてきてんだ。ここで引いたら、次はこっちの山に直接塩撒いてくるだろうよ。腹くくって、戦うしかねえ。立ち向かわないなら、営林やめるしかねんだ。まさか、やめるのか? 営林やめて引き下がるのっていうのか?」
一同はショックを受け、お市を見つめた。
お市が答える前に、玄関の戸が開く音がした。
青空が帰ってきたらしい。濡れた濡れた、と言いつつ、青空は茶の間をのぞき、
「おお! ヘチマくーん! お帰りいいー!」
抱きつかんばかりに、うれしそうな声をあげた。
ヘチマは複雑な笑みを浮かべて、ひょこっと頭を下げた。
ルイが、先生、と言いかけると、
「あ、聞いてます。お市からさっき電話で。みなさん、あわてないで。先に夕ご飯にしましょう」
腹ごしらえした後、一同はまた茶の間に会した。
ダンディも子どもたちも、隅っこに座っていた。青空がなぜか、その場から去らせなかった。
青空は皆にみやげの水羊羹をふるまった後、おだやかに話した。
「わたし、お坊さんになってから四年ぐらい日本のあちこちを旅してたんですけどね。日本中で、村から
人が消えて廃村になって、そのお寺が廃寺になっている風景を見ました。お年寄りが数人でがんばっているところは、若い人に来てもらいたい、村を継いでもらいたい、と言う声ばっかりです」
人々は、何を言い出すのか、と青空を見つめていた。
「この岐阜にもあるんですよ。わたしが今日、行ってきた下呂の集落は、やはり住民の方がお年を召して、町のほうに移住してしまい、五年前、廃れてしまいました。今は、田畑のために何人か登ってくるだけの空き家の村になっています。寺も何年も前から無住で、わたしが法事のお手伝いに行っているのですけど、そこで『森の翼』の話をしたら、とってもうらやましがられてね。『うちにもそんな若い人たちがいてくれたらいいのに』とおっしゃってました」
お市がぴくりと眉をひそめた。
青空は言った。
「そこの集落は、ここによく似ているんです。やはり山に囲まれて、細い川があって、田んぼがあります。周囲の山はやっぱり人工造林で、杉が多いですが、だいたい四十年生ぐらいで、いい木がよく育っています」
兄さん、とお市が口をはさんだ。
「もしかして、そこに移住しようというお話ですか」
青空は微笑んだ。
「そういうこともできますよ、というお話です」
えびまよは斧で打たれた思いがした。愕然と青空を見つめた。
(うそやろ――?)
引き下がることを考えている。磐石のはずの青空が、ここを明け渡すことを口にしている。えびまよは腰の骨を断たれたように、のけぞってしまった。
(えええ。なんで)
視界が揺れていた。壁がせりあがり、船底が傾ぐかのようだった。
無いわ、とルイがわらった。
「ないないないない。ここを出るとか、ありえないです」
この男もうろたえきっていた。声がしだいに震え、
「なんでおれらが出ていくんですか。あそこはおれとテツさんが毎日、滝汗流して道敷いた山ですよ。五メートル土踏み固めるのに、どれだけユンボ往復させたと思ってんだよ。ヘチマは途中でいなくなっちまうし、えびは製材で忙しいし。おまえら、いっしょにゴールしようって言っておいて、いなかったじゃねえかよ。おれとテツさんが、やっと道敷いたんだよ。苦労して、丸太運び出せるようにしたんだよ!」
ヘチマも平たい顔をこわばらせていた。
「おれかて、木を売る勉強のため、行ったんや。ここの山の木、水に漬けて二年も乾かしてあるから扱いがええて、マルオカの親方も言ってました。ほかの山に行ってどうするんです? また水に漬けるとこから、はじめるんですか。二年待つんですか? この前、三十軒回った工務店の方に、なんて言いはるんですか?」
お市がヘチマ、と制した。
「先生は、きみらが執着しないように、こういう案もあるよ、と言ってるだけです。生き死にの問題じゃないんだよってこと」
しかし、官九郎は、
「執着が悪いか」
どすのきいた声を出した。
「こっちは坊さんじゃねえ。男が世に立つのに、逃げ隠ればかりしてことがなるかね。ひとつところにかじりついて、踏ん張らなきゃなんねえことがあるんじゃないのかね」
「そういう話ではないと」
「そういう話だろう。この三人の坊やは不器用で、宿無しにまで落ちぶれて、この寺にやってきた。それがちっぽけな会社作って、また自分の足で立とうと、歯喰いしばって踏ん張ってだよ。えびは客に頭を下げて、ヘチマは武者修行に出向いて、こっちのルイは、おれにヤイヤイいわれながらも、新規事業のアイディアを懸命に考えてんだ。必死なんだよ。なのに、出て行くのはこいつらなのか? ここの住民じゃなかったからか? 宿無しだったからか?」
「――」
先生、と官九郎が凄んだ。
「おれはただの冷かしのジジイだがよ。先生がこいつらを拾った犬猫ぐらいに思ってんなら、おれは、容赦しないよ」
おっちゃん、とお市が叱った。
「敵を間違えたらダメでしょ。そういうこと言うなら、ここの誰より先生が一番、汗水たらして働いてきたんだよ。ひとりで、三年!」
官九郎は口をつぐみ、そっぽをむいた。
えびまよはぼんやりしてしまっていた。
えびまよには、青空の心がわからなかった。
三年間、彼が丸太を運ぶのに、どれだけ苦労してきたか。器用とは言えないこの僧が、山仕事でどれだけ転んで、ケガをして、泥まみれになって奮闘してきたか。
数日前、青空は掘り返した村跡を見て、笛のような歓声をあげていた。
寺を改修する日のため、専用の柱を漬ける貯木池の話をすると、洟を垂らして泣いていた。
しかし、今日は撤退の話をしている。感傷はひとかけらも見せず、静かに人々がやむのを待っている。
それが森羅万象をうつろう空と見る僧の結論なのだろう。
(ひどいやん。ひどすぎるやん)
えびまよは肺にしわがより、こわばるような痛みを感じた。声をあげて泣きたかったが、声すら出なかった。
青空を責めたい。だが、えびまよにはそれができなかった。
ただ、茶の間の電灯がいつもよりひどく暗く見えた。
夕暮れのように。厭な夢の中のように。
そばにいる人々の線が哀れなほど薄い。ヘチマの小さい目も、腕を組んでそっぽを向いている官九郎の小柄も、テツの仏頂面も、豆電球の灯りで見るようににじんでいる。
石地蔵のような青空の丸顔。子どもたちの不安そうな眸。野良犬のような情けない顔をぶらさげたダンディ。
(難破船の船倉にいるみたいだ)
ひさしく見ることのなかった濁流の情景が思い出された。あいかわらず自分は短い足でもがいていた。懸命にあげた鼻に大波がかぶってくる。
酸のような水が鼻に染みて、涙が出そうだった。
その時――。
ぷう、という空気の抜ける音が出た。
「……」
人々が止まった。
ダンディがパタパタと団扇で扇いだ。
テツが迷惑そうに言った。
「状況、ガス」
みな、迷惑そうにダンディを見た。ダンディは顔をしかめ、
「万里之助。め」
「ばんりじゃないよおー!」
親分だよ親分だよ、と万里と千里がわめく。
そのやかましさに、ヘチマも苦笑いしてしまい、
「おっさん、たのむわもう。おれの悲しい気分が台無しやん」
「いや、あっちから聞こえたと思うんだけどねえ」
人々も反応に困り、つい笑ってしまった。屁ひとつでまぎれてしまった苦悩が、なにかバカバカしくなった。
その時、テツがひょいと手をあげた。お市がふりむき、
「え、犯人は」
「ちげえよ。――あのさ」
テツは首をかしげつつ、言った。
「これってつまり、栄作さんひとりがゴネてる話だよな」
人々はテツを見た。
「だったら、栄作さんの気持ちを変えれば、すべて丸くおさまるんじゃないの?」
「……」
人々は目をしばたいた。お市が冷かに、
「いいとこに気づいたね、ポチ。それでその策はあるのかな?」
「おれはない」
「――」
お市は深く息をつくと、顔をあげた。パンパンと祓うように手を高く打ち、
「みんな、そういうこと! 栄作さんの考えを変えれば、一発逆転よ。ちょっとブレストしよう。千里、万里、画用紙とペン持ってきて」
お市は画用紙の中央にテーマを書き、丸で囲って言った。
「いいかな。議題は、『栄作さんの気持ちを変える方法』。まず、絶対ありえないくだらない方法から、言ってみる。とにかく数言う。ほかのひとはそれを否定しないこと。ホメまくる。たとえば、このように。てっちゃん」
「『教え諭す。拳で』」
「そう。百万陀羅となえても、最後にモノを言うのは物理パワー。同じこと思ってたぜ。さすが相棒、冴えてるね」
「それか『歌う』」
「なるほど。どんな歌」
「楚の歌」
「小田和正かと思ったら、史記かよ! 栄作さんの家の四面で楚の歌を歌うのかよ! これは動揺するわ。最高だよ。その頭に詰まっているのは人類の叡智、アガスティアの葉ですか」
このようにだ、とお市は皆を向いて、言った。
「ふまじめでいい。辛気臭くなっちゃいけない。適当言って。言えない人は褒める。ハイ、千里!」
千里は照れて、
「せんり、たこやきやさん」
「たこやきやさんー。食べもので釣ろうっていうのか。そんなのおれだってひっかかるぞ! 末おそろしい策士よ。エクセレント!」
すごいすごい、とテツも手を叩く。
万里は手をふりまわし、
「こうしてね。こうするの」
「こうだな。腕をこう! 腕をこう! それだ! 千里はたこやき焼いて、万里はおどる。祭だよ。家の前で祭がなんつったら、栄作さんのうしろからアマテラスも出てきちゃうな。日本人のDNAが抗えないよ。みなさん、褒めて。こいつら知恵の泉だよ。ハイ、ダンディさん」
「鳴くまで待つ」
「時間が解決。そう、すべてに聞く万能薬。時間ぐすり! 栄作さんもいつか気づくんだよ。玉手箱開けた時かなんかに。ああ、おれが間違ってた、とガクリとひざをつく。その浜辺に自由の女神が埋もれてたりしてね」
ルイがクスリと笑い、挙手した。
お市はメモをとりつつ、笑いにしてホメた。テツは無責任に手を叩いた。いつしか手拍子がいくつも合わさり、ヨヨヨイというかけ声までついた。
ヘチマが声をひそめ、
「忍術や。みんなで忍者になって、栄作さんちに忍びこむんや」
「それでそれで?」
「こっそりお茶を淹れてあげる」
「ほろりとする親切! さすが仏のヘチマさんだ」
「茶柱は倒しておく」
「アゲて下げるスタイル! 地味だけど萎えるよ。遅効性の毒だよ。心ボロッボロになるよ。つか、忍術ほぼ関係ねーな」
「大技もあるんよ」
「言って言って」
「枕元でな、寝ている耳元にささやくんやて。『栄作よ。お寺と仲良うせなあかんよ』」
「睡眠学習! 寝入りばなには暗示が入りやすいよ!」
「みんなでささやくんよ。『栄作よ、お寺と仲良うせなあかんよ』『山をハゲにしたらあかんよ』『あかんよー』『あかんよー』『ららららー』」
「デューワーって、うるせえよ! 寝てられねー」
「『ねんねんーころり』」
「何しに来たんだよ! ダメでしょ。暗示入れて」
「『栄作よ。そこのパン食べてもいいですか』」
「腹減ってんじゃねーよ!」
渋面を下げていた官九郎も困ったように笑っていた。青空も身を折り、畳を叩いて笑っている。
えびまよも笑いつつ、泣きたくなった。
つきつめた空気が一変していた。老も幼も肩で息をして笑い、村人の呪いを忘れている。
(お市さん、テツさん、すいません)
悲運を嘆き、溺れていた自分をふがいなかった。えびまよも呼吸困難になるほど笑い、笑い疲れ、言った。
「おれが、タイマン張る」
その時だった。
テツが眉をひそめ、手のひらをあげた。静かにするよう制し、物音に耳をそばだてている。
激しい雨が雨戸を叩いている。それだけではなかった。床からも響くものがあった。
ダンディが首をかしげ、
「地鳴りしてる?」
テツが立ち上がった。
「はい。みんな黙って立つ。すぐ靴を履く。何ももたない。傘はいらない。まっすぐ夏ミカンの空き家まで移動。しゃべるな! 玄関へ行け!」
夜の豪雨の中、テツは人々を追いたてた。
空き家に入り、全員の点呼をとると、えびまよとヘチマを呼んだ。
「いっしょに来てくれ」
懐中電灯を手に、下の村へと走った。
雨にまぎれて視界が悪かった。道なりにかろうじて街灯の白い点が連なり、人家の明かりがぽつん、ぽつんと光っていた。
テツはギクリとした。
(栄作さんの家の明かりがない)
その方角にあるべき灯りが見えなかった。まだ九時台である。
(留守ならいいが)
可能性は低い。この村の人間は、村の外にはめったに出ていかないのだ。
雨の中、テツとふたりの若者は泥飛沫を飛ばして走った。しだいに暗闇に得たいのしれない巨大な影が浮かび上がってきた。
「テツさん!」
えびまよが立ち止まった。
一本の街灯の明かりが、針葉樹の葉陰を映し出していた。
(!)
その木は地に寝そべり、傘のように枝を大きく広げていた。そんな大木があたりにあふれていた。
懐中電灯で照らし、テツは目を瞠った。
栄作の家があるべき位置に、山があった。土砂と倒木が積みあがり、手前の畑にいたるまで埋め尽くしていた、
「栄作さーん!」
テツは怒鳴った。木々の上へ這い登り、生存者の声が聞こえないか耳をすます。
(――くそ)
雨の音ばかりで何も聞こえなかった。
「えび! 消防へ連絡しろ。救急車手配。ひとり行方不明――」
テツさん、とヘチマが雨の中から呼んだ。
ヘチマの後ろ、畑の中にチラチラと懐中電灯の明かりが揺れていた。
「栄作さん――」
テツは農道を駆けた。
はたして、懐中電灯の主は栄作だった。彼はいいわけするように、
「雨で……水路見にいって――」
自分の家がなぜ見あたらないのか、まだわからないようだった。