それを言っちゃあ、おしめえよ
雨の降りしきる中、畦でウシガエルがぼうぼうと鳴いている。
そこに口笛のダースベーダーのテーマが重なった。
お市は傘を差し、口笛を吹きつつ、下ノ村の濡れた市道を歩いた。
栄作の家には向かわない。
栄作の家には、毎晩のようにえびまよが訪ねていた。訪ねていたが、入れてはもらえず、ついには駐在が現れ、注意を受けた。
栄作老人は話さない。
広海のほうは油断していた。鍵をかけるということも忘れ、広海の女房はつい、お市を中に入れてしまった。
「ハリヤ林業さん、こちらでもちょっと調べさせてもらいました」
お市はハリヤ林業のパンフレットを持参していた。
広海は革のソファにちぢこまっている。まるで、有罪の証拠をつきつけられたようにこわばりきっていた。
「これ、便利ですねえ。一切山主かかわりなし、丸投げで、木を切っていってもらえる。とくにこの不在地主問題の相談に乗ってくれるというのが良い」
「……」
お市は広海の目をのぞきこんで言った。
「つまり、あなたがたが頑なに我々の間伐を拒んだ理由というのが、このへんなんじゃないかなと思ったんですが、いかがですか」
広海は図星を突かれて、息をつめた。
お市はやわらかい声を出し、
「珍しいことじゃありませんよ。不在地主のことは、日本中の山主が困っている問題です。だからこそ、これに目をつけたハリヤ林業は、賢い。ただ、お高いですよね。境界確定、ヘクタール七万って」
(え)
広海はつい目を瞠った。若い僧はそれを見逃さなかった。
「あれ。高くないですか。ほかのNPOだとヘクタール五万ぐらいでやってくれるところもありますよ」
「え、ちょ――」
広海はつい言った。
「込みやないんのんか」
「別途料金かかります」
ほら、とお市はパンフレットのゴマ粒のように小さい字を示した。
広海は老眼をすがめ、唸ってしまった。
(あのたーけが)
おっちょこちょいの友を恨んだ。ヘクタール七万なら、いったいどれだけ利益が残るというのか。
お市坊は言った。
「森林の境界は国境みたいなもんです。こじれると戦争。裁判で何年かかっても決着がつかないなんてこともあるので、そりゃ無料じゃひきうけませんよ」
「……」
「でも、場合によっちゃ無料でやることがないわけでもない」
広海はついお市を見た。
お市坊はニッと白い歯をみせ、
「たとえば、わたし。わたしならお友だち価格――ゼロ円で、境界確定をしてさしあげる。もちろん、不在の地権者との折衝もわたしが間に立つ」
「――」
「こういうものは、ある程度の知識があれば、素人でも見分けられるんですよ。あとは地権者さんを納得させられればいいだけ。そのへんは、わたしは得意ですから」
お市坊は言った。
「ですから、広海さん。皆さんに話してくださいよ。本当に今、全山皆伐しなければならないのか。皆伐したら、何がおきるのか」
「……」
広海はうつむいた。
ほとんどの村人が、全山皆伐を不安がっていた。ハゲ山になれば、土が流れて、川に影響が出るかもしれない。川は田に直結する。
だが、誰もそれを栄作に言えずにいた。
お市は言った。
「あくまで森の翼とつきあいしたくないというなら、それでもいい。森林組合でも、別の業者でも、山の健全化を考えてくれる業者とつきあってください。その場合、境界確定料金はヘクタール五千円で引き受けましょう」
(五千円……)
広海はつい釣りこまれ、頭のなかでそろばんを弾いた。その上からお市がたたみかける。
「補助金も取りますから、プラスになりますよ。境界さえ決まっていれば、その後の間伐はお好きな時にやっていただければいいので。ご負担になりませんでしょ」
帰り際、お市はニヤリと笑って、
「では、大至急、栄作さんとご相談ください。どうも、わたしがここに来たことは望遠鏡で見てらっしゃるようですから」
広海はぎょっとした。雨でけぶる山のふもとに栄作の家が鎮まっている。そこから切れ長の細目が恨めしげに見ている気がした。
栄作は広海の話を聞き、ぶすっと不機嫌な顔をした。
つくづくイヤそうに、
「カンタンな男やんなあ。はした金でコロコロ転びおって、恥ずかしないんのんか」
「おまん、それよう言うたな! 境界線のこと別途料金て、知っとったか。知っとったらペテンやし、知らなんだらマヌケやぞ!」
「――」
栄作は忌々しげに唸った。
栄作もはじめは知らなかったが、最近、息子に言われて知ったのである。息子も小さい字を読み落としていた。
「金のことは心配いらん」
栄作は言った。
「補助金も出るし、足りん分は、おれが出す。おまんたに損はさせんて」
広海は顔をしかめて、友を見た。
「意地張りすぎて、ひっこみがつかんのんか」
「あ?」
「そうやろが。この皆伐、おまんになんの得があるんよ。金も入らなんだら、木を伐るだけ損やろが。なんもせんほうがマシやがな」
「……」
この日、広海も腹をくくって、言った。
「むこうは、もう山に手出しせん言うとるんやで? 山に手出しせん、皆伐だけやめてくれ、言うとるんよ。おまんの勝利やがな。これでもう手打ちでええんないか」
ここらで退け、と友に訴えた。
広海は心配だった。栄作は未明に、すばやく自分の田畑をいじり、自宅にひっこんでしまう。あとは日がな家に引きこもり、二階から天体望遠鏡で村を監視しているようだった。
(スパイかいな。いつまでこんな不健康な暮らし続ける気や)
広海は言った。
「おまんよ。みんながおまんの顔たてて黙ってることも考えな、だしかんぞ。勝手に人の山まで皆伐決めて、みんなもの申したいはずやに、おまんが仲間やで」
栄作はどす黒い声を出した。
「おれはおまんたのためにやっとるんや」
ひざの脇の畳を叩き、
「どこが勝利。あいつらはまだおるんないか! まだそこら、うろつきまわっとるんないか。おれはあいつら――」
興奮のために言葉が詰まった。切れ長の目に朱が帯び、険しいしわがよった。
「虫唾が走るわ」
広海はなまの憎悪を感じて、おどろいた。
栄作は麦茶を飲んで、息を静めると言った。
「そもそもの話は、青空さんがホームレスかき集めてくるのをやめさすにはどうしたらええか、ちゅうこっちゃ。なにを敵に言いくるめられとるんよ」
「敵て」
「あのなあ、広海さんよ。おまん、誇りはないんのんか」
(ほこり?)
広海はとまどった。栄作はしかつめらしく言った。
「この村を長年、守ってきた人間の矜持や。おまんは七十年、この村を守ってきた。どっこも行かんと」
「いや……おれ、長男やから村におっただけやし」
「おれんたがここにおって、村を守っとったやで、いまこうして住めるような土地になっとるんや。草とって、道掃いて。水路かて掃除せな詰まる。田んぼの世話は言うにおよばずや。おれんたがここで暮らし続けたやで、道も敷いてもらえ、街灯もついた。おれんたがここでふんばっとったやで、ここは暮らせる土地のままあるんや」
「――」
「上の寺のまわり見てみい! 半分以上、草で埋まっとるがな。おれんたが手入れせなんだら、ここは、ああなっとったんやで」
栄作の頬に血がさしのぼっていた。
「あいつらはその間、何しとった? 都会で好き勝手して暮らしとっただけやがな! 自分とこばか下水道しいて、ガスしいて。おれんたのとこ、下水道来たのいつや。十年前か」
「……」
「そういう苦労を知らんと、食い詰めたから、田舎きました。ここはおとぎの国ですねて、そんなふざけた話あるかい。ここにはここの人間の苦労が詰まっとるんや。あとから来たもんに勝手されたら、たまらんわ」
広海は困惑していた。こいつの怒りの根はこれなのか、とおどろいた。
一方、誇りなんぞというタマかいな、という思いもある。
(だいたい下水道が、今寺におる子になんの関係があるんよ)
だが、栄作はにわかに立ち上がると、ダンダンと足音をさせて部屋を出て行った。
まもなく戻り、手にした紙を突き出した。手書きで数行の文が書かれた便箋だった。
栄作は昂ぶり、早口で言った。
「おれも出すか迷っとった。けど、おまんたの金の汚さ、節操のなさ見とったら、もうやるしかない。おまんたはもう、ハリヤさんに木を伐らせんでええ。うちだけでやる」
広海はその短い手紙を見て、ああ、と眉をしかめた。心臓がしぼられるように苦しくなった。
「これやってまったら、終わりやがな」
栄作は冷たく言った。
「要は、本丸を叩かな埒があかんて話や」
その手紙にはこうある。
拝啓 松井青空様
施無畏寺所有山林における赤石家植林地について、申し上げます。
当家は株式会社ハリヤ林業と契約し、本年八月、右植林地を皆伐する予定でおります。
しかしながら、貴僧が以下三つのことを約定せられた場合、皆伐を中止し、かつ植林地を施無畏寺に寄進させていただきます。
一 松井青空師が住職を辞し、施無畏寺より下山すること
一 次代住職をあっせんすること
一 現在、施無畏寺に寄食せる者たち全員の立ち退き
なお、七月末日までに御返事なき場合、当該森林の皆伐、整地を開始します。
これまでごくろうさまでした。 敬具
赤石栄作
青空はくろぐろと育ったスイカを見て、うれしくなった。
(でかーい! これなら人数分のおやつになるな)
その日はひさびさに晴れ間が出て、蒸し暑かった。
畑は育ちすぎた野菜が重く垂れている。それらをごろごろとコンテナに放り込み、青空は庫裏に戻った。
「おいち、背中、あたった!」
「当たってない! ちゅるんと抜けた。ほら、ちゅるん」
中庭で、お市と子どもたちがわめいている。植木の間に糸を張りめぐらせ、手足をつっぱらせて潜り抜けていた。
青空が笑い、
「それって、もしや赤外線?」
お市はからだをくの字に折り曲げたまま、
「いや。レーザーです。当たると、サイコロステーキになります」
「こわっ!」
「ダンディさん、朝から釣りいっちゃって、チビっこ放っぽらかし。おにいちゃんもやります?」
子どもたちも、せんせいもやろ、とまとわりつく。
「わたしは足手まといになっちゃうな。よし、じゃあこれは、ポーションだ。切れた肉がくっつく!」
青空は三人に熟れたトマトをもたせて、勝手口に回った。
台所で、えびまよが戸棚をあけていた。
「漬物あります? 師匠に塩分摂らせんと。なんや土木工事が楽しいらしいて、帰らへんのですよ」
えびまよたちは総出で夏草と格闘し、新しい貯木池を作っている。
山の作業道はすでに開通していた。テツがいるうちに、貯木池を仕上げるため、重機を里に下ろして、土を掻いていた。
この秋に伐る木を、水に漬けられるようにしておくためである。
青空は野菜のコンテナを置き、
「なら、これ持っていこう。いま洗うから待ってて」
ふたりは麦茶のヤカンと味噌、野菜の籠を抱えて、作業場に向かった。
えびまよはすでにひとつ、塩をかけたトマトにかぶりついていた。
(はー、たまらん)
甘みと塩分、酸味、すべてが心地よい。日差しが出て、久しぶりに気分のいい日だった。
この数日は、小さなぶつかりあいが多かった。
雨のせいで、山に行けないルイは、日がなパソコンの数字を見て、文句を言っていた。
七月に入って、受注がない。三十軒の顧客は沈黙し、柱一本注文してこなかった。
ルイはもはや新しいビジネスを立ち上げるべきだ、と言った。
――磨丸太、どうかな。
えびまよは無邪気に、磨丸太とはなんだ、と聞いた。
――床の間とかで使う高級材だよ。杉の丸太を砂で磨くんだ。一本数十万で売れる。使う杉も細い二十年ぐらいのでいいんだよ。
よしやろう、とえびまよが単純に応じると、となりから官九郎が口をはさんだ。
――おまえたちの家、床の間あったか。
ふたりは黙った。
――そういうことだ。
現在、床の間のある家自体が少ない。よしんばあっても、そうした高級材は茶の湯の道具のようなもので、よしあしがわかる目がいる。新規が簡単に入っていける世界ではない、と言った。
ルイはむっとして、
――官九郎さんはなんかアイディアあるんですか。
――犬小屋だよ。ヒノキの犬小屋。ヒノキは抗菌防虫になるからな。十万ぐらいで売ってるとこもあるんだぜ。
――あー、全然ダメっすね。今、犬は室内飼いがほとんどです。需要ありません。
ふたりはアイディアを出してはけなしあった。
えびまよはその間で、たたみのささくれをいじりながら、毎度のいがみあいがやむのを待っていた。
(ヘチマがおれば、緩衝材になってくれるのに)
ヘチマが寺を去って二週間がたっている。マルオカ建築の親方とは、意外に仲良くやっているようで、あれきり帰ってこない。
一度、ヘチマから、
『ヒノキの、四メートルの四分板。十枚。ゆずってくれへん?』
と、無心の電話があった。
えびまよは小言を言いたい気持ちをこらえて、板を送ってやった。
当然、経理のルイを怒らせ、ガミガミと説教を浴びることになった。
(テトリスが。長い棒のテトリスが毎日降ってくるんです。栄作さんは会ってくれへんし、ヘチマが大工になってまうかもしれんし)
えびまよは青空に愚痴をこぼしかけた。
「おれが社長になってから――」
「ふおおおおおおおおッ!」
青空が野菜の籠を抱えたまま、咆哮した。
えびまよが飛びのきかけると、また震えるように吼えた。
「すごいよ! すごい、見て!」
青空は興奮し、風景をあごでしゃくった。
前方には夏草と土がひっくり返された、広大なまだらの地面が広がっていた。
えびまよがさっきまで奮闘していた、まだ水も注がれない、貯木池予定地だった。
青空は叫んだ。
「村が、よみがえってる!」
雑木が切られ、草藪が刈り取られ、かつての道と田の畦がおぼろげに浮かび上がっていた。草に隠れていた廃屋が、点々と姿を現している。
えぼし村の埋もれた半身が日を浴び、息を吹き返していた。
田で、小さな黄色いバックホーが土を掻いている。運転しているのはテツらしい。
官九郎の小柄が畦に立ち、何か言って、カカカと笑っている。ルイがシャベルを使いながら、何か言い返していた。
「えびくん……」
青空は洟をすすって言った。
「三ヶ月前は、なにもできなかったんだよ」
「……」
「わたしひとりでは、手が回らなくて。荒れるままで」
えびまよは、改めて風景を見つめた。
視界が広がっていた。
田があり、畑があり、破れた家屋がある。ひとつの家屋は店らしく看板がついていた。昔、居住した人々の生活のなごりがかろうじて残っている。
額に感じる風がこころよかった。青空ほどの感激はわからないまでも、えびまよはやさしい気持ちになり、
「先生。あの一画」
えびまよはトマトを持つ手で、隅の田を示した。
「あそこに浮かべる丸太だけは、使わないようにしようって、師匠と話してるんです」
「?」
「伊勢神宮みたいにしようって。二十年ぐらい、白太が腐るまで長く漬けておいて、完全に乾かして。いつかお寺の修理する時に使おうって」
おお、と青空が目を輝かせた。
「やばい」
急いで顔をそむけた。
「洟垂れる。も、もうやめて。洟垂れるから!」
青空は空を向き、のけぞるように吼えた。
「ありがたいいいいいいいーッ!」
夏日は一日続いた。
夕暮れ、遠雷が響き、黒雲が走るように流れ、天を覆った。大粒の雨がバタバタと降り出し、あきれるような大量の水が落ちてきた。
その水を弾きつつ、郵便の赤い車が現れた。なじみの局員は苦笑いして、
「先生、へんな手紙きてますよ」
青空は配達証明できた郵便をを見て、おどろいた。差出人の名は赤石栄作だった。