製材屋になろう系
えびまよは弁当を持って、山を登ってきた。
官九郎は先と同じ姿勢だった。切り株に尻を落とし、小さな背を丸めて道具の手入れをしている。
その道具が見慣れないものだった。
くじらを半分に切ったような、ひどく太い、ぶかっこうなノコギリで、官九郎の半身よりも大きい。
大鋸(おが)という。
凶暴な三角刃がぞろりとついており、この刃の目立てのために数時間、官九郎はかかりきりになっているのだった。
「官九郎さん。お弁当」
「うん」
官九郎はふりむかずに言った。
「ねえちゃん、まだおるか」
「おるよ」
夏千代は寺で待っていた。時間が惜しいから帰るとは言わなかった。
官九郎の勝負を受けてたつ気らしい。
「さあて」
官九郎はようやく体を起こした。
それからは早かった。テツに丸太を据えなおさせると、ひとわたり見て、差し金を使い、糸をはじき、墨で線をつけた。
これもえびまよの見慣れない道具で、墨壷という。手のひらほどの舟形の入れ物に墨に浸した糸車が入っている。その糸を引いて弾くと、直線の墨がつく。
官九郎は、あっさりと墨を打つと、だんびらのように長いノコギリを構え、丸太に立ち向かった。
(!)
えびまよは鳥肌がたつのを感じた。
硬いヒノキの丸太に、思いがけない速さで鋸刃が入っていく。ふさふさとおがくずを散らし、ヒノキは鮮やかに裁断されていった。
木の肌と大鋸と小さな腕から、すがすがしい香気が吹き上がる。
官九郎は別の鋸に持ち替えた。
「てっちゃん。椅子になるようなもの持ってきてくれ」
テツが輪切りにした材を持ってくると、それに小さな尻を据え、刃を寝かせて、丸太を削ぎにかかった。
「これはすくい挽きってんだ。むずかしいんだぜ」
官九郎はそういいつつ、船を漕ぐようにゆるやかに鋸刃を進めた。三角刃が墨の線に吸いつき、正確に走る。足をつっぱって挽く老人と木と大鋸に、流れるような優雅な調和があった。
あふれたおがくずが落ち、綿のように散った。
風が出始めていた。
えびまよは老職人とともに、夏千代を待っていた。
夏千代がふたたび山に登ってきた時、すでに空は紅に変わり、青黒い雲間から落日が燃えていた。
官九郎は伐り株に座り、ペットボトルの茶を飲んでいた。
彼の前には、すがしい角柱が一本、ていねいに延べられている。板面には金色の柾目が浮き、木肌が練り絹のように光っていた。
「三十万だよ」
「――」
夏千代はしばし角柱を見て、神秘的な目をあげた。
「おじさんに払うの?」
「いや、お市坊だ。――いま、テツが毛布を持ってあがってくる。化粧柱だ。傷つけたくねえだろ」
老人はからかうように、
「嬢ちゃん。いい目してるな」
「――」
夏千代はそれには答えず、来た道を戻って行った。
「ありゃたいしたタマだ」
官九郎は猪口を浮かせたまま、泡を飛ばしてしゃべった。
「おれはよ。値切りやがったら、クソミソに馬鹿にしてやろうと、ウズウズして待ってたのよ。このトーシロめが。女棟梁なんて、カッコつけやがって、たんちん! バカバカって。――なんも言わなかった! ポンと払ったな。いやお見事!」
その晩は祝宴だった。
初稼ぎで浮かれているところへ、遠方から、初ガツオの贈り物が届いていた。
村の人間も招いたが、当然、彼らは来ない。
しかし、そんなことも吹き飛ばすほどに、初の現金収入はめでたかった。
青空は角柱の値段におどろいていた。
「六メートルのヒノキって、原木だと九千円しないですよ。材にすると、そんなに違うもんなんですか」
官九郎は照れて、
「いつもこんな僥倖があると思っちゃいけねえよ。あの木はな、年輪が偏ってて、四方柾がうまくとれたから、あれだけ高い。ちょっとした銘木みたいなもんよ」
ナヌ、とお市がカツオを頬張ったまま、
「おっちゃん! そういうことなら、先におれに相談してよ! あと十万ふっかけたのにー」
お市によると、夏千代は仕事の出来には何も言わなかった。だが、帰り、
「商売する気なら、道路なんとかしなよ」
と、だけ言った。
官九郎はカカと笑った。
「どうしよう。女子のハートつかんじゃったな!」
えびまよがぽろりと箸からカツオを落とす。
ほらもう、とダンディがからかい、
「えびちゃんが動揺してる。カツオが、カツオが取れない。ええい、ごはんたべちゃえ。――ところで、てっちゃんはどうしたの」
テツは夏千代を送っていた。夏千代は自分で持って帰ると行ったが、暗い山道を通るため、テツが運転した。
えびまよの顔色が変わった。
「……」
ダンディがささやいた。
「大ピンチだねえ。恋のライバルいっぱい。かたや腕自慢の職人じいさん。かたや精悍な元自の青年僧、そして、セクシー中年紳士!」
待てい、とお市も悪乗りする。
「おれにアドバンテージ! おれは夏千代のアドレスをもうゲットしてる」
青空もわーいと手をあげた。
「わたしなんか、手料理ごちそうした!」
えびまよは顔を赤くし、笑うに笑えず飯をかきこんでいる。
官九郎はえびまよに酔眼を寄せ、
「にいちゃん、やべえな。しかしよ、あれは筋目の正しい大工だよ。目もいい。プライドも高い。おれにはわかる。腕もいい。おまえ、そんな女とつきあえるかえ?」
そうだ、とお市も茶化した。
「あれは女左甚五郎だぞ。クッキー焼いてくれるかわり、眠り猫刻んでくれちゃうぞ。いいのか」
「――」
「花束送っても、木で水仙の花彫っちゃうんだぞ! それが咲くんだぞ!」
すごいねえ、とダンディが笑う。
「ディズニー・プリンセスみたい。おじさん昔プリンスだったから、脈あるかな」
お市が耳に手をあて、「シュリンプ?」
えびまよは茶碗をガチャンと置き、顔をあげた。
「おれも職人になる! なります! 製材屋に、入れてください」
真っ赤な顔で言った。
クレーンと製材機械が寺に届いた。
長く官九郎の廃工場で錆びて埃をかぶっていたその機材は、テツとえびまよによって、廃屋の製材所に据えられた。
帯鋸が唸る音を聞き、お市は興奮した声をあげた。
「こいつ、動くぞ!」
修理したのは官九郎だったが、えびまよも手を貸した。えびまよはひと目見て、この単純な機械の仕組みを理解した。
「本当はあそこにモルダー(加工機)もプレーナー(かんな)もあったんだが」
官九郎は惜しそうに言った。新しい機材は、同業者にやってしまったという。
お市は、プレーナーだけは中古で買うと言い、
「あとは腕だ。週末、お客さん来るから、デモが出来るぐらいえびを鍛えておいて」
えびまよは木についてはまったく知らない。
「柾目ってなんですか」
官九郎は小石でもあたったように、のけぞりかけた。
「あ、あ。そこからか」
「――」
官九郎はせつない顔になったが、手のひらを上にして見せ、
「年輪の丸い面がバースデーケーキだとするな。中心からケーキを切るように板を取るのが、柾目だ」
「――」
「ゆで卵切り器みたいに、ばさっと平行に切るのが、板目」
えびまよはそこまでは理解した。
「なんで、切り方分けるんですか」
「……乾くとくるう――反るからだよ、木ってのは」
木材は乾いた時に反る。細胞部分によって水分量が違うからで、柾目に切ると、安定して反りが少ない。板目材は木皮の方向に反りかえる。
しかし、柾目ばかりだと、無駄に落とす部分が多くなり、利益が削がれる。板目は無駄が少ない。しかし、安い。
板目、柾目だけでなく、芯のあるなし、木の生育条件などでまた反り方が違う。
「だから『木取り』が大事だというんだ。いま大手は、コンピューターで木取りする。しかし、木ってのは一本一本クセが違う。地方の土質でも違うし、同じ山の峰に生えてる木と中腹でも違う。アテっ木(クセの強い木)でも、クセを読んで、その木をもっとも有効に使う。それが、この小さい会社の強みなんだぞ」
えびまよは熱心に聞いた。木についての知識は、毎日作業の後、ひとつひとつ大学ノートに書いた。
早く成長したかった。
職人に近づいていくのが、無上に楽しかった。
えびまよは興奮のままに、ネット掲示板に書き込んだ。
『以前、お寺に転がりこんだ無職だけど』と題して、
――報告があります。おれ、この村に住む!
しばらく反応がない。誰もいないようだった。
えびまよはかまわず、浮かれるままに書き込んだ。
――おれ材木屋になるんだ。山の木、切って切って切りまくるわ。そして、麗しの工務店さんにお届けする! 木を切れば、工務店さんに会えるんだ! おれのことはえびまよじゃなく、製材ジョニーと呼んでくれ。
多幸感に包まれていた。この幸せを告げずには居られない。
――おちつけ。
ひとり現れた。
――話が見えない。なんで材木屋?
えびまよは、これまでの経緯を簡単に書き込んだ。
拾ってくれた『131』は、まさしく神だったこと。竜宮城のような暮らしを満喫していたこと。
お寺では、治山のため、あらたに製材所を作りはじめた。そのため元プロの材木屋、『マスター・ぽんぽこ(仮名)』を呼んだこと。
そして、工務店から『この世のものとも思えぬほど美しい』客が来て、初取引が成立した。
そこで、材木屋になる決意をした、と書いた。
――あらら。
せっかくのニート暮らしを捨てるのか、とからかう返事があった。
(そんなもん、ぜんっぜん惜しくないっ!)
えびまよはあの日の、夏千代と官九郎を思い出し、地団駄を踏みたくなった。
夕日の中で、少ない言葉をかわすふたりが、苦しいほど神々しく見えた。ふたりとも誇り高く、周りの木よりも堂々として、見事だった。
(おれだって前は)
自動車修理工場では、多少のプライドは持っていた。人間だった。
早く人間に戻りたいと思った。職人になりたい。夏千代のあの不思議な目に認められたい。
ネットの野次馬が聞いた。
――で、もう工場はできたのか。
いまは、マスター・ぽんぽこの会社から中古の設備が届き、それで材木の切り方を習っている、と答えた。
――台車って、丸ノコみたいなやつ?
――そそ。レールに丸太のせて、ウイーンって切れる。
――怖くね?
――そんなには。ただ、木に石コロとか嵌ってると、弾けてケガすることあるから、バイザー必須。
別のIDが話に加わった。
――なんやおまえ、トントン拍子に幸せになってんな。
――そうかな。
――なってるやん。食わせてもらって、まわりいい人ばっかで。仕事にも就けて。うらやましいわ。
――確かに、ここへ来ていい人にしか会ってないな。いっしょに来たおっさんホームレスも、遊んでるだけで、悪いやつじゃないし。
――いいなあ。おれも行きたい。
――来いよ。まわり空き家いっぱい。若い力歓迎よ。あ、ただしイケメンはダメだ。
――え。そんな。
――おれと工務店さんの恋路を邪魔する者は、台車に乗せてまっぷたつじゃ。
――おれ正直、ブサだからいい?
――ブサか。よし。通れ。
――もうすぐ貯金ついて、アパート出されそうなんだ。ちょっと、マジでそこ行きたい。
その男は、本当に来ると言い出した。