4 高嶺の白い花
休み時間。
トイレから教室に戻る手前で声を掛けられた。
「ちょっといいかな?」
女子生徒の声。
「何……?」
俺はぶっきらぼうに振り向いたのだが、話しかけてきた人物に驚く。
藍色のブレザーに映える長い髪。濡れ羽烏って色が似合う青みがかった神秘的な黒のロングストレート。
俺に話しかけてきたのはクラスでも随一の優等生、白瀬紫莉だった。
「ご、ごめん」
「そんなに驚かなくてもいいのに」
つい謝ると、白瀬さんも輪郭を隠すサイドの髪をかきわけて笑う。
まさに白皙の美貌。触ったら解けてしまう雪みたいに綺麗だ。
彼女の存在は一年次から知っていた。とてつもない美少女で、学年一位の高成績を何度となく達成している。
類い稀なる美貌と才知を以て完全無欠な美少女。それが白瀬紫莉という女子生徒だった。
そんな彼女とは二年の新クラスで一緒になった。
新学年初日のクラス発表ではガッツポーズを取りかけたが、残念な事に今日の今日まで話す機会は皆無。
だからこそ驚く。
「白瀬さんが俺に話しかけるなんて珍しいんだね」
「そうかしら?」
さらっと言ってのけるが、彼女はいつも女子同士の集まりの中にいる。本来ならば俺なんて歯牙にもかけない高嶺の花みたいなキャラなのだ。
しかし、白瀬さんは今まさに俺に話しかけていた。現実かな?
俺がじっと見ていると、白瀬さんはコホンと可愛らしく咳払いする。
「ロングホームルームは保健室に行ってたんだ。さっき聞いたら水梨君と同じ班になったみたいで、それで……」
「へえ!」
平静を装うが、その胸中は穏やかじゃない。
さっきの時間、翔は保健室に行った班メンバーがいると言っていた。
まさか、それがよりによって白瀬さんだったなんて! 心が躍る!
「砂原君も栗橋さんもどこか行っちゃって。だから水梨君に教えて欲しくって」
「ああ。見学ルートとかだよね?」
こくんと頷く白瀬さん。はらりと黒髪が肩先でほぐれる。
いちいち動作が上品だ。見ているだけでドキドキしてくる。
「栗橋さんと涼介が殆ど決めちゃったんだけどさ。」
俺は気を取り直し、頭の中で説明すべき事項を必死に整理して思い出しながら伝える。
それを白瀬さんはうんうんと可愛らしく相槌を入れて聞いてくれる。ますます舌が回る。
「最初に行くとこはショッピングモールで――」
ルートを白瀬さんに説明する俺。ショッピングモールの後は水族館に美術館、更に海洋研究施設の見学だ。
ていうか、絶対このルート周りきれないだろう。あいつらとりあえず行きたいとこ全部盛りしやがったのだ。ウキウキ気分で決めたから、これが無理プランだって分かってないんだ。
そうこうしている内に白瀬さんへの説明も終わった。
「とまあ、こんな感じ。他に聞きたい事はある?」
白瀬さんは人差し指を顎に当てて逡巡。
「うんっ。大体分かったわ」
そして、小さく口を開き天使のようなほわほわした笑みを浮かべた。
春の日差しが背中から当たるのもあって、こっちまでほわほわしてくる。
「他にもあればいつでもどこでも聞いてよ……ん?」
俺は自分でも引くくらいにデレながら白瀬さんと会話していたのだが、不意にこちらを見ながら歩いていく同級生に気づいた。
普段あまり話をしない男子のグループだ。
彼らは俺達が楽しそうに話しているのを怪訝そうに見ながら通り過ぎていく。
普段空気みたいなのが俺だ。そもそも俺が誰なのか、このクラスのヤツだと認識されないでいる可能性まである。
「じゃあ、他にも何かあれば……」
耐えられなくなった俺は逃げるように会話を切り上げようとした。
本当は一秒でも長く話していたいのに……
でも、周囲から好奇な目を浴びた状態で女子と話すのは苦手だった。
「とりあえず、またね」
クラスで円滑な人間関係でいたいのなら、人気の女子生徒には近づかないようにしなくてはならない。
戦闘コマンド『にげる』一択しかない俺は踵を返そうとした。
「待って」
しかし、まわりこまれた! にげられない!
上目遣いの白瀬さん。その瞳にはどこか不安が入り混じっていて、ほっとけなくなる。
「まだ何か?」
「この前の試験。水梨君、世界史で一位だったよね?」
俺が問い返すと、白瀬さんはほろ甘い微笑を浮かべた。
イメージカラーは桜色。花びらが周囲を飾る演出が似合いそうな笑顔。
少しだけ思考を巡らし、ようやく二週間前のテストの結果を思い出す。
俺はこの学校にはギリギリの点数で受かったが世界史だけは得意だ。二年最初のテストで一教科ではあるが、初めての学年一位を取ったのだ。
「確かにそんな事もあったね」
多分、今後絶対にないであろう頂点に達した瞬間。母親や妹にどやされたその日の夕飯を思い出す。
「私、二位だったんだ」
手を後ろにやった白瀬さんは気まずそうに笑う。
「二位!? 十分じゃん。それに、世界史なんてただの暗記物だし」
自然とフォローに入る俺。
「俺が興味のある時代が範囲だったから――本当に運が良かっただけだってば」
「そんな事無いよ。私これでも96点だったんだよ。『……勝ったな』とか『思い通り!』なぁんて思ってたんだけどな」
可愛らしい声でその台詞を呟くか。白瀬紫莉、いと侮れじ。
「ねえ、水梨君何点だったの?」
余程世界史で首位を逃したのが悔しかったんだろうか。
優等生美少女は俺なんかに敬意の目を向けている。
「一応、100点だった……けど」
そして、俺は言うべきか悩んだが点数を告げる。
自慢してるみたいであまり言いたくないけど、これは事実だ。
瞬間、白瀬の瞳孔がくわっと開く。
「マジ!? ……あ、ごめん。変な言葉出ちゃった」
一瞬キャラが豹変する程に驚きに満ちた表情。白瀬さんは恥ずかしそうに俯いた。
「別にいいよ。気にしないでも」
俺がそう言うと、白瀬さんは頷いて笑う。多分、家での素が出たんだろう。
白瀬さんも人の子だったって事だよね。俺はそれくらいの言葉遣い気にしない。
「それに白瀬さんだって……いつもトップじゃん。満点常連でしょ?」
本当に白瀬さんは可愛い。乙女だし純粋無垢だし、彼女が近づく度に清潔感溢れるフローラルな香りが漂う。食虫花みたいなドス甘い香りを撒き散らすどこぞのギャルとは違う。
「買いかぶり過ぎだって。私、大していい点数じゃないよ?」
白瀬さんは本当に恥ずかしそうに床に視線を落としたまま。彼女の黒髪の美しさに俺は見とれていた。
こういうしおらしさ、慎ましさがあのミルクティーブロンドギャルには欠けているのだ。
俺はますます白瀬紫莉と会話で来ている事に至福を感じる。
「そっか。俺なんかが一位取っちゃって本当にごめんね。今回のは奇跡みたいなもんだし……多分、次はもっと悪い点だよ。だから安心して良いよ」
フォローを絶やさない俺。つか良い点とったのに何で謝ってんだろう。黒髪美少女に忖度しまくっている。
「そんな……私は別に。ただ水梨君がすごいなって思って話ししてみたかったの」
白瀬さんははにかみ混じりに首を振ってそれに答えてくれる。
生きてていいんだよ――そんな慈悲に満ちた優しい笑顔だった。
死を覚悟して当ても無く夜をさまよう人間が、白瀬さんみたいな美少女にこんな声を掛けられたら……絶対明日から全力で『生きる!』ってなるだろうな。
「いや~俺の場合、世界史で高得点出せるのは理由あるから」
テンションが上がってきたせいか、俺はいつの間にか、そんな事を口走っていた。
「理由?」
当然、気になったのか不思議そうな顔で俺を見つめる白瀬さん。
ここで某通信教育を勧めるのが、ダイレクトメールの漫画の定石パターンなんだろう。
だが、俺の世界史勉強法はちょっと違う。
「世界史は戦争とか多いし。俺小説でそういう歴史物を書くの好きだからさ。昔の戦いとか勝手に暗記できちゃうんだ」
いつの間にか小説執筆という趣味をカミングアウトしていた俺。ハッとするが、目の前の白瀬さんはどこか熱の浮いた目で俺を見ていた。
「意外……水梨君って小説書くんだ」
「うん。白瀬さんくらいにしか言ってないけどね」
君だけは特別だぜというニュアンスが口から出た言葉に勝手にくっついていた。
というかここまで考えてみて思ったけど、なんか、今の俺ヘンです。
完全にテンションがおかしなことになっている。
――止めろ、それ以上続けると戻れなくなる。
止まらないテンションのフルスロットルを必死に抑えようとする俺の理性。
自分の趣味をこうまで簡単に打ち明けるとは思ってもいなかった。
しかも話している相手は、学年一位の美少女白瀬紫莉だ。でも止まらない、止められない。
「特に戦記ものは好きなんだ。よく書いてるよ」
「そうなんだ」
意外と好感触のようで、白瀬さんは口元を緩ませている。
その笑顔を見ているせいか、ますます喉元から感情が迸る。
「まあ、ファンタジーとか三国志ぱくったような戦争ものだけどね……ライトノベルっていうか」
――ぱくったって言っちゃった。
ネットで盗作公言しようものなら大炎上不可避。
しかしながら、俺の小説なんて誰も読んでないからな……その点は安心して白状できる。
「ああ……ライトノベルね。知ってるわ、アニメとかの原作になる小説よね。そういうの書くの好きなんだ」
一方の白瀬さんはラノベがなんなのか大体分かってるようだった。
実際、アニメ=ラノベみたいなものだしね。うん。だいたいあってる。
「俺tueee展開だと書いててスカッとするんだ。……そう言えば、白瀬さんも文学部だよね。今度一緒に――」
「じゃあまたね」
しかし、会話はそこで終わった。
ものすごいナチュラルに会話が終わり、白瀬さんはいそいそと教室に入っていく。
「――うんっ。またね!」
俺もこれまたものすごいナチュラルに会話を止めた。
自分でも引くくらいの爽やかスマイルで固まっていた。
何この会話の終わり方。