19 空気キャラ、立つ。
午後の授業は滞りなく消化していった。
終業のチャイムが鳴り響くと同時に、教室内は一斉に開放感に包まれる。
白瀬さんはあれからずっと、何も語らず。
授業こそ黙々と受けているもののその背中はひたすらに寂しげだ。
この教室内には四十人近くもの生徒がいるのに、彼女だけが一人孤独に生きているのだ。まるで、ずっと前からそれが当たり前だったかのように。
明日、そして明後日……いつまでこの状況が続くのだろうか。考えただけで薄ら寒さを覚える。
白瀬さんは帰り支度を済ませると、早々に教室を出ていく。
すると、それを見計らったかのように女子の一派が噂話を始めた。
朝から変わらない同じネタを良くもまあ、いつまでも繰り返せるものだ。
流石の空気ポジションの俺でも、そろそろイラついて来た。
「おい……」
椅子が擦れる耳障りな音が膝裏に響く。俺は立ち上がって彼女達の方に声を掛けるのだが、
「でさー」
完全にスルーされていた。
声が小さかったせいだろう。それに空気薄いからな、俺。
「水梨か?」
「……どうしたんだ」
しかし、周囲の人間は俺の変化に気づいたらしい。
誰もがこれから起こる一悶着を好奇の目で見ている、そんな視線を感じた。
神経中が痺れたみたいにヒリヒリする。意識ははっきりしているのに、現実感が希薄で俺の魂だけがどこか遠くに飛んでいってしまったみたいだ。
それは多分、すごく小さな頃にも体験した久しぶりで……恐ろしく嫌な感覚だった。
「水梨……お前」
「水梨君っ」
俺の近くで会話していた天沼と涼介が一番に反応を見せる。
それ以上言うなと眼で語る涼介。天沼ですらも俺を心配しているのか、どこか悲し気な顔。
そんな二人の俺に対する心遣いが分かるから、俺は抑えられたのかもしれない。
大きく息を吸うと、怒りは徐々に凪いでいく。
「悪い。涼介」
「?」
涼介は不思議そうな天沼と顔を見合わせる。
「昼にお前にやめとけって言われてたのに、変な気起こそうとしてた」
周囲で様子を見ている他の連中の中には、普段俺に快く声を掛けてくれる奴らもいた。
しかし、俺が感情的になって女子グループと問題を起こせば、多分彼らも敵になる。
そうなると、ますますこの問題はクラス内でこじれるだろう。
「ありがとう涼介。俺までヤケ起こしたらもっと面倒な事になってたわ」
「白瀬さんの事か?」
「ああ。お前の忠告通りだよ。俺はここで面倒を起こす訳にはいかない」
白瀬さんを何とかしてあげたいという俺の気持ちを、涼介は良く分かっている。
だからこそ、忠告もしてくれたのだろう。
そうだ。いくら上辺で良好な関係を築いても嫌な奴らはどこにでもいる。
ヒトはその時々の状況で自分の立ち位置をすぐに変えてしまう。
「涼介や翔は、上手く人間関係を渡れるけど、俺じゃダメなんだよな」
でも、俺は何もかもストレートに受け取っていちいち気にしてしまう。
コミュ力という物はある種の免疫みたいだ。
でも、俺にはそれを持ち合わせていないから、ヒトの悪意も善意も一緒くたに受け入れてしまうのだ。それこそバカみたいだ。
「笑えて来るな、全く」
だというのに俺の顔は引きつったまま。全然笑えない。
「邪魔したな。先に帰るわ」
小さく手を掲げて鞄を担ぎ背中を向ける。二人が俺に向ける顔が、今どんな表情かは分からなかった。
でも、これは仕方がない事なんだ。白瀬さんの口から事の真相が語られない限り、この歪な教室内の空気は変わらない。
そして、俺自身も何も変わっていなかった。
――遠い昔、人を傷つけた。
その時の俺と、今の俺はきっと同じ顔をしているはずだ。
結局俺は今も昔も味噌っかす。取るに足らない存在で何も変えられない。
そんな郷愁じみた虚しさがこみ上げてくる中、歩き出す。
「お前はバカなんかじゃないよ」
すれ違い様に、涼介は小さな声を発する。
「……バカなんかじゃない」
俺の言葉を全否定するように強い意志の籠った、そんな声音で。
「ねえ、海里。待ちなって」
教室を出てすぐ、背後から呼び止められた。
ゆっくりと振り向くと栗橋翔が立っていた。
手持無沙汰そうに後ろ手を組み、こちらを窺うような表情。
そこにいつもの明るさはない。
「何だよ。悪い事した子供みたいな顔して」
「は? そんな顔してないし」
苛立ち紛れに髪をすごい勢いでいじいじしながら、俺を睨みつける。
でも、その眼は潤んでいて、弱々しかった。
その強がってる素振りが今日一日中、寂しい背中を見せていた白瀬さんと重なる。
「泣きそうな顔してるけど」
「泣いてないし!」
そう言い張る翔は、どこか痛々しい造り笑顔に見えた。そのせいか、不思議と俺の胸も切なさを覚えた。
「どこ行くの?」
「図書準備室……白瀬さん来てるかもしれないから」
「やっぱり」
それを聞いて翔は安心したのか、ようやくいつもの笑顔に戻った。
その見慣れた表情に、俺はどこか救われた気分になる。
「一緒に行く?」
「うんっ」
不思議と自然に出てきた言葉。
翔は俺の横について一緒に歩き始めた。
第二図書準備室に入っても、中にいるのは桐生先生だけだった。
先生は俺が翔を連れてきたのに目を丸くして驚く。
「まさか、栗橋さんまで来るなんてね。コーヒーは甘い方がいいかしら?」
「ブラックで頼みます」
思いもしなかった翔のオーダーに、俺と桐生先生は顔を見合わせる。
髪からしてミルクティーブロンド。どう見てもスイーツ(笑)とか好きそうなのが栗橋翔だ。
コーヒーもクソ甘いのを注文すると思ってたのにブラック……だと?
「お待たせ」
程なくして、三人分のコーヒーカップを載せたトレイを持って先生が戻ってきた。
廊下側には俺、向かいの窓側には桐生先生が座る。
「座りなよ」
立ち止まり自分が座る場所に悩む翔に、俺は隣を叩いて促した。
「んっ……」
翔はスカートの裾を太もも裏にそっと押さえながら、俺の隣に座る。
ソファーが柔らか過ぎて、彼女の重みで横に座る俺まで沈み込む。
そうやって席についた所で、俺達はコーヒーを一口飲んだ。
「先生、白瀬さんは今日ここに来ました?」
応接用のガラステーブルを挟んだ向こう。桐生先生は首を横に振った。
「いいえ。あの騒ぎだもの。職員室もてんてこ舞いだったんだから」
そう言ってカップを両手で支えて自嘲気味に笑う。
「まさか、あの白瀬さんがね……」
そう言って漏れた溜息は、ホットコーヒーに温められていたせいか白くもやがかっていた。
「でも、きっと誤解です。彼女がそういう事をするなんて考えられません」
「そうです。噂が独り歩きしてるカンジだし」
俺が言うと、翔もそれに便乗する。
「そう……」
桐生先生がカップを受け皿に置くと、かちゃりと陶器の音が鳴る。
「でも、噂って真実よりも強くなることがあるから……悪い話なら特にね」
窓側を遠い目で見据える先生。反対側の校舎では、今まさに白瀬さんが面談をしているという。
「今は生徒指導の高木先生と面談してるって。朝からずっと面談ばかりよ」
担任、風紀指導、その両名との三者面談。桐生先生の話では、何度も繰り返した面談はようやく最後らしい。
「俺、もう一回白瀬さんから話聞いてみます」
立ち上がると二人ともきょとんとした顔でこちらを見ている。
――来たばっかなのに?
そんな疑問符が浮かんでいた。
だが、こうしちゃいられない。ここに白瀬さんがいない以上長居する必要は無いし、彼女から直接真実を聞くまで自分が収まらないのだ。
「先生に言うより生徒同士のが話しやすい事もあるでしょう? 俺に任せて下さいよ。それに……」
「海里?」
翔は不安そうに俺を見上げている
無理もない。翔からしたら俺と白瀬さんの接点は皆無だ。この前の校外活動の班くらいでしか関わり合いになった事が無い。
それよりかは、白瀬さんと小さな頃から馴染みの翔が聞いた方がまだマシに思える。
「大丈夫。俺は白瀬さんの事色々知ってるから」
景気づけのつもりでそんな言葉がついて出た。
桐生先生と翔はきょとんとした顔で俺を見ている。
――俺は白瀬さんの本当の姿を知っている。
放課後は戦闘狂と化してゲーセン荒らしを繰り返す隠れギャル。
そのくせ、学校じゃ優等生の文学少女。
片や、俺は帰宅部ガチ勢の空気で冴えない男子生徒だ。
盛り込み過ぎな白瀬さんとの格差に自分が嫌になる。
でも……
「俺が聞いたら、白瀬さんも何か教えてくれる。そう思うんです」
「水梨君……」
桐生先生はコーヒーを飲むことも忘れて俺を見ていた。
どこか慈しむような眼だった。
「何か分かったら桐生先生にも教えます。だから桐生先生も他の先生方にお願いします。あまり彼女を責めないように……」
「分かったわ」
その会話だけで先生は察してくれた。ありがたい。
なら、ここにこれ以上いてもしょうがない。
「後は頼みます」
そう言ってコーヒーカップをテーブルに置いた。
この部屋に洗い場は無い。桐生先生はコーヒーを飲み終える度、向こうの水飲み場で洗っているらしい。
本来ならば、自分のカップを洗って返すのが礼儀だけど、今はその時間すら惜しい。
「じゃあ、あーしも行く」
連なる様に立ち上がったのは翔だった。
一気にごくごくとブラックコーヒーを飲み干すと、勢いよくカップを受け皿に戻す。
その様子を呆気に取られて眺める俺と桐生先生。
「だってあーしだって紫莉と昔からの友達だし」
翔は俺達をいつもの勝気な顔で、声を大きくさせる。
「友達なら力になるのが当たり前じゃん?」
そう言って同意を求めるように俺達を見渡す。
これには俺も先生も頷く他なかった。
「じゃ、行くか」
「ていう事で、あーしら行くんでっ」
素っ気なく歩き始める俺。対する翔は声を子供みたいに弾ませている。
急ぎ足の足音がリノリウムの床を鳴らした。
「水梨君、栗橋さん」
廊下に出た所で、声が掛けられる。
振り返ると、桐生先生は開け放たれたドアの縁に手を添えながら、こちらを見ていた。
「白瀬さんの力になってあげてね」
先生の細められた目はどこか優しげ。
分かってる。分かってるよ先生。
「元々そのつもりでしたから」
俺はじっと見つめて言い返す。不思議と自分の声音がいつもよりも優しく聞こえた。
白瀬さんを助けたい。そんな俺を先生は全てお見通しなのだろう。それが嬉しくて本当に腹の底から、ふうと溜息が吐き出される。
誰かに心を見透かされている感覚は凄く嫌だった。
しかし、今はそれが心地よくすら思えてくる。
「良かったじゃん。いい顧問で」
「うっせ」
隣を歩く翔も同じようで、嬉しそうな顔で俺についてくる。
速足にすればするほど、翔の足音も早まるのだった。