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13 灰と青

 午前中の自由時間はあっという間に終わり、午後は海洋研究施設の見学だった。

 施設内は立ち入り禁止の建物を除いては自由に回れる。

 海水の濾過システムだとか、回遊魚の養殖する最新鋭の飼育設備とか、深海の作業ロボットとかそういう展示を見て回った。

 でも……ざっくり言って、すげーつまんねえ!!!!

 俺は文系ガチ勢で、多分理系の素質が無い。男心をくすぐるツボも若干変わっていて、ロボットよりもクリーチャーの方が見ててわくわくするタイプなのだ。

 理系全開の機械工学やら海水なんたらといった技術には興味が無い。寧ろ頭が痛くなる。

 妹はそれを努力不足だとなじるけれど、理系分野はどういう訳かいくら勉強しても点を取れない。文系は少し勉強しただけで今の順位をキープできているのに。特に世界史。

 この見学は終始、睡魔との戦いだった。

 涼介や白瀬さんは理系も文系も得意なのでふむふむと感心しながら自動音声の説明に聞き入っていた。

 しかし、俺にはそれが眠りにいざなう呪文にしか聞こえない。

 一方、ギャル二人はすげーとかやばいとか相変わらずの語彙力で感情そのまんまで楽しんでいた。

 正直羨ましい。もうお台場のガ〇ダムとかそのまま見て来ればいいのに! 

 それら見学も無事終わり、俺達は海を臨む公園へと行き着いていた。

 大人数でのBBQも出来るという広い緑地公園からは東京湾が一望できた。


「見て、海広いね。すっごい」

 疲れ知らずの翔が銀の欄干にもたれながら叫んでいた。

 東京湾の全景がパノラマ状に広がり、沿岸のビル群は蜃気楼に揺れていた。


「確かに、海だ」

 この湾を抜ければ大海は太平洋へと繋がる筈だった。

 しかし、俺はこの海を見ているとどうも胸にひっかかりを覚える。


「――でも、ここの海は灰色なんだな」

「は?」

 それがつい口から漏れてしまった。意外にも翔は俺の言葉を拾っていたようで、怪訝そうにこちらを見ている。

 いつもみたいに壊れたスピーカーみたいにうるさく騒ぐだけかと思っていたら、集音性の方も抜群らしい。


「急にどうしたの? 中二病でも患ったの?」

「違うっての」

 翔が小脇を突っつく勢いで俺をからかうが、首を振って返す。

 別に黄昏たくて言ったわけじゃないのに……

 俺は構わず口を開く。


「海ってのはなあ……もっと青いんだよ。それにどこまでも開かれていて広いんだ。海と空の境界はいつも青で繋がってる」

 そう。それが俺の心象世界にいつもある海だ。

 ビリジアンの空に、どこまでも左手に広がる海岸線。田舎にいた頃、祖父に連れられてよく見せられた景色だった。

 俺はその海岸線の美しさを今でも覚えているのだ。

 中三まで暮らした海沿いの田舎町。あそこに戻ればあの景色は今もあるだろう。

 しかし……


「どうした? なぁんか暗い顔なっちゃったけど」

 俺の心境の変化に気づいた翔が覗き込む。


「べ、別に……」

 それから逃れるように俺は顔を背けるのだが、その先には白瀬さんがいた。


「大丈夫? 水梨君」

 完全に退路を断たれた。

 俺は意を決して声を発する。


「昔を思い出してたんだ。中三の頃までいた町には海があってさ――」

 翔が俺の転校を覚えているのが救いに思えた。でなければ急に寂しくなったこの感情を抑えきれずに逃げ出していたかもしれない。


「学校帰りとか、休みの日かいつも海を見てさ。そういう生活をずっとしてた」

「そっか、水梨って転校してたもんね」

 翔はしんみりした声で海を見ていた。

 灰色の雲が入り混じった暗い空は太陽がどこにあるのか見当もつかない。


「爺ちゃんと一緒によく岸壁まで言って釣りをしたり、単に波打ち際から眺めるだけでも楽しかったな……俺の家からはとても海が近かったんだ」

「そういうのっていいね。それに比べたら今日なんて曇り空だし……ねえ」

 苦笑混じりに白瀬さんが呟く。


「それに、浮島が埋め尽くしていたり、対岸にビルが並んでいる事も無かった。ひたすら飽きる程広がる濃い青があったんだ」

 ――ただ一つ、あるとすれば。

 俺が言いかけるもこれ以上言った所で彼女達には分からない。

 俺が持っている記憶なんて他の人に話した所で与太話にしか過ぎないから。

 だから、それ以上言うのを俺はためらった。


「……?」

 白瀬さんにはそれが分かっているのだろうか。

 こちらに向けられたのはとても痛ましい物を見る目だった。


 ビリジアンの大海。涼し気な風と何故か心地よい磯臭さ。

 何も無い海にただ一つあるもの――それは、すぐ近くに浮かんでいた小島だった。

 緑に覆われたその島の入り口には赤い鳥居。

 岸から遠目に見て、本当に小さかったけど、いつもはっきりと見えていた。多分、海の神様を祀っていたんだろう。

 海の神様が住む小さな小島。

 その遥か彼方には水平線上をゆく白い船がよく見えた。

 爺ちゃんは船が島の裏手に隠れてしまう前に俺の肩を叩いてよく言っていた。

『あれが爺ちゃんの乗ってたフェリーなんだよ』って。


 しかし、飽きるくらい海へ連れていってくれた祖父はもういない。

 つい一昨年、俺が東京に戻って間もなくに病気で亡くなってしまったのだ――だから、もう何も言えない。


「いや……昔の事思い出してたんだ」

「その海のある町?」

 翔がすごく優しい口調で尋ねる。

 俺は無言のまま頷き返した。


「もう忘れてしまったような記憶でも案外覚えてるものなんだなってさ」

 これ以上記憶の中の海を語るのが急に辛くなった。

 現実に戻ってきた気分になると同時に、喉元からきゅうという空気が擦れる音が聞こえた。

 何を熱く語ってたんだろうか、俺は。

 こういう自分だけしかない思い出を彼女達に語った所で共感が得られる訳でもない。俺はそっと湧いて出た感情を抑え込もうとする。


「うーん」

 翔は大きく伸びをして深呼吸する。

 白瀬さんも心配そうな顔のまま、こちらを一瞥してすぐに海に視線を戻す。

 二人とも内心では暗い奴とか思ってるかもしれないな。

 でも、俺にはこれ以上の言葉が出てこない。

 俺に海の美しさを教えてくれた爺ちゃんはもういない。

 彼の死を境に、俺が見ている世界もどこか変わってしまった。

 それこそ紀元前と、紀元後の線引きみたいに、爺ちゃんの生前と死後で全く違う世界に生きている、そんな気がするのだ。

 かつて連れられて見に行った海辺も、青い空も温かな海風の感触も……俺にとって、あの世界そのものがもう遠い物となってしまったように思えて仕方がない。

 果たして再びあの町に行った所で、あの景色は再び見る事ができるのか。今ではそれが疑わしい。


「この海見てたら色々思い出しちゃったんだ?」

 今度は翔がミルクティーブロンドを風に揺らし問いかける。


「ずっと昔の事に思える。でも、そういう風景が俺は好きだったんだなあって」

 ただ抽象的に事実を述べる事しか俺は出来ない。

 爺ちゃんがもういなくて辛いだなんて……そんな小学生めいた事、言えるかよ。


「まあ、人間って昔を懐かしむ生き物だから……」

 独り言のように白瀬さんが言った。

 まるでそれは彼女が自分自身に言い聞かせているように聞こえて、それがとても自分と近しい思いで成り立っている言葉に思えて、俺は思わず視線を吸い寄せられる。


「だから、そういう風景はきっといい絵画になるのでしょうね」

 白瀬さんは頬を指で掻きつつ、それだけ言って俺を見る。


「私、いつか貴方の故郷の海が見たいな」

「えっ?」

 白瀬さんの思いもよらない発言に俺は思わず聞き返す。


「紫莉?」

 翔も彼女の言葉に聞き入るように首を傾げていた。


「今度、私の小説ももってくるね。水梨君の故郷の綺麗な海を舞台にしたらいいのが書けそうだし――」

 次いで囁くように俺にぐっと顔を近づける白瀬さん。


「だから、今度は君の小説も読ませてね?」

「は?」

 俺と白瀬さんの横で、翔は驚いたように声を上げていた。


「楽しみにしてるわ」

 丁度雲間から太陽が覗かせる。真新しい日の光を燦々と浴びた白瀬さんの笑顔。

 何物よりも眩しく、美しく、尊かった。


「二人して何言ってんの? 何が何だか全然分かんないんだけど!」

 代わりに声を高くしたのは翔だ。

 ついでに言うと、欄干を腕で支えながら跳ねていて目線まで高い。


「あーしにも教えろっての」

 一人話題から置き去りにされた格好で何とも面白くない様子。

 いつもは翔が率先して先を行くのに、俺と白瀬さんに完全に先手を取られている状態になっていた。多分、それがつまらないのだろう。


 俺と白瀬さんの間には文芸部、小説という共通点があった。

 互いの作品を見せ合って直接意見を交換した経験は無い。

 しかし、小説を書くという趣味そのものは俺達を理解し合える唯一の接点でもあるのだ。

 更に、俺は彼女の本性を誰にも漏らさないという脅迫めいた秘密を共有している。

 嫌で嫌でおっかない弱みの筈なのに、これもまた俺達を奇妙な関係に括りつけている何かである事には間違いなかった。


「ふふ」

 あとは何も言うな。目で語り掛けながら白瀬さんが笑う。


「ねえっ、何の話よっ!」

「ちょ……ま」

 不意に、翔が俺の肩に飛びついてきやがった。何考えてんのこの状況で。


「いい加減にしなさいよ。アンタら!」

「翔……何するのよ」

 飛びつかれているのは俺だけでなく、白瀬さんもだ。

 翔は俺達二人まとめて抱き寄せようとしてくる。


「ひ……やめろって!」

 俺はあからさまに狼狽える。

 こういう時どう反応すればいいのかマジで分からない。


「ちょっと、翔!」

 白瀬さんはそれをたしなめる。

 ブレザーに皺が付くんじゃないかってくらい身をよじらせて叫ぶ。


「そういうコミュニケーションは女子同士だけにしなさい。水梨君は慣れてないんだからっ」

「ああ、ごめんごめん」

 その声を聞いて翔がようやく俺達を解放した。

 てへぺろと舌を出してあざとく片目を瞑る翔。それが謝罪の意らしい。

 こっちとしては遺憾の意を砲撃せざるを得ない。


「びっくりした……いきなり何すんだよ」

「てか、あーしもその海みてみたいなって思っただけなんだけど」

 空を見上げてそんな事を呟く翔。


「なら、今みたいに普通に言えよ。奇襲みたいな真似はやめろっての」

 俺は言い返しながらも、先ほどまでの感触が忘れられず、不意に恥ずかしくなってくる。


「……ていうか翔。そんなに海が珍しい?」

「だってあーしの実家埼玉だよ?」

 白瀬さんが問うと、翔は自嘲気味に笑って答える。


「……海とか全然無いし」

 ああそうか。俺にとって海はあって当たり前の存在だった。

 海沿いには爺ちゃんの実家があったし、夜にもなれば潮騒が枕元に聞こえた。それが日常だと思っていたのだ。

 しかし、翔のように内陸に生まれ育った人間にはそういう暮らしは想像もつかないのだろう。

 羨むのも無理はないかも。俺だって北海道の緑の原野とか木立を無邪気に走る幼少期に憧れた時期もあるし――ドラマの影響だけど!

 あとWindo〇sの壁紙。あれは特に知る中でもトップクラスに美しい風景だと本気で思ってる。


「分かったよ。今度写真でもあれば持ってくる。それでいい?」

 俺は機嫌取りも兼ねて、渋々答えた。


「うんっ」

 瞬間、翔の顔がぱあっと明るくなり、


「今度ね。楽しみにしてるから!」

 そう言って、あの頃と変わらないあどけない笑顔で答えるのだった。


 今度――それは大抵その場を繋ぐための方便だ。

 今度食べに行こう、今度連れて行ってほしい。

 そう頼まれて頷いた所で当てはないし、俺の中ではそういうやりとりをして実現しないまま終わった経験のが多い。

 大体は、向こうも本気で言っているわけではないのだ。

 これはコミュニケーションを円滑に行う上での方便。

 今度という時は、曖昧なまま……決して来ることはない。

 だが、それでも……


「分かったよ、今度な」

 そう答えて頷いた時、俺の顔は心からの笑顔に満ちていたのだった。





 帰りの電車。

 現地解散となった俺達は、なし崩し的に同じ車両に乗っていた。

 周囲を見渡せば、一般の乗客に混じって参宮高校の制服姿の生徒達もちらほら見える。

 車両の端にある四人掛けシート。俺は窓際に腰かけて窓を眺めていた。

 夕刻が近づいた東京の街。電車は丁度、大河の上に掛けられた鉄橋を通過していた。

 窓にべったりと預けていた頭が振動で打ち付けられ、何事かと顔を上げる。

 見ると、丁度反対方向から来た電車とすれ違った所だった。

 今乗っているのと全く同じ赤い配色の車両が轟々と流れていく。

 俺は向かい側で終始喋っていた翔達を一瞥した。天沼と何か談笑しているが、電車の轟音のせいで会話の内容までは聞き取れない。


「でさー」

 程なくして対面の車両は通過し、再び翔達の会話が聞こえ始める。

 俺は視線を再び車窓へと戻した。

 対面車両がいなくなり開放感溢れたその景色には河川敷で遊ぶ米粒みたいな人の姿が見えた。

 タタン、と電車は小気味いい走行音を響かせて緩やかな減速に入る。

 俺は何気なく、胸ポケットからボールペンとメモパッドを取り出した。


「ねえ。何してんの?」

 小さな紙に俺が何か書き込むのを翔が目ざとく見つける。


「教えない」

「ばぁか」

 思わせぶりに答えるが、小説のネタなのだ。翔相手に言える訳が無い。

 海浜公園で白瀬さんと交わした会話は断片的でだった。多分、俺が小説執筆趣味のワナビだと言う事までは察していない筈だ。


「ふふふ……」

 隣を見ると、白瀬さんが笑いを必死に我慢していた。

 俺が何をしていたのか全て把握しているのだろう。


「何さ。二人して!」

 それが面白くないのか翔は子供みたいに拗ねて顔を背けた。


「翔、どうしたの?」

「しらないっ」

 天沼が不思議そうに声を掛けてもその機嫌はしばらく直らなかった。

 夕暮れ近い東京の街を、電車は走り続けた。




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