注文にきた発光体
老人のゴマ塩頭が病室の窓を眺め、泣くような細い声でつぶやいている。
「ひゅるひゅるひゅ~、ひゅるひゅるひゅ~」
その小さい背を、看護師が切ない気持ちで見つめていた。
病院を抜け出したタヌキ顔の元社長、糸屋官九郎は、別人のように老け込んでしまった。看護師をからかうこともなく、患者たちと花札で遊ぶこともなくなった。
(あのままじゃ本当にボケてしまう)
官九郎がなぜか、自分の会社がまだあると勘違いしたことは、聞いていた。
そのことに本人が一番ショックを受けていた。以前のような軽口は消え、たよりない目で、毎日窓の外を見ている。
おそらく酒が入った上での一時的な記憶障害だが、このまま気鬱が続けば、本当に認知症を発症することはありえた。
看護師が声をかけようとした時だった。
「ひっさしぶりー」
聞いたような声がトンと背中を叩いた。
「元気―? ハコフグちゃん。こないだ、さかなクンの頭に載ってた? ギョギョーッ」
黒い直綴姿の背の高い僧が笑って通り過ぎて行く。
官九郎が気づき、ふりむいた。
「お市坊」
そのタヌキ顔がみるみる情けなくゆがむ。
おっちゃん、とお市はベッドの端に立ち、明るく言った。
「仕事だ。迎えにきたぜ」
軽トラの中で、お市は官九郎に説明した。
「まあ一般的な五十年生のヒノキと杉なんだけどさ。水中乾燥させてみたって言うから、それが売りになるんじゃないかと思って」
「なにが。水に漬けてたってことがか?」
「そう。今、見直されてんだよ。素人は天然とか無垢材とかあこがれるんだけど、天然乾燥の無垢材って、ピシピシ割れるでしょ」
「ああ、生きてるからな」
「それが水に漬けることによって、割れにくくなるんだって。繊維が整うのかな? 乾燥も早くなるって。なんか、滋賀で研究してる大工さんがいるらしくてさ。青空センセがそれ真似して、――」
官九郎の退院は、スムーズだった。
肺炎はすでに沈静化していた。脱走のこともあり、医師は自宅療養でかまわないと判断している。
娘夫婦のほうは、老父の精神状態をあやぶんで別の病院を探していたが、お市の申し出に、
――父が希望するならば。
ひと月に一度、検診を受けることを条件にして、寺に住むことを認めた。
官九郎は泣くように言った。
「おれはよ。おめえ見たら、なつかしくてよ。うらやましくてよ。金もねえのに入院して来やがって、平気でひとの懐あてにして、まんまと退院して。ずうずうしくて、遠慮がなくて」
「そっちも遠慮ねえな」
「恐れ知らずで、いさぎよくって。また手ぶらで風食らって歩いていくんだと思ったら――。おれはたまらなくなっちまったんだよ。おれの身の上が」
「――」
「おれはもう何もねえ。終った人間だ。何もねえのに、イヤホンしてテレビ見て、何を待ってるんだって。自分も楽しくねえ。家族にも国にも迷惑かけて、もっと生きのばしてもらってどうするんだ。情けなくてなあ。いっそ好きなもの喰って、草枕に倒れて、お陀仏になるような、風来坊な旅がしたくなっちまったのよ」
「ハハ。家族に心配かけて寝ぼけたこと言ってんじゃないよ」
お市は笑い、
「老人性中二病の罰として、ちょいとかわいそうなお寺を助けてもらうよ。言っておくけど、山だからな。テレビもない。ちょっと飲み屋、なんて思っても、なーんもないんだから」
「大丈夫だ。おれ、どぶろく作れっから」
「いや、原始でとまってるわけじゃなくて、アマゾンぐらいは来るからね」
寺のメンバーに官九郎が加わった。製材所の技術顧問が誕生した。
官九郎は山の寺が気に入った。
若くて覇気のある坊主たちが集まっていた。木々の新緑も畑の黒々した畝も、空の青も、何もかもが命に満ちて潤っていた。
何より、廃屋の床をとっぱらっただけの『製材所』がかわいい。
官九郎はここに、自分の朽ちかけた工場から製材機械を持ってくる手配をしていた。この知らせは、若い坊主たちを飛び上がらせ、狂喜させた。
(なんかこっちまで興奮しちまうな)
まだ夜も明けきらぬうちから、官九郎はふとんを出て、外を歩きまわった。眠っていられなかった。
冷気に身をすくめつつ、薄紫色の田園を歩く。
(今日は電源が来るんだ)
廃屋に電気工事がなされ、製材所として復活する。
その隣はきれいに草が刈られ、縄張りされていた。切った材木を桟積みする『乾燥所予定地』だった。
さらに草薮の向こうには、新しい『貯木池』を掘るという。むかし田んぼだった場所で、今は背丈以上あるカヤに埋もれていた。
そこを見てこようと足を向けた時、草薮の中に小さな頭がふたつ見えた。
官九郎は声をかけた。
「どうも。おはようさん」
人影は跳ね上がるように立ち止まった。ふたりとも小さな年寄りで、手に何か抱えている。
官九郎は村の住人だな、と気づき、愛想よくすることにした。
「お寺にお世話になることになった糸屋いいます。むかし、大阪で材木屋をやってまして、ここのお市坊に呼ばれて参りました。どうぞ、よろしくお願いします」
ふたりの年寄りはとまどったように、頭を下げた。が、首をすくめているだけで自己紹介はしなかった。
官九郎はふしぎに思いつつも、
「それはなんです?」
ふたりの荷物も妙だった。レンジと、かたほうは小型の扇風機である。
村人は小さなからだに鉄板でも入ったようにこわばった。首の細い、白い顔をした年寄りがようやく、
「……あの、ゴミ捨てで……ます」
「ああ! ゴミの収集日ですか。集積所はどのへんで」
その時、背後から、明るい声が聞こえた。
「官九郎さーん!」
作務衣姿の青空が駆けて来た。ふたりの村人に笑顔を向け、
「あ、栄作さん。広海さん、おはようございます。――こちら、新しく来た」
「いま、ご挨拶したよ」
官九郎は鷹揚に言った。
「ゴミ捨ていくんだってさ。ここらは収拾、早いんだね」
青空は、ん、と首をかしげ、
「今日でしたっけ。資源ゴミは」
「……」
年寄りふたりの顔色が悪くなる。青空は笑い、
「大丈夫ですよ。そこ置いてってください。うちのといっしょに来週、持っていきますから」
ふたりは目を見交わせた。ゴミを置き、そそくさと去った。
「おい、にいちゃん」
官九郎は日向ぼっこしている居候の若者に声をかけた。
「山を見たいんだ。案内してくんな」
「え」
えびまよはややとまどったが、立ち上がった。
(中にテツさんがおるやろ)
何度か、ダンディと山道を登ったことがある。途中まで作業道がついており、その先でテツが道を作っているはずだった。
官九郎は少し登ると、ハアハア喘いだ。
「あの」
えびまよはうろたえた。
「もう下ります?」
「バカ言ってんじゃないよ。おれは材木屋だよ。お宝見ないでどうすんだよ。おんぶしてくれ」
ひょいとえびまよの背中に飛びついた。
えびまよも柄が大きいほうではない。官九郎が軽い老人だといっても、上り坂である。急斜面を登ると、まもなく太股が重く萎えた。
「あの。すまんがな」
背中の老人が言う。
「もうちょっとスピードとテンポ、アップしてくれんかな。さっきからちょっとも景色が変わらんのだけど」
「……無理です」
「いけませんよ、キミ。男の人生ってのは重圧あって当たり前。一歩一歩踏みしめた足跡に、一輪の花が――おい。根を踏むんじゃねえ! 商売もんだぞ」
「……」
木にすがることも許されず、えびまよはしばしばへたりこみ、路傍の伐り株に腰をおろした。
座るとすぐに汗が冷える。昼前で空気があたたまらず、細い作業道には日差が落ちてこない。
両側の森は壁のようにそびえ、葉が天井を蓋い尽くして暗かった。
三十分も登った時、ようやくガタガタと重機の動く音が聞こえた。
テツが黄色いバックホーを駆り、アームで斜面を掻いている。くるくるめぐりながら、削った土でふたつの山を築いていた。
官九郎は手を振っているらしい。
「てっちゃんよー、技術顧問さまが白馬に乗ってきましたよー」
エンジン音が止まった。
背中から官九郎がすべり下り、えびまよはその場にヘタばってしまった。
深い息をついた手の上に、光が落ちていた。
あたりは明るかった。立ち木はだいぶまばらで、清澄な光が根元まで差し込んでいる。
間伐を施した場所らしい。根元には倒された枝つきの木々がむぞうさに折り重なっていた。
えびまよは涼しげな香気に気づいた。
(神社のにおいだ)
「上々、上々」
官九郎は短い足で跨ぎつつ、倒れている木々を見てまわった。それらの木々には白ペンキで年号が付されていた。
「こうやって枝つけときゃ、早く水が抜けるからな。でも、長く置きすぎちゃダメだぜ。ヒノキはあんまり葉っぱつけとくと、ツヤが失せちまう」
へえ、とテツはのんびり聞いた。
官九郎は笑った。
「のんきでいいねえ。資本金ナシ。経験ナシ。木だけはたっぷりもってるが、設備もなんもねえのに製材所つくるってんだ。おれが来なきゃ、どうやって材木切る気だったんだか」
テツは、チェーンソーで、と言った。
官九郎は小さい手で額を覆った。
「ジェイソンか」
「――」
「手がえらいことになりそうだ。はくろう病一直線だな」
「切るのはなんとかなる。でも、おれら素人には『木取り』がわからない」
テツがそう言うと、官九郎の頬に得意の光がやどった。
「それがわからないで、よく材木屋やろうなんて思ったね」
一本の丸太を材にする時に、どのように板をとるか、その切り方で価値がまったく変わってしまう。その切り方を見極めるのが、『木取り』という技術だった。
「板の取り方で、値段が天と地ほどに変わるんだ。その『木取り』を学ぶのに、ふつう七年かかるってんだよ。ものを知らないってのは、こわいねえ」
「――」
テツはのんびりと、
「官九郎先生が来たんだから、問題ない」
「へ、それでおれは誰におしえりゃいいんだい」
先生と呼ばれて、官九郎の小鼻がふくらんだ。妖精のように丸太にちょこんと座り、
「おりゃ長生きはしないんだよ。ある朝、コロっといっちゃってるかもしんねんだから。弟子に引き継がないといけないよ。このにいちゃんかい?」
(え)
えびまよは、ドキリとした。
その時、
「ヨー、メーン!」
坂の下から、お市の声が聞こえた。
「お客さんつれてきたぜー! 麗しき、わが社第一号のお客様だぜー」
お市の少しあとから、若い女が斜面を登ってくるのが見えた。
えびまよは立ち上がった。雷電に打たれたように立ち尽くした。
その女は発光していた。
シンプルなワンレンの髪に木漏れ日が落ちて、金色のオーラをまとっているように見えた。卵型の頬も、白い首も光を含んでいる。
切れ長の眸は冷たく、しずかで、色が浅い。
(青い?)
光の加減か、眸が湖の石のように青く見えた。神話の存在を思わせる、冷たい、しかし、見る者の胸に火をつける不思議なまなざしをしていた。
お市が隣に立ち、
「人造人間十八号です」
「――」
「もとい、株式会社飛匠(ひしょう)・め組、棟梁。陣内夏千代(じんないかちよ)さまにあらせられます。――かちおちゃん、こちらが製材所技術顧問、糸屋官九郎先生。山仕事担当、平鉄舟とイケメン担当百瀬直希だ」
女は無表情に首だけ軽く会釈して、何も言わなかった。
かわりにお市が、
「飛匠は、元宮大工の大工集団で、古式ゆかしい在来工法を得意とする建屋さんなんだ。夏千代ちゃんは、町家専門のチームで、『カントリー&伝統技術』が歌い文句でさ。和風建築の頑丈さとカントリーなオシャレさを取り入れた、奥様好みの住宅を提案してる気鋭の工務店さんでね――」
お市がにぎやかに紹介する間、男どもはぼーっと夏千代の顔を見ていた。
夏千代はそっけなく言った。
「木を見ていい?」
「もちろん。木場にご案内しますよ。この坊さんが」
テツをうながし、先を歩かせる。女客に釣られるように、官九郎とえびまよもついて行った。
道なき森をしばし歩くと、ふいに森が消え、小さなため池が現れた。
田んぼ一枚ほどの水面に、丸太がいかだのように浮かんでいる。ため池の周りには、木材が律儀に積まれ、いくつかの山になっていた。
お市が指差し、乾燥期間を教えた。
「むこうから二年もの、一年半もの、一年もの、半年もの。いずれも水には四ヶ月浸してあるから、きれいに乾燥が進んでるよ。一年以上のは(含水率)十五パーぐらい。水分計見る?」
夏千代は聞こえなかったように、積んである丸太を見ていた。ひとつひとつ手にふれ、切り口を丹念に見る。
下を向いた時、かたちよい耳にかけていた髪がさらと顔に落ちた。それをかきあげた時、
(……)
えびまよは、阿呆のように口をあいていた。一瞬、一瞬が完璧だった。映画の一コマのようにすべてが完璧な絵だった。
夏千代はチョークでしるしをつけると、ぶっきらぼうに聞いた。
「自分で運び出せって?」
いんや、とお市は言った。
「ちゃんと製材して、お届けしますよ。御社まで」
「それはいい」
夏千代は興味うすに言った。
「製材はこっちでするから、原木のままで。――ふもとまで出して」
「それはダメ」
お市は言った。
「うちは製材にしてナンボの商売だもん。言ったじゃん。原木のままじゃ売らないよ」
「さっき見たけど、製材設備がまだ無いよね」
夏千代はさめた目で言った。
「あんたら、ただ山もってるだけの素人でしょ。製材屋はこれから始めるんでしょ。こっちはすぐ仕事で使いたいんだよ。素人に台無しにされたら困る」
だれが素人だ、と官九郎が正気に返った。
「このおれに言ってんのか。原木のままよこせって」
ハッとあざ笑い、
「どこの誰に挽かせる? 機械に木取りさせてイイ材ができると思うのかい。あんたたいしたことないね。宮大工のご先祖が泣いちゃうぜ」
お父さんお父さん、とお市がいさめる。
「夏千代ちゃんできるから。小学生から、自分ちの山で材とってたプロだから。でも、今回用意してた建材にトラブルがあったから、水中乾燥の木を試してみようと思って、来てくれたんだよ」
ふーん、と官九郎はうさんくさそうに夏千代を見た。
「傷んだのはなんだ?」
「二丈、四寸角(長さ6メートル、12センチ角の柱)。四面化粧柱」
「いつまでにほしい」
「今日中」
「――」
お市が苦笑いする。
「意地悪言わないの。明日、台車(製材機)が来るからさ。明日、届けるから。ちょっと待ちなよ」
「無理だよ」
夏千代は冷たく言った。
「いま、台車無いんだから、設置に時間かかる。あさり(刃の手入れ)やらなんやら、機械になじむまでにまた時間がかかる。一週間、十日すぐたつ。それならうちで、すぐ荒挽きして養生させたい。もうすでに着工してる分なんだ。棟上げは来月。急ぐから、ここに来たんだよ」
「――」
「原木じゃなきゃいらない」
夏千代が山を下りようとした時、待ちな、と官九郎が鋭く止めた。
「生材を、すぐ柱として使う気か」
「工期に八ヶ月とってるから、その間にくるいは取れる」
「なら、二丈四寸角、今日やってやる」
夕方まで下で待ってろ、と言い、お市に命じた。
「おれの大鋸を持って来い」