カッコウ
ルイは両手を振り回してわめいた。
「あいつが先に手を出してきたんですよ! ヘチマのほうが。こっちはただの自衛。べつにケガさせる気なかったし。えびが勝手に前に出てきただけで、寸止め余裕だったし。そもそもあいつらが、こっちを襲ってきたんだから」
ぬっとヘチマがあごを突き上げる。腰を浮かしかけたが、えびまよはその肩をおさえつけ、倒木に座らせた。
えびまよが、事実ではない、と言おうとしたが、テツが目で制した。
テツは少し離れた切り株に腰を下し、黙って聞いていた。
まずルイに話をさせた。この男はいいわけするうちに、次第に息を荒げ、ヒステリー状態に陥っていた。
「だいたい、こいつらいっつも影でコソコソやってたんだ。おれを追い出そうとして。ねたみやがって。無能なくせに。無能で無知で努力もせずに生きてたくせに、ひとの揚げ足ばっかりとりやがって。下等なんだよ! クズが! 世の中、出てくんなクズ!」
えびまよは片手でしっかりと友の肩を押さえつつ、わめく男を見つめていた。
ルイは耳まで赤く変わっている。きれいな顔が悪鬼のようにゆがんでいた。
「おれが一所懸命やってんのに! いっつも邪魔するんだ。いっつも足を引っ張る! いっつも! いっつもや!」
わめくうちに顎と言葉が震えてくる。
「おれが努力しとるのに! 早く金作ろうと、がんばっとるのに。みんながみんな邪魔しよる! 木を伐らせんし! 道作らせんし! グダグダグダグダ。ちょっと失敗すると、鬼の首でもとったように責め立ておって。クッソごがわく。底辺はみんなそうや。揚げ足取りばっかで、全然生産せん。あのパートのババアどもも。クソ店長も――」
痙攣し、喘ぎ、言葉が不明瞭になってきた。言葉自体も脈絡がなくなってきている。
「死ねや。いいから、おまえらみんな死ねや。どクズ! なんでおれが、こんなド田舎で木なんか伐らなかんのや。おれはこんなとこにおる人間やないんや。おれは――」
えびまよもヘチマも、もはや何も言わなかった。
ひとがわけのわからない罵声をあげ、発作のように地面を踏み鳴らす姿に、たじろいでしまっていた。 この場をこのあと、どうしていいかわからない。
ルイの罵声が切れ、ついにヒイヒイと荒い息だけになった。アドレナリンで指先まで痙攣しかけていた。
(こいつ、てんかん起こすんやないか)
えびまよが思った時だった。
「青空先生が」
唐突にテツが口をひらいた。
「おまえは、立派な父親だと言ってたよ」
ルイの荒い呼吸が、詰まったように止まった。
細いあごはまだ引き攣っていたが、人形のようにぎこちなく振り向き、テツを見た。
「ぜんそくの千里を抱えて、小さいふたごを抱えて、一所懸命戦ってる。強い男だって」
「――」
テツは言った。
「おれもそう思うよ」
ルイのノドがヒクッと鳴った。彼は目を瞠いて、金縛りにあったように立ち尽くした。
こども、とテツは顔をあげ、
「元気だもんな。岐阜で会った時、ふたりともいい服来て、そろいの靴履いてた。頭も清潔にしてた」
「――」
「千里も万里もまだ靴下が履けない。あれ、おまえが毎朝、履かせてやってんだろ」
ルイは柱のように動かなかった。
テツは言った。
「一日ふつか、がんばるのは誰だってできる。それをずっと続けるのは――途方もねえよ。おまえは黙って大変なこと、よくやってるよ」
ルイは顔をそむけた。
えびまよはその目から涙が噴き出すのを見た。赤ん坊のように口をしぼり、震えていた。
ルイは頭を抱えてうずくまり、悲鳴のように泣いた。
大学を出て以来、ルイの人生はどこか調子っぱずれだった。
容姿を買われ、芸能事務所に在籍していたが、そちらでは芽が出なかった。
まわりが水商売に転落していくのを見て、ああはなりたくないと思った。
置き薬の会社の重役に声をかけられ、その拡張会社を立ち上げることにした。
最初の一年は好調だった。どこでも青年実業家と持ち上げられ、元モデルの女と結婚もした。
だが、二年、三年とたつうち、バイトたちが客先で問題を起こし、本社から営業を差し止められることになった。
その頃、ふたごが生まれた。
やむなく会社をたたみ、ルイは定収入を求めてサトウマートに就職した。
むろん、SVとしてではない。平社員からで、配属された職場は、軽蔑していたスーパーでの惣菜販売だった。
それでも、いずれ幹部に上がれると奮闘している間、ルイの妻は育児にパニックを起こしていた。
はじめはルイも、ことの重大さに気づかなかった。手伝うと妻は腹をたて、手伝わないとまた腹をたてた。ルイはそっとしておこうと、かまわなくなった。
ある日、妻は消えた。実家に引きこもり、離婚届を送ってきた。
ルイが訪ねていった時、妻は、
『あんたって見かけだおし。全然役に立たない』
痩せ、やつれ、見たこともない女の顔に変わっていた。
妻の実家は、娘が心療内科に通いだしたため、ふたごを引き取ろうとはしなかった。
ルイは一歳のふたごを抱えることになった。
子どもを保育園に預けながらの出勤になったが、千里にぜんそくの発作が出て、しばしば保育園から呼び出された。
職場で、ルイの評価は下がった。
口さがないパートの女たちは、
『休んでばっかりいて、あの給料』
影で謗った。もともと彼女たちはミスに厳しいルイがきらいだった。
彼女らのひとりが上へ密告した。
――広川主任はフライ槽に異物が落ちても、油を替えない。
そういう事実はあった。いちいち油を替えれば、経費がかかりすぎるからだ。
折悪しく、世間でアルバイトの食品汚染動画が流行していており、会社は品質管理に神経を尖らせていた。
このことは上で異様に重大視され、
『全店舗の食品に対する信用を損なった』
懲戒解雇となった。
しかし、ルイも幼な子を抱えて、黙って引き下がるわけにはいかない。処分不当を申し立て、労働基準監督所にも相談した。
――子育てで欠勤が多くなったことが関係しているはず。
労基がルイに味方した結果、示談となった。サトウマートは一方的な解雇は取り下げたものの、別部署に行くか、一年分の年収と同額の退職金を受けて、自首退職するか、選べと迫った。
別部署はサトウマートの葬祭関連のサービスで、そこに異動になると出世は望めなかった。
ルイは年収三年分の退職金を条件に、転職することにした。
しかし、奇妙なことにその後、いくつ面接を受けても落ちた。同業種、異業種かかわりなく、バイトすらなぜか落ちた。
――回状でもまわってるのではないか。
ルイは疑心暗鬼にかられ、東京を離れ、岐阜に戻った。
ルイの母はすでに亡い。実家の父は姉夫婦を可愛がり、ルイには、
『子どもがうるさい。はよ家見つけて出てけ』
と毎日のように言った。
みな、平気で攻撃してきた。
どれほど、ルイが崖っぷちにいるか知らず、突き飛ばしてきた。
だれも同情しなかった。
テツの言葉に、ルイはうろたえた。心臓を固く縛った針金が吹っ飛んでしまった。
テツは諭した。
「おまえ、ずーっと戦闘モードなんだ。うわずってんだ。何も見えてない。歓迎の席で、まだ人が打ち解けようと飯を食っているのに、仕事の話をするんだ。引越しの時、みんなが手伝っても、不足ばかり見てる。ひとがおまえのタンスを運んでいても、そいつのミスを探す。なんにも見えていない。ずっと頭が半分戦っている。だから、おれは簡単に木を伐らせたくなかった。ケガするから。木を見てないと、ハネた時によけられない。1トンの木が落ちてきたら、内蔵破裂で死ぬ。チビどもが待ってるのに、お父さんを死なせられないだろ」
えびまよは、ルイを見た。
ルイは土の上に足を投げ出し、ティッシュでしきりと洟を拭いていた。
使ったティッシュをきちんとポケットにしまうところに、この男の育ちがうかがえた。
(ふつうのやつや)
えびまよはそのしぐさを見て、われに返った思いがした。
この男に対し、フェアだったろうか、と思った。きらきらしい容姿、最初の素っ頓狂なふるまいを見て、即座に見放してしまってなかったか。
(おれも、ここで助けられた身やのに)
テツはルイに言った。
「えびも、ヘチマも、おまえにクズ呼ばわりされる人間じゃねんだぞ。こいつらにもおまえの知らない苦労がある。やたら敵視するのは、違うんじゃないのか」
「……」
ルイははじめて、コクリとうなずいた。
テツはヘチマをふりかえった。
「おまえが先に手を出したわけじゃないのは、わかってる」
「――」
「お前の言い分を聞こう」
ヘチマは目を伏せた。言おうとしたが、少しして重く首を振った。
「おれも卑怯なこと言うたで、あいこや」
えびは、とテツが聞いた。
「たった今、殺されかけたんだが、どうする?」
えびまよは、はっきり首を横に振った。
テツは鼻息をひとつつき、伐り株から立ち上がった。ヘルメットを被りながら、
「おまえらさ。今、あやまったり、ゆるしたりしなくていいから、互いにリスペクトを持ってくれな。苦労していない人間も、苦悩していない人間もいないんだよ」
この件以後、えびまよはルイにもなるべく声をかけ、輪に入れるようにした。時々、ヘチマを連れ、ルイの作業道づくりを手伝った。
ヘチマも確執のことは忘れたふりをして、ついてきた。
ルイはふたりに礼を言うようになった。
テツへの姿勢も変わった。その背について山を歩く時、くつろいだ顔をするようになった。
ある朝、山に登る時、特徴のある鳥の鳴き声が聞こえた。
ルイはケヤキの梢を見上げた。カッコウだな、とおもった。
ふりむくとテツの細目が見ていた。テツが聞いた。
「聞こえた?」
「カッコウですね」
「毎日鳴いてた」
「……」
テツはその日、ルイにひとりで木を伐らせた。