なんで逃げるのかな
JR岐阜駅の駅前広場には、黄金の信長像が立つ。
その下で、若い男がひとり、人を待っていた。
九時間、いた。
傷だらけのキャリーケースを引き寄せ、空腹を抱え、ただひたすら迎えを待っていた。
男は昨夜、ネカフェで助けを求めた。ひとりの善意の僧が泊めてやると申し出たが、朝になって、
――えびまよのひと、まだいる? ごめん。迎え、ちょっと遅れる。いま、事故った。
でも、かならず迎えに行くから待つように、と書いてよこした。
『えびまよ』はくず折れそうになった。
からかわれただけだ、と腹がたった。今頃、どこかの中学生が笑いころげているに違いない。
だが、そう思いつつも、待たずにはいられなかった。金もなく、ほかにできることがないのである。
信長像の下で、ただぼんやり佇み、通行人を眺めていた。
(みんな、大きな川を遡っとるんやなあ)
駅へむかう清潔な人々を眺め、えびまよはみじめに思った。
(砂まじりの濁流をがんばって上ってるんだ。でも、そこに一匹の仔犬がまぎれてる。ちっこい、手足の短いやつが。一所懸命泳ぐんだけど、流れが激しくて沈みかけてるんだ)
いつのまにか、自分がその仔犬になっている。鼻づらを必死に出しているが、流れが押し寄せ、手足を動かしても進まない。息苦しさまで感じた。
天は低く垂れ込め、どこかで遠雷が轟いている。待ってくれ、という声は届かず、黒い水が鼻にかぶる。
その景色に、母親と再婚相手の、血色のいい鈍感な笑顔がよぎった。
(おれが一所懸命あがいてるのに、だれも気づかない。平気だと思ってんだ。おれはもう沈んじまうんだ。腹が減って力が出ない。もう泳げない。もうほんとに限界なんだ。流されて、どこか岩にでも当たって)
ヒモのようにからまる水を掻きながら、仔犬は泣いている。なんでおれだけ、こんなにちっぽけなんだ。なんでおれだけ、こんなに無能なんだ。
こんな豊かな国に生まれたのに、何ひとつ味わえない。
その時、
「おにいちゃん、どうしたの? おなか痛いの?」
すぐ近くから、明るい声が聞いた。
えびまよはふりむき、ぎょっとした。
(これは――)
顔の半分がヒゲに埋まった、背の高い男が見下ろしている。
擦り切れたコートの下に、毛玉だらけのセーター。シミだらけのズボン。肩に汚れたスポーツバッグをひっかけた、においたつようなホームレスがそこにいた。
えびまよは飛びのくように言った。
「いえ、大丈夫です」
もしかして、とおもった。
(もしかしてこのひと? おっさま(お坊さん)やないやん! いや落ち着け。これは通りすがりのホームレスやて。もしや仲間やと思われた?)
ショックだった。すぐ立ち去ろうとすると、
「よかったら食べない?」
ホームレスは小さなパンが五つ入った菓子パンの袋を差し出した。
「!」
えびまよは遠慮しようとしたが、手が受け取っていた。よだれも出ていた。
「すいません――」
ふっくらした薄茶の丸いパンを見て、勝手に手が袋を破き、吸い込むように頬張った。
クリームパンだった。クリームの甘さが頬の肉からしみるようにうまかった。口中でパンが大量の唾液に溶けてしまう。噛み締めると、脳に甘さが突きとおり、目もとが熱くにじんだ。
「あ」
残りひとつになって、我に返った。
ホームレスは、
「いいよいいよ。食べて」
鷹揚に言って、となりにしゃがんだ。
「おなかすいてたんだね。おれにも覚えがあるからね」
えびまよは五つ目のパンを味わい、ようやく人心地つく思いがした。
この菓子パンは以前も食べたが、こんなにもうまかったろうか。
「おにいちゃん、家出? 行くところあるの?」
「え――」
えびまよはためらった。無いといえば、この親切なホームレスが、ダンボールハウスのような『上級者』のねぐらに案内してしまうかもしれない。
「ひと待ってるんです」
「あ、友だち? ――いや、ずいぶん長いこと待ってるからさ」
見ていたらしい。
えびまよはウソをつくのがうまくなかった。ごまかしきれず、結局、ネットに助けを求めたことを話してしまった。
ホームレスは濃い眉をひそめ、
「それさあ、あぶないよ」
「……」
「ネットで住むところを提供すると言ってね。気づいたら、手術台に寝てた、腎臓一個盗られてた、なんて話もあるからね」
「え」
「ひどいとこは二個盗っちゃう。住所がないって、どうにでもされちゃう、おそろしいことなんだよ。簡単に信じちゃダメだね」
えびまよはしおれるような思いがした。
(そんなこと言ったって……)
ホームレスはうなずき、
「わかった。おじさんがいっしょに見てあげよう。おじさん、そういう人わかるから。ダメだとなったら、走って逃げるんだよ。いい人そうだったら、おじさんもいっしょに行くわ」
(は?)
えびまよはわれに返った。
(おじさん、来んの?)
うかつだった。ホームレスはうまい話を聞いて、おこぼれに預かる気になったのだ。
えびまよはあわてた。
(いや、これまずいんやないの? ひとり迎えにきたら、もうひとりこきたないのが増えてたて。こきたないのふたりて。おっさま、引いて帰ってまうんやないの)
しかし、たった今、パンをもらった手前、おまえは帰れ、とは言えない。せいぜい、
「お寺、空き部屋いっぱいあるといいですね。だいじょうぶかな」
「あるよー。田舎のお寺でしょー。ああいうとこは、村の集会所兼ねてるから大きいのよー。いやよかった。久々にお風呂入ってさっぱりしよ」
(行く気しかないやん! 臓器売買の建前忘れとるやん!)
でも、とえびまよが遠慮がちに、
「もし、悪い人だったら」
「その時はバッチリ教えてあげるから大丈夫。おれ前世、炭坑のカナリアだから。それより、どのへんの人だろうね」
すっかり宿泊を決めて、田舎料理の晩飯に思いをはせている。
えびまよはそれ以上は言えなかった。
(ダメかもしれない。今はなにもかもうまくいかない時期なのかもしれない)
いつもの悲観が胸にひろがりかけた時、広場の端に白黒の衣が現れた。
えびまよはよろこび、同時にたじろいだ。
(……なんか、本格的なの、来た)
その僧はまっすぐに向かってきた。
時代劇で見るような笠を目深にかぶり、長い錫杖を突き、背に人ひとり入りそうなリュックを負って、近づいてくる。
その身ごなしが尋常ではない。大荷物を背負いつつ、床を滑るように急速に広場を突っ切ってきた。
「『えびまよ』さんですか」
僧は笠の下から、針のように鋭い目を出した。
(……)
その顔は、日焼けして引き締まり、陽と風にさらされた岩のようだった。
ネットのコメントの柔らかさはかけらもない。
えびまよが気圧されつつ、口をあけた時、となりのホームレスが前に出た。
「はじめましてー。えびちゃんのおじさんですー。このたびはどうも、お招きいただいて。保護者のおじさんもごいっしょしていいかしら。おじさんとえびちゃん、バラ売りしないんですよ。箱入り息子なもんで、ひとりで寝られないんですよね。いや、えびちゃんじゃなくて、おじさんが。えびちゃんとおじさん、ふたりでプリキュア、みたいな。いいよね。あ、おれのことはダンディって呼んでいいよ。さすがにプリティってガラじゃないからね」
調子よくしゃべりつづけるホームレスの影で、えびまよはいたたまれなさにうつむいていた。
(なんかごめんなさい。ごめんなさい。ダメですよね。ふたりは無理ですよね。もう帰ります。お騒がせしましたー!)
そっと僧の顔をうかがい見た。笠の加減で、その目が見えない。あごひもの上の口元は厳しい。
だが、ちらりと笠があがった時、僧の目は自分の肩越しに背後をうかがっていた。
「わかりました。ふたりですね」
僧は視線を戻すと、あっさり言った。
「わたしは『131』の代理で、平といいます。詳しい話はあとで。すぐ移動します」
急いで、と言い、ふたりを突き飛ばすように駅へと押し立てた。
(え)
えびまよはつい僧の見ていた方向を見た。
広場に接する車道の向こうに制服警官がふたりいた。ひとりの警官がすぐ、こちらに気づく。
「あ、おい。お坊さん、止まって」
僧はふりむかない。
「そこのお坊さん。止まって。止まりなさい」
僧はいきなり、えびまよとホームレスの手首をむずとつかむと、大股で階段を駆けあがった。
高速バスの中で、えびまよはコートの肘を握り締め、じっと固まっていた。不安のために首が肩から動かない。
(なにこの人なにこの人なにこの人)
細い通路のすぐ隣には、僧がどかりと腰を据えていた。腕を組み、ややうつむき、目を閉じている。
その首が不穏なほど逞しい。衣越しの肩も実りすぎているように思えた。
(なんで逃げたん? おまわりさんから、なんで逃げたん? おまわりさん、追いかけてきたやん。あきらかに無視したよね? ホントにお坊さん? なんでお経誦んでそんな筋肉つくの)
えびまよは隣の座席のホームレスにささやいた。
――おじさん。これついてって、ええの?
――お坊さんに見えるけどねえ。……にげる?
えびまよはホームレスの返事に、衝撃を受けた。
(おま、それ、今言うー?)
ホームレスの大きなタレ目がむやみに瞬き、頬がこわばっていた。その肩も巻き込み、縮んで固まっている。
(炭鉱のカナリアあああーッ! ふざけんなあああー!)
やはり非常事態だった。
僧はあきらかに警官の声を聞いて駆け出し、駅構内に飛び込んだ。ふたりをトイレに押しいれ、手早くあごヒモを解き、笠をとった。
手ぬぐいを頭に巻き、大きな風呂敷を広げるとリュックを蓋う。
「気にしないで。とくに意味はないです。今のうちにトイレすましといてください」
(……)
えびまよは問い返せなかった。
(意味はないんや。警官を見て変装しだしたら、どう見ても尋常やないけど、意味はないんや……)
さらに駅に入ったのもフェイクだった。電車は使わない、高速バスで郡上八幡までいくという。
えびまよはみぞおちを抱え、吐き気をこらえた。
あの時、手ぬぐいを巻く僧の手甲に、べったりと赤茶色のシミがついているのを見てしまった。
とたんに逆らえなくなった。子どものようにつき従って、バスに乗ってしまった。
(いやいやいや。あれは見間違いやて。じつはあれ、血とかやのうてチョコレート的ななにかやお? おまわりさんには、気づかなかっただけ。たのむ。だれかそう言って)
横目で僧を見るが、腕を組んでいて手甲が見えない。だが、僧の隣の座席にある、やたらと大きなリュックサックも不気味だった。あきらかに丸いものが入っている――。
(頭? いや、あんな大きい頭ない……て。あの中、いったい、なに)
えびまよは知らず、あえぎかけていた。気圧のせいか耳もよく聞こえない。
ホームレスがヒゲ面をそっと近づけ、小声で言った。
――つぎ、おりよか。
(……)
しかし、ふたりが荷物を持ち、そっと腰を浮かした時、
「おい、どこ行くんだ?」
僧の低い声が止めた。
白目の目立つ細目が、不吉に据わっていた。取り繕うように笑みをつくり、
「まだ先です。降りる時知らせるから、寝てていいですよ」
ふたりはへたと腰を落とした。
(寝て醒めたら、手術台だ)