日和見令嬢と恋に落ちた騎士
恋というのは人を愚かにする。
だけど落ちる前に、立て札なんて立ってないから、愚かになりたくなければ積極的に落ちなさい。
という一見して矛盾した言葉は、カルティアラの悪女と名高い我が従姉殿とありがたきお言葉だ。
多分、何度も恋に落ちることで、自分の恋するとだめになる部分とか、逆に強みを自覚して、もっと綺麗に美しくなれってことなのだろう。
そして、楽しい恋をする。
おそらく、従姉殿が言いたいことはそういうこと。
一年に何回も恋をしている従姉殿は、いつ会ってもきらきらしている。大悪女だけど。
だけど、ねえ。従姉殿。私、恋の墓穴の前には立て札を立てておくべきだと思う。
ほんとうに、立てておくべきだったと思うんだよ。
彼女にご飯をあげてて、相変わらず怪我の手当をいやがる彼女へ包帯と軟膏を押しつけて。
私は午後の授業に出る為に、裏庭から校舎へと走っていた。
小走りとはいえ、走っているところを教師や白薔薇の会相手に見られたらうるさいだろう。
しかし、授業に間に合わない方がもっと面倒だ。
今の学校は、ぴりぴりしている。余計な問題は起こしたくないのだ。
けれど、何事にも例外という物がある。
例えば、私の前に立ちふさがる赤毛の優男とか。
ちなみにこの優男、私の護衛騎士である。
爵位持ちの貴族が多く通うリアトワール上級学園は、護衛の為に一人ずつ騎士をつけることが許されているのだ。
寮の関係で、基本的に同性もあるが、異性の騎士というのもありうる。
……この目の前の男のように。
「……ミスト、お久しぶりですわね」
にこと笑った私に、ミストは頷いた。
本来、男爵令嬢でしかない私には、騎士はつかない。
リアトワール上級学校は高い防犯設備を持つことでも有名だし、実際、同じ男爵令嬢であるリスティア様に騎士はいない。
だが、騎士をつけてはいけないということもないので、「アスタリアが心配だから」と従姉殿がつけてくれたのである。
……自分の信奉者を。
それがこの赤毛の優男、ミストであった。
身分こそ商人の息子だが、剣の腕が立ち、商人らしく口もうまく、また見目もよい。
身分が低いから、身分を気にする人間には歯牙にもかけられず、かといってそれに卑屈になることもなく。
ああそうだった。この前、どこかの剣の大会で優勝したなんていう話も聞いた。
従姉殿にうきうきわくわく報告していたのを覚えている。
その褒美が、私への護衛だったんだから、本人もやるせないよなあ……。そう。ミストは、私になんかにはもったいない護衛騎士である。
しかし。
「一か月ぶりかしら。私のことを忘れて実家に帰ったのかと思いましたわ」
「申し訳ない、忘れていたよ」
「……お姉さまに一言一句、そのお言葉聞かせても?」
「ああ、うん。ティターニアか、うん……」
「ミスト、敬称をつけなさい。お姉さまは子爵令嬢ですよ」
なんか返事がぽわんぽわんとしていたミストが、その一瞬何とも言えない顔をした。……というか、今、にらまれた?
ミストとの仲はいいとも悪いとも言えない。
私は優秀すぎるミストを持て余していたし、ミストはミストで、崇拝する従姉殿の願いとはいえ彼女から引き離されてしょげ返っていた。
「女神は私の愛をお試しなのか……」と夜ひっそりと嘆いていたことを知っている。
それを見た瞬間、回れ右した。
窓辺から顔を出し、木に語りかけているところなんて誰にも見られたくないだろうしね。
だけど、なんだか――その時のミストと、今のミストは違う気がする。
「あなたはこれまで、私の護衛をよく勤めてくれました。
ですが、此度の――」
「そのことなのだけれど……」
急に自分の言葉を遮られて、呆気にとられる私の目をミストはまっすぐに見た。
「アスタリア嬢、あなたの護衛を辞めさて頂きたい」
この人、何言ってるんだろう?
かすかに眉を上げた私の様子に気づかずに、ミストはとうとうと語り出した。
ティターニアから、私の護衛をするように言われて、失意のどん底に陥ったこと。けれど、思い直し私に仕えようと思ったけれど、護衛に何も言いつけることのない私に、必要とされていないと感じていたこと。
貴族を守る騎士を志して、貴族の世界に飛び込んできたけれど、実家に戻り、後を継いだ方がいいのかと悩む自分に、「ある淑女」が道を照らしてくれたこと。
「それなら、貴族ではなく民を守る騎士になればいいと彼女は仰って下さいました。
私は、その夢を追いたく……」
「あなたは、兵士になるのですか?」
思わずミストの言葉を遮ると、彼はさっきの私と同じように呆気にとられた顔になった。
いやいや、まさかミストが知らないわけないよね?
王侯貴族にその能力を認められ、側で守ることを誓うものが騎士だ。対して、民の安寧を守る役目を負っているのが兵士。
騎士は誰にでもなれるわけではないけれど、兵士は成年男子ならば誰にでもなれる。
だけど、兵士を目指すにしては、ちょっとミスト、遅くない?
確か、兵士って十三歳からなれるらしいしね。ミストは十九だ。
するとミストは露骨に渋面を作った。
「アスタリア嬢、騎士が貴族しか守らぬというのは浅い考えだよ?」
こいつ、こほん。この人、ほんとうにミストだろうか?
というか今まで見逃していたけれど、このミストは、私に対して一回も敬語を使っていない。
私は、公の場でしっかりしていてくれればいい派だけど、たいていの貴族は、爵位も持たない商人の息子に無礼な口を利かれると、いい顔はしない。
大店であるミストの実家を潰そうだなんて考える貴族は、そうそう居ないだろうけれど、
あの商家では息子に礼儀作法も教えないようだ――そういう噂はあっという間に、貴族街を駆け巡る。
一か月前のミストなら、裏庭とはいえ人通りが全くないと言えないところで、私にこういった口の利き方をすることはなかった。
彼は華やかで愛想がいいが、したたかで忍耐強い一面も持っていたから。
それなのに、たった一か月でこの変わり様。
加えて、あれだけ敬愛していた従姉殿をぞんざいに呼ぶ。
やっぱり、それしかないですよね。うん、だよねー。
「ミスト・イラール。今日この時より、あなたをわたくしの護衛騎士より解任いたします」
「ありがとうございます、アスタリア嬢」
先ほどの言葉に私がなにも反応しなかったからか、すこし不満そうにしつつ、それでもミストは優雅に礼をした。
ミストの父には、とりあえず忠告だけはしておこう。あなたの息子が取り返しのつかない失敗をやる前に、家へ呼び戻した方がいいですよ、と。
私はさっさとミストの横を通り過ぎた。
授業には、もうすっかり遅刻である。だがしかし、こんなコトで遅刻しましたなんて口が裂けても言えない。
仕方がない。先生に怒られよう。
夕方。
遅刻の罰であるアデセンナ詩集の筆写を終えて提出した私は、夕飯に出た白パンと丸い容器に入れたコンソメスープ、それからあたたかい紅茶の入った魔法瓶を手に、
彼女の場所へとやってきた。
「猫、いるー?」
「……なんですの」
彼女は木に寄りかかって、ちょっとぐったりしていた。顔色が悪い。風邪でも引いたのかな?
それとも、怪我が悪化してる?
ちらっと足首を見てみたけれど、綺麗に包帯が巻かれていることくらいしか分からない。
横に座ると、猫彼女が私の手元にある夕食の余りを見る。
くぅ。
かわいらしいお腹の音が鳴った。なるほどなるほど。
「猫、お腹減ったんだね。はい、どうぞ」
「なにを言っているんですの、わたくしはあなたが持ってきてくださるから、仕方なく……っ」
「はいはい。いただきまーす」
もろもろの包みを押しつけると、彼女はもそもそと白パンの包みを開けてぱくっとかじりつく。
いつもの優雅さはなく、本当に野生の猫みたいにぱくぱく食べている。どうやらとってもお腹が空いていたらしい。もうちょっと持ってくればよかったな。
「ねえ、猫。これは一人ごとなんだけどさ。
恋って厄介だよね」
「ふぐっ!? こほんこほん」
「ちょっ、ちょっと猫、大丈夫? 今、猫が喉を詰まらせたような気がするっ」
あわてて紅茶の魔法瓶の蓋をあけて彼女の方へ押しやると、彼女はあったかい紅茶に「ふぐっ」とまたうめき声を上げた。
ごめん、システィナ様。最近ちょっと冷えるし、温かいもののほうがいいかなって思ったんだけども……!
「ごめんねその紅茶、あったかい」
「それを先に言ってくださいな!」
「ごめんね」
もう一度謝ると、彼女は青い瞳をきゅーっと三角にしてふんっとそっぽを向いた。
「それで、恋がどうしたんですの?」
おお? あなたも恋に興味があるんですか。お互い、年頃だもんね。
「んー……いやね、知り合いがね。恋に落ちたんですよ」
「知り合い、ですか」
「うん。知り合いだったの。恋をして、ケッコウ変わっちゃったのよね」
「それは悪い方に?」
「自分から墓穴を掘ってるのかと思った」
目を薄く閉じて、ミストのことを思う。
民を守る騎士になる。その志は、まあ立派なんじゃないかな。
でも、大抵の人は私と同じ反応をすると思うよ、ミスト。
だって今まで民を守ってきたのは、兵士だもの。
従姉殿はどうするだろう?と思ったけれど、従姉殿のことだ。
たぶん、煽る。めっちゃ煽る。
『まあ、ミスト様。なんて素敵な志! あなたの夢が叶うのをわたくし、陰ながら応援していますわ』
とかなんとかいいながら。
従姉殿は誰よりも恋の輝きを知っている。そして、恋の恐ろしさも。
その恐ろしさを利用して、自分に懸想する相手をガンガン鍛え上げている従姉殿だ。従姉殿の信奉者って、いわゆる貧乏貴族や弱小貴族、はたまた平民も多いんだけど、なにか一芸に秀でているか、政治、経済、芸事、武術……どんなことでも平均的にできて当たり前ってひとが、多いんだよね。
ミストも、弁舌の巧みさや、商売の知識なんかは元々のものだけれど、
大会で優勝するようになるまで剣の腕を上げたのは、何より、従姉殿の「所為」だろう。
うん、まあなにが言いたいかというと、従姉殿はミストのことを、これまでとは違う適当さで応援するに留めるんだろうけど、周りのひとたちは――許さないだろうなあ。
おまけにあんな風に貴族を蔑ろにし、平民を持ち上げていたら……。
ああ、ミストの父上が、禿げ上がった頭の上に両手を置いて、ぶるぶるんに震えているのが見える。
「恋の前に立て札があればねぇ」
ぽつりと呟いた私に、彼女はコンソメスープを飲み終えて「あら」と肩を竦めた。
「それで引き返してしまうのなら、恋とは呼べないのではないの?」
なるほど、そうかもしれない。
つまり「恋」とは落ちるしかないものなのか。なんとおそろしきものよ。
「恋、ですか……」
小さく切なげに呟かれた言葉に、ふとある人の面影がよぎる。そういえば、あのひとも恋に落ちていたのだっけ。