日和見令嬢と事態は踊る・2
リカルド様こと陰険メガネは、講堂の生徒たちに一枚の紙を配った。
つややかな植物紙には、
・聖女とはなにか
・フレデリック第一王子の呪いについて
・カルティアラの法律
ざっとまとめるとこの三点が、書いてある。
見たことのない書式だ。先にクドクドと時候の挨拶や、ふんだんな修飾語を使った迂遠なやりとりが当たり前の、今までの書類の作り方とはぜんぜん違う。
でも、コレ、圧倒的に分かりやすい……!
「まずは一つ目「聖女」について、基本的な説明を。
そこの赤毛の君。聖女といえば、なにを思い浮かべますか?」
「は、はい……!」
陰険メガネに指された赤毛の少年が、しゅたっと起立する。
「えーと……
聖女といえば、やっぱりおとぎ話を思い浮かべます。
リカルド様の言うことを疑っているわけではないんですけど」
「もちろん、それは分かっていますよ。
聖女についてはこの講堂、いえカルティアラ中のひとびとがこう思っているでしょう。
――このガス灯の時代に、妖精の話かい、と」
くすっと小さな笑い声が漏れた。
メガネの質問に答えた赤毛の少年だ。
「けれど、聖女が解くという呪いは実在する。
ならば聖女も実在するのではないか?
そう考え、研究を進めている方を本日はお招きしています。
カイル」
いつの間にか扉の前に立っていたカイル様が、ゆっくりと扉を開ける。
扉の向こうに居たのは、簡素なシャツとズボンを身につけた痩身の男性――エドワードさんだ。
……あああー! もう!
地団駄を踏みたい気持ちを堪えて、歯を食いしばる。
リスティア様は、エドワードさんが呼び出されることを読んでいた。もちろん従姉殿に頼んだ。頼んだのよ。
けれどもエドワードさんが、あの、その従姉殿に恋しつつ、対等に立ちたいみたいな感じのエドワードさんが、従姉殿の言うことを素直に聞いてくれるはずがない!
カイル様に促されるまま、エドワードさんは壇上に上る。
一瞬だけ目があった。でも、あっという間に逸らされる。
「初めまして、エドワード・リンディです。
私の研究は「聖女」について……」
「博士、申し訳ありません。
今回は講演ではないので、こちらの質問に博士が答えるという形をとっていただけますか?」
「……承知しました」
「ありがとうございます」
陰険メガネが満足気に笑う。対するエドワードさんの表情はよく分からない。しいて言うなら仏頂面、かなぁ……。
「エドワードさん博士は、
先日「聖女鑑定遺跡」なるものを発見されたそうですね。
こちらについて窺っても?」
「……その件は、まだ私のパトロン以外は知らないはずですが?」
「知りたがり屋はどこにもいるものです。
おとぎ話の聖女の実在を証明し、その真贋を見極めることができる。
……世紀の大発見ですよ」
「ずいぶんとお詳しいようで」
「発見者の博士ほどでは」
朗らかな笑顔と、仏頂面。
浮かべる表情は対照的なのに、二人とも相手に対するあからさまな棘がある。
沈んでいた気持ちが、ちょっぴり浮かび上がる。
もしかしてエドワードさんは、それこそ「権力を笠に着て」無理矢理ここに連れてこられた……?
いや、それでもダメだ。
彼のような学者は、ここに呼んでしまったこと自体が負けなのである。
質問……なに質問するの?
提案……べつの提案中に、新しい提案はマナー違反だ。
頭が沸騰したかのようにグラグラ揺れる。
その間にも、刺々しいやりとりは続き、ついにその質問が来た。
「聖女の故郷だという異世界には、
ニホンという国もあるのだとか?」
「その国でしたら、文献で確認できる範囲では三例ほどですね。
他は、ギリシア、イギリス……」
「エドワード博士」
笑顔ではごまかしきれない冷たい瞳が、じっとりとエドワードさんを見る。すべらかだったエドワードさんの唇が、凍り付いてしまったかのように彼は黙った。
「こちらの学園の生徒であるユーリ・ナガタニ嬢は、あなたが仰る聖女の数々の条件にあてはまります。
彼女は、聖女ですよね?」
「違います」
しんとした沈黙を破って、エドワードさんは続けた。
「リカルド様のご指摘は、正しいものではありません。
ユーリ嬢は聖女ではなく、「聖女候補」でしょう」
私は空いている方の手で、口を塞いだ。口から飛び出るはずだった叫びは、危うく手のひらの肉に吸い込まれる。
そ――それって、結局、聖女、なのではー!?
でも、学術的には違うものらしい。
先ほど冷たく睨まれたのを忘れたのか、エドワードさんはするすると語り出す。
「聖女は、常に二人以上の聖女候補から選ばれる。
なぜそうなっているかは分かりませんが、確実なことです。
世界中どこの歴史書を調べてみても、聖女が最初から一人ということはありませんでした」
「……だとしても、選ばれれば一人でしょう。
ユーリ嬢は、選ばれた聖女――」
「それは鑑定するまで、断言できません」
「詭弁だ」
「事実です。
私の発見した遺跡は、こういう意見の食い違いを無くす為に、作られたものだと私は考えています」
いままで仏頂面だったエドワードさんの頬に、微笑みが浮かぶ。
対するメガネからは笑顔が消え、仏頂面となった。
これは、もしかして、もしかすると。
首の皮一枚――
講堂の扉が開く。
扉の向こうからは、二人の少女が姿を見せた。
金の影と銀の影。
堂々と背を伸ばしたシスティナ様と、困り果てたリスティア様だ。
「あら?
みなさま、どうしてこんなに早く集まっていらっしゃるのかしら。
まるで……もう評議会が始まっているみたいですわね」
しんと講堂内は静まりかえる。
誰も彼もが、後ろめたさや罪悪感で目を逸らす中、アラン様はもちろん立ち上がった。
ガンッと長いすを蹴りあげんばかりの勢いで立ち上がるアラン様に、リカルド様が腰を浮かす。
「アラ――」
「もうまだるっこしいことはナシだ。
聖女ユーリへの数々の不敬罪、およびに第一王子フレデリックに対する殺人未遂罪!
アンタらは、そこの女になんていう罰を与える?」
飢えた獣のように、ギラギラ輝く金の目が講堂を見回す。
うん。
――ここだ!
ナターシャ様を振り返る。ここしかないと固く頷いてみせると、ナターシャ様は真横に首を振った。
……へ?
私がポカンと口を開けた時、後ろでシスティナ様の冷静な声が響いた。
「なにか誤解があるようですわね。
わたくしは、この評議会に参加するために来たのではありません」
それはシスティナ様の立場からすると、奇妙な言葉だった。
だって、彼女は知っているはずだ。アラン様や陰険メガネが知らせるとことはなかっただろうが、知らせた人間っていうか私が居るわけで。
「――ダリル公爵子息アラン様。
あなたを第三王女アグライアへの不敬罪、および傷害罪で告発します」
生徒たちの沈黙を、困惑が破る。
ざわめき始めた彼らに、アラン様の顔から熱が引いていく。
ううん。違う。なんというか……。
「――お前が、それを言うのか?」
「わたくしだから、言えるのです。
なぜなら、アグライアはわたくしだから」
無防備な首もとにナイフ突き刺すような。
そんな鋭い声音で、彼女は続けた。
「それをあなただけは知っていた。
知っていて、わたくしが貶められ、辱められるのを笑ってみていた。
いいえ、見ているどころか、あなたは扇動した。
これは王家というものへの侮辱にもあたる行為ですわ」
ちょうど私の後ろに座っていた、栗毛の髪のご令嬢の方が、ナターシャ様の肩をわし掴んだ。
えーとこの方は、たしか子爵令嬢の――そうそうリベッタ様だ。
「ナ、ナターシャ様。
あの方は、システィナ様。システィナ様ですよね?」
「いいえ~」
「じゃ、じゃあ、誰だというのです!?」
「アグライア様ですわ」
おっとりと微笑んだナターシャ様に、リベッタ様は白目を剥いて倒れた。そうだわ、思い出した。確かこの方は元赤薔薇会の会員だ。システィナ様の悪行その一「赤薔薇会を使ってのユーリ様への嫌がらせ」を、証言したうちの一人だった。
使用人を呼びながら、私はなんとなく。
なんとなーく、思い出していた。
なにをかって? 従姉殿のことである。
『ミストなら、ゆくゆくは、第三王女アグライアさまの騎士になれると思っていたのに』
思えばこの言葉、不思議だったのよね。
カルティアラには、三人の王女がいる。一人目はフレデリック王子の代わりに臨時の王太子となられた第一王女のカロリーヌ様。そんな長女をけなげに支える第二王女のシンシア様。
さすがの従姉殿も王族への直接のツテはなさそうだけど、それでもああいう時名前をあげるなら、第二王女のシンシア様だとなんとなく思っていた。
シンシア様は、誰にでも分け隔てなく接する穏やかな方だし、何より騎士が二人しか居ない。カロリーヌ様の十三人にくらべると圧倒的な少なさである。
何よりシンシア様は、フレデリック様の双子の姉なのだ。フレデリック様となにか関係のあるっぽい従姉殿が、名前をあげないワケがない。
だけど、なぜか。
そう何故か、従姉殿はアグライア様の名前をあげた。
この五年、表舞台にいっさい姿を見せていない……私と同い年の、第三王女の名を。
「知って、いたのですね……。
ナターシャ様も……だから、私を止めて……」
「アスタリア様――」
両手で顔を覆う。
すっかり静まり返った講堂を見回して、システィナ様――アグライア様は言った。
「皆、講堂から出なさい。
学園評議会は中止です。追って指示を……」
「ま――まてまてまてーい!」
袖から出てきた副理事長が、エドワードさんを弾き飛ばして教壇をばしんと叩く。
「君がアグライア王女だとぉ!?
そんな話は、いっさい聞いていない!
いいか! 副理事長の私が、いっさい、聞いていないのだ!
ゆえにそう――そんなことは……」
糾弾の声が、尻すぼみになっていく。
たるんだ顎を落とさんばかりに口を開けて、副理事長は震える指でアグライア様の銀髪の令嬢――リスティア様を指さす。
リスティア様は、困った顔のまま後ろを振り返った。
「副理事長は、こう言っておられますけど。理事長、いかがですか?」
金髪碧眼の中年男性が、リスティア様の後ろからひょっこり顔を出す。
彼をみた途端、副理事長が悲鳴をあげて後ずさった。
「り、りりりりりじ」
「国王直々の命令だからねぇ。
本当はあの方、城から姫様を出したくなかったと思うよ?」
「ひぃっ」
「それにしても、サニー。ひどいじゃないか!
俺が居ない間に学園評議会を開催するなんて」
「あ、ひ、う」
「こういうビッグイベントは、俺と一緒にやろうっていつも言ってるだろ?」
「ひぃぃぃぃぃ――!!」
副理事長の足は速かった。理事長を見据えたまま後退り、悲鳴がながーい雲のように、尾を引いて遠ざかっていく。
そんな副理事長を残念そうに見送ってから、理事長はぱんと軽く手を叩いた。
「さぁ、みんな解散解散。
もちろん、白薔薇会は残ってね」
開かれた扉の向こうには、理事長の護衛騎士の姿が見えた。
それだけじゃない。
揃いの黒い鎧を身につけた、王立騎士団の姿もあった。
理事長の手拍子に急かされて、生徒がまた一人、一人と講堂から出て行く。もちろん騎士団の面々は、微動だにしない。
「ナターシャ様。あの方々って……その」
「護衛、ですよ~。
でも、たぶんそれだけではありません」
ひそやかな視線が、白薔薇会の面々にあつまる。
アラン様はいまだにアグライア様を睨みつけているし、陰険メガネはブツブツとなにごとかを呟いており、カイル様にいたっては顔面蒼白だ。
そういえばこの三人の護衛騎士って、今どこに居るのだろう。
学園評議会ってば、本物の評議会を真似て、議員役以外の生徒と進行役の教師しか基本的に居ないのよね。
けど、こんな時に主の側に居られないなんて、なんかちょっと――。
陰険メガネが、私に向かって手を伸ばす。
え?と思う間もなく、彼のほうへ腕を引っ張られた時、講堂の扉が蹴倒された。
「ああもうミスト~!」
「これくらい、かすり傷ですから!」
「それもあるけどって……
ミスト、怪我しなかった!?」
「……アンタたちさぁ」
黒髪の少女が、赤毛の騎士を心配そうに見上げる。
もちろん赤毛の騎士はデレデレのデレデレだ。うわ~、うれしそう~。眉尻が下がりすぎて溶けてる~。
そうして最後に嫌みっぽくため息をついたのは、薄紫色の髪の少年だ。彼は素早く扉を閉めると、ぐるりと講堂を見渡した。
「僕らにムダな抵抗の意志はない。
……まあこの通り、ここに居る騎士は黒騎士たちをノしてしまえる実力者だよ。外には、アランとリカルドの護衛騎士も居る」
「ん~、シンプルに脅してきたね。
君たち、サニーよりまずい橋渡ってるよ?
ユアン、ミスト。……ユーリ?」
「……」
「わ、分かってます!
ミストにはわたしが無茶を言いました。ユアンくんは、巻き込んじゃって。だから、……責任は、全部わたしに、あります」
背筋を震わせながら、凛と言い切る。
その様子は、清廉で健気だ。その様子に目をめっちゃ引きつけられていた赤毛の騎士ことミストが、ハッとしたように口を開いた。
「いえ、実際に黒騎士と交戦したのは私です。
君は見ていたよね、ユアン?」
「そうだね。
僕はたまたま一緒に来ただけです。全部こいつがやりました」
「き、君……いや、そうだけどね……」
ふんっと鼻息を鳴らしたユアン少年が、若干二人から距離をとる。
そんな三人の様子を見守っていた理事長は、ニコッと笑顔を見せた。
……私の腕を掴んでいる陰険メガネは、三人の姿に口を開け、ついで微苦笑し、しかたないなとばかりにメガネのブリッジを押さえる。
……。
私、なんで陰険メガネの表情をこんな間近でつぶさに見ているのだろう?
そんな疑問に襲われた時、アグライア様が理事長を呼んだ。
「理事長。
……どうなさるおつもりですの?」
「そうだねぇ。
なるべく君たちの思うとおりに、好きなように。
進めばいいなって思ってるところだよ。
……王立騎士団を倒しちゃったのは、頭が痛いけどね」
明るく笑った理事長に、アグライア様が沈黙する。
でも彼女の青い瞳が、アラン様の方を見たのはすぐに分かった。
アラン様はそれに気づかず、ユーリ様の方を見ている。
「お前なぁ。
せっかく屋敷に閉じこめといたのに、どーして出てくるんだよ」
「急に軟禁されたら、誰でもびっくりするよ!
……わ、わたしのためだとか、言われても納得できないし。
システィナ様に酷いことするっていうのは、もっと納得できない……!」
「――っ。
ほんっとに、理解できない女だな、お前!
この俺が、お前の為にどんだけ骨を追ってやったと」
「そういうのは、いらない!
いらないから……
もっとちゃんと話してよ……」
くっと唇を噛みしめたユーリ様に、隣のミストがあからさまに動揺する。私の腕を掴んでいる陰険メガネも手が震えて、アラン様は……ガシガシと頭をかき回していた。
うん、めっちゃ動揺している。
そして小声でかすかに……。
「わ……」
「え? なあに、アラン?」
「わ……るかったよ。
ユーリの、話も、聞かずに……」
えええ~?
えええええ~?
あ、まずい。顔面パーツ、全部にシワが寄った。
このちょっぴりほの暗くて切ないのに甘酸っぱい空気感なに~? さっきまでのドシリアスはどこに行ったの? あ、副理事長がバッグで持って行っちゃった? そっかそっか。
同じことを思ってくれたのか。それともただの偶然か。
理事長がぽんと手を叩いた。
「ところで君たち、今の白薔薇会の現状、わかってる?
まあ、ユーリ嬢とユアンくんが、自分たちは関係ないっていうのなら、見逃してあげてもいいけど……」
「関係ないです」
「関係なくなんか、ありません!」
すっぱり言い切ったユアン様に被せるように、ユーリ様が言い切った。彼女は黒真珠のように艶やかな瞳で、アグライア様の深海のような青の瞳を見上げる。
「カロリーヌ様から、お話を聞きました。
システィナ様の……アグライア様のことも。
五年前に、アグライア様とフレデリック様に起こったこと。
その結果、フレデリック様になにがあって――アランが、今までアグライア様にしてきたことも」
「それで、あなたはなんて仰りたいのかしら」
「――ごめんなさいっ」
ユーリ様は頭を下げた。深く、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。
それでも、わたし、こうお願いします。
アランを許してあげてください。
彼は悪いけど、わたしの所為なんです。なにか罰を受けるなら――」
私は思いっきり、陰険メガネの頬をビンタした。
甲高い音が響いて、講堂中の視線がこっちに移る。完全に私のことを頭の外に放り出していたっぽいメガネの目が丸くなると同時に、するりと手が解ける。
私は走った。講堂中の視線が、自分に向いているのが分かる。顔がカーッと赤くなる。恥ずかしい。走って。痛かったかしら。一応後で謝ろうか?
アグライア様と理事長の前まで来た。さすがの二人も私の行動は計算外だったらしく、揃って目を見開いている。
そんな二人に背を向けて、聖女候補とかつての騎士と二人とはだいぶ距離の遠い生徒会役員の一人を見る。
「やめてください。
みんなの前で、決めさせないで」
「え……」
「ユーリ様。
あなたの言ってることはきっと正しいし、優しいし、真心を感じることです。
でも、それを大勢の人の――おまけに自分の味方ばかりのところで言うのって、効果的だけどズルいです。
あ、これは理事長にも言ってますから」
「うん、あはは。
……肝に銘じておく」
軽やかで真剣な声が、くるりと向きを変える。驚いたことに、理事長はユアン様が閉めた扉を開け放った。
「――場所、変えよっか。
白薔薇会と赤薔薇会はついてきて。
ほかのみんなは、とりあえず解散で!」
そう言うと、理事長はユーリ様の手を引き外に出て行ってしまった。
もちろんユーリ様が出て行けば、白薔薇会の面々もぞろぞろと後ろをついていく。
うーん、ハーメルン。
けれど、当然といえば当然なのだが、白薔薇会の面々からも、生徒たちからもチラチラと見られる。
頬にもみじを作った陰険メガネからは、じろっと睨まれた。
アグライア様も出て行く。耳元に囁かれた言葉に小さく頷けば、彼女は微笑んだ。
そうして主役たちが去っていけば、理事長の言葉もあって他の生徒たちは自然と講堂から去っていき……。
手近な長いすに腰をかけ、私は天井を仰いだ。
ついで、ぐるっと講堂を見回してみる。
うん、誰も居ない。気絶したリベッタ様も無事に医務室へ連れて行かれたようだ。リスティア様はそのまま理事長についていったし、ナターシャ様は赤薔薇会だし……。
「……あんなに、簡単なことだったのね」
ユーリ様に、言いたいことを言った。陰険メガネことリカルド様に、ビンタを食らわせた。
後悔はしていないけれど、ちょっと今後が怖い。
ユーリ様はないかもだけど、リカルド様は訴えてくるわ。学園評議会なんてまだるっこしいことはせずに、実家に直接圧力とかかけてくる。絶対。
父や母、それから弟の顔を思い浮かべてみる。
何を言われるやら。ううん、何も言われないかも。
「従姉殿、助けてくれるなぁ……」
はしたなくも、足をぶらぶらと揺らす。
そういえばエドワードさんも帰ったのかな。
だといいわ。リカルド様とけっこうやりあってたけど、なにかあったら従姉殿がまも――言うかなぁ。従姉殿に素直に助けを求めるかな、あのひと。
「……」
白薔薇会と一緒に行った、ナターシャ様も。
そのまま理事長について行った、リスティア様も。
システィナ様。
ううん――、アグライア様が。
『……ありがとう。わたくしはもう大丈夫』
耳元で囁かれたアグライア様の言葉が、ふっと蘇る。
もういいのだと突き放された。あるいはよくやったと労われた。
それはそうだろう。
私には、ナターシャ様のような資格も、リスティア様のような知恵もない。
両手を握りしめて、目を閉じる。
どうか、みんなが無事でありますように。
どうか、この学園が――。
どれくらいそうしていただろう。
きぃと扉が軋む音がして、振り返る。
ぽろぽろと涙を流すアグライア様が、こっちを呆然と見ている。
私もぼけっとアグライア様を見返した。
え? なんで泣いてるの? なんでここに居るの?
その困惑が伝わったのだろう。アグライア様がハンカチで涙を拭った。
「ごめんなさ――」
「猫です」
「はい?」
「あなたは、私が裏庭で飼っていた猫です。
だから……」
きょとんとしたアグライア様に言い募って、彼女の側に近寄る。
泣き濡れた顔を見て、私は従姉殿に絶対助けてもらえない決心した。
「よしよし、よーしよーし。
よくがんばりました。立派でした。えらいえらい」
ぽんぽんとアグライア様の頭を撫でる。
「え――は――?」
「えらーい。猫、すごいえらーい」
首を傾げるアグライア様。ぷるぷると手を震わす私。
王女を猫扱い。誰かに知られれば、不敬罪で牢屋いりだね。首が飛ばないといいね。
でも仕方がなかった。
こうでもしないと一介の男爵令嬢は、王女に声なんてかけられない。
伯爵令嬢と男爵令嬢の時だってそうだったのに、
王女と男爵令嬢になってしまえば……
地下から、雲の上を見上げるようなものだ。
「……ふふっ」
ぽろっと涙とともに、ちいさな笑みがこぼれる。
「本当に、好きだったのです」
「うん」
「本当の本当に、婚約者だったのですよ」
「……うん」
「幼なじみで。ずっと一緒に居て。
五年前のあの日まで……」
五年前。また出てきた。
フレデリック様の呪いは、本当にいろんな人々の運命をねじ曲げたらしい。すんっとアグライア様が鼻をすすった。また彼女の瞳から涙がこぼれる。
私は、ユーリ様が現れる前の二人の関係をよく知らない。
不仲だとか、実は仲がいいとか。学園に入るときに婚約したとか。
そういう噂はたくさん聞いたけれどね。
「……っ……アランの、うそつき……」
でも、アグライア様は、好きだったのだ。
本当の本当に、アラン様のことが好きだったのだ。
消え入りそうな非難の声は、嗚咽の合間に消えていく。
陰険メガネだけでは足りなかったよ。
……アラン様もひっぱたいておけばよかった。