やがて手が出る足が出る
広海はペンキの缶を持ち、口を尖らせ、文句を言った。
「おれ関係ないがな。おれ今日、じゃがいも植えよ思ったに」
「おまんが来んでどうするんじゃ。裏切りもんが」
栄作はぷんぷん怒りつつ、刷毛で立ち木の腹に白い丸を描いた。
テツ坊は残す木を決めて、印をつけておけと言った。木を伐るのは、手伝うという。
「これ駐在さんに話したほうがええろ」
広海がブツブツ言いながらついていく。
「家あがってきたて、立派な不法侵入やがな」
「そんなこと、通じるタマやないわ。あの青坊主、訴訟する言いよったんやぞ」
「訴訟なんぞできるかい。ここおまんの山やがな。おまんがおまんの山をどうしたって勝手やがな」
「崩れたら、問題なんや」
「自然災害や。関係ない」
「そんに口がたつなら、どしてあん時、入って来んかったんかな?」
白く塗るぞ、と栄作は刷毛をふりあげた。
ふたりの老人は毒づきながら、湿った斜面を登った。
広海は少し太めの杉の前に立ち、
「ロクさみたいになあ。手放してまえばよかったになあ」
「……」
栄作はペンキで印をつけた。
「しゃーないがな。あのじんはここの生えつきのモンやないし」
『古川のロク』という九十翁が、村の奥山に丸太小屋を構え、独り棲んでいる。若い頃は山林労働者として人の山を渡り歩きながら、自分も山を買い、増やしていた。
だが、大阪万博の少し後、
『いまだ。売れ』
ロクは栄作たち弟分に言った。自分もひとつのこして、買った山を売り払った。当時、億近い大金をつかみ、村中をおどろかせた。
しかし、栄作たちは元からその地に住む農家で、土地に縁が深い。
山を売り払うことはせず、皆伐し、木材を大いに売った。それでもひと財産作った。
「あの成功体験があかんかった」
広海は暗い梢を見上げ、
「あれで愚考してまったでんなあ」
「……」
あまりにも木が高値で売れたのを見て、栄作たちは、
――また植えておけば、三、四十年後、莫大な財産が作れるんじゃないか。
そう思い、苗を買い、ひとを雇って植林した。自らもせっせと山に足を運び、汗水たらして下草を刈った。
とくにゆとりのあった栄作の家は、手広く植林し、ほかの山主が手放した山まで買い取って、苗木を植えた。
しかし、原木価格はその後、際限なく下がり続けた。十年すぎても値が浮上しないのを見て、
(もしかして)
栄作たちは、ようやく目が醒めた。
(手間をかけるだけバカを見る?)
栄作たちは興をうしない、山を忘れた。
「ま、あれやな」
広海は笑った。
「舌きりスズメやがな。小さいツヅラで我慢しとけばよかったに、おまんとこ、一番大きいツヅラ狙ってまったでんなあ。オバケのようけ入っとるやつ」
「おまんも同じツヅラ担いでおいでるんやで」
「おれのは、中くらいや。オバQぐらいやんな」
「ほんなら、すみっこに納豆でも詰めたろかい」
納豆はやめてくれ、と笑う広海の背後から低い声がした。
「問題ないですか」
ふたりはほぼ同時に、ぴょんと跳ね上がりかけた。
テツのいびつな坊主頭が背後にあった。無表情な細目がじっと見ている。
(い、いつのまに)
栄作は薄気味悪く思い、息をつめた。
テツは、
「広海さん。ちょっと話があるので、いっしょに来てもらえませんか」
「え!」
広海は不意打ちに凍りついた。
栄作はくるりと背を向け、木の幹にせっせとバツをつけた。
「栄作さん。バツはいいですよ。マルだけで」
テツの声が言った。
「この太さなら、四メートル半径の土地で、三本残すといいそうです。で、広海さん、ちょっと来てください」
「え、え――」
「すぐ済みます」
え、おれ、といいつつ、広海は栄作のそばに貼りついている。泣くような顔をして、栄作を見ていた。
テツはそっけなく、「ふたりでどうぞ」と先へ歩き出した。
(な、なんよ)
広海は栄作を小突き、
(あいつ、怒っとるんか? 怒っとるよな? どして?)
栄作は小声で言った。
(納豆や)
(え?)
(あれは水戸人やで、納豆嫌いなやつは許せんのや)
(ええ。納豆詰める言うたの、おまんやがな!)
(お気の毒に、おまんは埋められてまうんよ)
(えええ)
広海はおっかなびっくり、いかつい僧の後ろについて行った。
その晩、栄作の家で男だけの寄合いがもたれた。
広海は痩せ首に筋を浮かせ、興奮して話した。
「連れてこられたのが、去年、地崩れした場所でよ。折れてメチャメチャになった木が剣山みたいに突き出してるとこ!」
テツがふたりを引っ張っていったのは、昨年の台風で崩壊した森だった。
そこだけ明るく陽が差し、赤裸の坂がさらされている。斜面の下方に、骨のような木の残骸が溜まり、鋭い折れ口を突き上げ、重なり合っていた。
「これ、見せられてな! ほんそこ、槍みたいな細木が目の前よ! 槍ぶすまみたいなもんや。そんで、あの暴力団みたいな坊主が」
僧は無愛想に聞いた。
『広海さんの森、同じ頃、植林されたんですよね』
『……』
『広海さんの山のふもと、矢口タカさんの家、ありますよね。危険じゃないですか』
広海は興奮のために妙な標準語まじりで、
「そうですねえ、って言うしかないろ? いや、大丈夫、っていえます? 前、槍ですよ? ツイと押されてたら、モズの早ニエや」
六十代にして村一番の『若い衆』、ジョージが肉の厚い頬をふくらませた。
「ほんなら、広海さんとこも間伐するんですか」
「そういう風になってまうでしょうよ! 言うしかないでしょう? 危険を放置して、おタカさんの家が万が一ってことになったら、おれ殺人犯でしょう?」
栄作はなぐさめるように、
「まあ、広海の山は寺の森に境界接しとるで、しょうがないとこもあるやもなあ」
待ってくださいよ、とジョージはあわてた。
「広海さんの山の隣はうちやがな! うちにも来るんないか」
「きますわねえ」と広海。
「対岸の火事やないんやぞ」と栄作。
ジョージはのけぞった。
「イヤ、そんな勝手な。なんで今、うちの山、間伐せんならんのや」
ジョージの言葉は、村の者全員の気持ちだった。土足で縄張りに踏みいられ、生きものとしての本能的な怒りが先に立つ。
だが、馬面の、ゴローという老人が低い声で言った。
「急に降って湧いた話やない。青空さんは前から言うとったがな」
老人たちは、むうと黙った。それでも納得できない。
ジョージはふてくされ、
「そんなこと言ったって、アレどうするんです。簡単には伐れんのですよ」
「……」
村の山には問題があった。
山の森は、現村人のものだけではないのである。すでに村を出て行った元の住民の森が、パッチワークのように嵌り込んでいた。それらは長い年月の間に、交じり合ってしまっている。
以前、森林組合に間伐を頼もうとした時、
『まず、不在地主さんと森の境界をはっきりさせてください』
でないと伐れない、と断られたのだった。
間伐するとなれば、不在地主を探し出し、境界を決めねばならぬ。
しかし、不在地主もすでに代替わりしていた。出て行った村人の孫子や、親戚の親戚のような者と渡りあうこと、それも境界線のようなシビアな問題を争うことは、えぼし村の村人たちにとって、気が遠くなるような難事だった。
ジョージは憤慨し、
「うちかて都合ありますよ。田んぼやてあるんやし。――青空さん、おかしいんないか。コレちいと言うべきやがな」
なんて、と広海が聞いた。
「出て行け、言うんか?」
「……」
「言うたら、あのふたりが来たんやぞ」
「――」
老人たちは顔をしかめ、うなだれた。
あのふたりの僧は、容易な相手ではなかった。
青空のような甘えは通じない。荒涼殺伐たる外の世界の人間だった。外の世界でも、えげつない部類に入るのではないか。
若手のジョージは小太りのからだをひねったり、伸ばしたりしながら、唸っている。
「ロクさに……言うしかない思いますねえ」
「――」
馬面のゴローがぼそっと「言うた」と言った。
「言いないたんか。で、なんて」
「『誰を殺ればええんじゃ?』」
「……」
村人たちは笑えなかった。
冗談ではなく、ロクの兄貴は気が荒い。彼らが子どもの頃、グズグズ言うとよく殴られた。よそからゴロツキが入り込み、村の女に悪さした時は、相手を木から吊るして殺しかけたこともあった。
広海は言った。
「ロクさ、まんだ鉄砲の免許更新しとるでんなあ。冗談やないぞ」
ジョージは薄笑いして、
「まあ、さりげなく見せびらかすかもしらんですね」
「たーけ。撃つわ。あのじんは。前、ロクさの山に勝手に松茸取り入ったやつが、バンバン撃たれたて騒いどったわ」
栄作は言った。
「ロクさは最終手段や。あのトシで刑務所にはやりとうない。広海の森までは寺に接しとるで、しゃーない、間伐しよ」
「……」
「けど、まあ、ジョージの森までは来まいよ」
「そうなんですか」
剣呑な連中だが、一化宗の僧であることは疑いない。旅の途中なのだから、いずれは出て行くはずだった。
「ほやから、ゆっくりやるんよ」
山は広い、と言った。
「のんびり、足元もおぼつかない年寄りが、よちよちやってらな、いずれ時間切れや。シビレを切らして出て行くろ」
「牛歩戦術や」と広海もうなずいた。
村人のほかにも恨みを募らせている男がいた。
二児の父、美形のルイは、道づくりの作業にとりかかれず、苛立っていた。
テツが大砲のように怒鳴る。
「指差し確認!」
ルイは指をさしつつ、わめいた。
「上方よし。周囲よし。前方よし。足元よし。退避よし」
上方もなにも、目の前に立っている木は、胸の位置で伐られた長めの切り株である。それを前に何度も同じ動作を繰り返す。
終ると、
「基本姿勢をとれ」
ルイはチェーンソーを取り、幹を前に、構えた。
そのまま十分、同じ姿勢をとらされる。それが終ると、
「膝つきの基本姿勢をとれ」
また十分。
少しでも崩れると、
「肘締め!」
怒鳴り声が飛んでくる。
それが終ると、『退避訓練』だった。退避、という声と同時に、カニのように横へすばやく走りよけなければならない。
(なんの武術マンガ? この時間、必要?)
ルイは恨んだ。
毎日、午前中が伐採訓練で潰れる。
作業道を作るにあたって、進路にある木は伐らねばならない。だが、それは作業のほんの一部だった。バックホーで土を掻き、圧延せねば、道は延びなかった。
しかも、テツはなぜかルイに、実際に伐採はさせなかった。倒木の枝落としや切り株を刻ませ、あとは執拗にチェーンソーの手入れをさせた。
「テツさん」
ルイは不平を言った。
「バカていねいに教えてくれてありがたいんですが、作業道を伸ばさないと金にならないんで、巻きでお願いできないですか」
「……」
「つか、もう教えてくれなくていいです。仕事にかかりたいんで」
テツはやおら、ルイのヘルメットをべちんと叩いた。
ルイはおどろき、見返した。ヘルメットごしだが、重い衝撃があった。
「え?」
「え?」
テツはまたべちんと叩いた。ヘルメットがずれ、目にかぶる。
「なにするんですか!」
「なにって。巻きってこういうことだろ」
おい、とルイは飛びのき、わめいた。
「殴ったよな。パワハラだぞ! 傷害だぞ。訴えっから――」
いきなり足に重い何かが当たった。と思うと、ルイのからだがあおむいていた。木々の梢と空が見え、ルイはとっさにわけがわからなかった。
テツの細目が、冷たく見下ろしている。その逞しい頚の筋肉に気づき、ルイはたじろいだ。
「巻きで、いいよ」
テツは言った。
「それか、山を下りてくれてもかまわんよ。こっちもケガ人出したくねえし。おまえにつきあってる時間がそもそも無駄だしな」