おたきの悩み、お玉の悩み
九、
「ちょいとお、お玉ちゃん……」
おたきは、今日も機嫌が悪かった。原因は、分かりきっている……。
「あの、おきゃんな娘は、一体どこほっつき歩いてるんだい? ちょっと使いを頼んだらもう鉄砲玉で……。あたしゃ長い事このお店で女中頭やらせてもらってますけどねえ……、今まで、あんなにいい加減で、ずぼらで、野風俗で、はしたなくて、おちゃっぴいで……はあはあはあ……、ちょっとお玉ちゃん、水を一杯ちょうだい……」
吉屋に新しく女中奉公に上がった松江は、女のお玉でさえはっとするほどの美人で、しかも婀娜っぽく男好きのするような娘であったが、その働きぶりはいい加減を通り越してもうハチャメチャで、はたから見ていると、返ってすうっと胸のすく思いがするほどであった。
とにかく、おたきがちょっと目を離した隙にいなくなり、あわてて捜しに行ってみれば、あっちで若い手代に色目を使い、こっちで煙管をくわえてぷかりぷかりとやっている始末……。
おまけに、おたきや四郎兵衛などがちょっとでも小言や嫌みを言おうものなら、その倍か三倍くらいになって返ってくるのだ。その啖呵がまた憎いくらいに洒落が利いていて、お玉などは、いつも笑いをこらえるのに必死であった。
このあいだも、おたきが、
「繕い物がだいぶたまってきたねえ……。松江さん、あんた古着の継ぎ当てくらいは出来るんだろう? そこの葛籠の中に十四、五枚ほど突っ込んであるんだ、針と糸はその桐箪笥の上の針箱の中だよ。何も着物を一枚仕立てろってんじゃあないんだ。ちゃっちゃっと片付けてしまっておくれ」
と、雑巾を絞りながら言うと、松江は大きな欠伸を噛み殺しながら、
「そいつあ、すっぽんが塗り桶を登るようなもんだ、あたしにゃあ無理無理……」
と言って顔の前で右手をひらひら振ってみせた。
おたきは、たちまち目をつり上げ、
「すっぽんが塗り桶とは、一体どういう了見だい? あんた、あたしを馬鹿にしたら承知しないよ」
と噛み付くと、
「桃栗三年柿八年、梅は酸いとて十三年……ってね。あたしゃ、今まで女中奉公なんてした事あないし、ここに来てまだ一と月経たないんだよ、針仕事なんてそうそう出来るもんか」
と言いながら、へんと鼻を鳴らして開き直った。さらに、おたきが呆れて口をぱくぱくさせていると、
「人を使うは使われる……って言うんだ、おたきさん、あんたが先ず繕いの手本を見せておくれよ」
とうそぶいた。
おたきは、茹で蛸のように顔を真っ赤にして松江を睨んだが、当の松江が涼しい顔をして一向に態度を改める様子がないので、ここが辛抱のしどころと仕方なく針と糸を手にした。
「あたしが、まず一枚縫うから……、いいかい? あとは、あんたがやるんだよ……」
おたきが例の腫れぼったい目にぐっと力をこめてやぶ睨みに睨みながらそう言うと、松江はにっこり笑って
「耕しに、馬持ちし身の嬉しさよ」
などと言いながら楽しそうに鼻唄をうたっていたが、おたきが古着の継ぎ当てを一枚やり終えた頃には、とっくにそこから姿を消していた……。
さて、お小夜とお勢がいなくなってから、お玉には、ある一つの悩みが出来ていた。彼女がげっそりとやつれたのは、何も暑さや忙しさのためばかりではなかったのだ。
お小夜の事件があって以来、おたきは何かとお玉の身を案じてくれ、夜も一人にしておいては危険だと、同じ女中部屋で寝るようになったのだが、そのときお玉は、おたきが今まで一人で寝ていた理由を初めて知る事になる。
鼾が凄いのだ。
――まるで、鵺の鳴き声だわ……。
お玉は、そう思ってぞっとした。
彼女の父、藤次も、酒を飲んだときなどには大きな鼾をかくし、自分だって疲れたときには、静かに寝息を立てている自信はない。
しかし、おたきの鼾はけた違いであった。
いくらお玉が、くたくたになって泥のような眠りに落ちようとしていても、おたきの豪快な鼾はそれを許さなかった。天地の揺らぐような轟音がお玉の鼓膜をばりばりと鳴らし、耳を塞いでも指の間を通り抜けて頭の芯をぐらぐらと揺さぶるのだ。やがて、眠気と快音にさいなまれたまま意識が朦朧となり、ようやっと気を失うように眠りについたと思ったらもう朝なのである。そうしてまた、お玉にとって目の回るような忙しい一日が始まるのであった……。
さすがに、これでは体が保たないので、何遍もその辺の事をおたきに伝えようとしたが、元はと言えば自分の身を気遣ってくれての事なので、どうしても言えずにいたのだ……。
しかし、松江が来てその問題は、たちまち解決した。
彼女は、寝ぼけた振りをしておたきの頭をしたたか三度も蹴ったのである。四度目のときには、ついにおたきもかんかんになって怒り、
「こんな寝相の悪い女とは、金輪際、一緒になんかあ寝てやるもんかっ!」
と、夜具を担いで元寝ていた納戸へ戻っていったのである。
以来、お玉は、涙が出るほど渇望していた安らかな眠りを堪能することが出来るようになった……。
しかし、そんな事があってから数日経ったある夜のこと、お玉は、いつのまにか松江が寝床からいなくなっている事に気付き、慌てて飛び起きた。
――大変! 彼女もあの離れ家に連れて行かれたのかしら?
そう思い、急いで蚊帳を抜け出そうとした刹那、障子戸の向こう側から何やら話し声のする事に気付き、お玉は、あわてて息を殺し聞き耳を立てた……。
「じゃあ、結局その娘も死んじまったんだね?」
「へい……、そりゃあもう、酷い有様でした……」
声の主は、松江と……もう一人、誰か男のようである。
――逢い引きしているのかしら?
お玉は、最初なにか艶めいたものを予感して頬を紅潮させたが、やがて話の内容が、あの離れ家で行われている陰惨な儀式のことについてだと気付き、次第にその表情を険しくしていった……。
「その坊主どもは、そこで一体何をやっていたんだろうねえ? それと、その喋る髑髏ってやつかい……? このあたしが、ぜひ、奇術の種明かしをしてやりたいところだけどさあ……」
「とにかく全ての謎は、三番倉の中を覗いて見る事で解けると、あっしは睨んでるんですが……」
「あの”ほうもつぐら”とかいうやつかい? そうだねえ……、今夜はひとつ、あの中を探ってみようか……」
そのとき障子戸がからりと開き、お玉の猫のように丸い瞳が、松江の驚く顔をしっかりと捉えた。
「――松江さん、あなたは一体…………?」
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
”桃栗三年柿八年”ということわざには別バージョンが多く存在します。首振り三年ころ八年(尺八バージョン)、ぽつぽつ三年波八年(絵描きバージョン)、櫓三年に棹八年(船頭バージョン)、唯識三年、倶舎八年(坊さんバージョン)。ちなみに、ジョージ秋山のコミック『浮浪雲』では”もも膝三年尻八年”となっていました。