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真言立川流

七、


「真言立川流だあ!?」

 伊助は、口まで持っていきかけた湯呑みを止め、くちゃくちゃと咀嚼(そしゃく)していた蕎麦(そば)をそのままごくりと飲み下した。

「その、平次ってえ野郎がそう言ったのかい?」

「そうなんですよ。いやあ、強情なやつでした……。あっしが、あの手この手で何とか話を引き出そうとしたんですがね、やっとそれだけを喋ったと思ったら、あとはもう石地蔵みてえにダンマリを決め込みやがって……」

 岡っ引きの親分、紙屋の佐吉は、腕組みしたまま四角い顔に泣きべそをかいたような笑みを浮かべて、へっへっと自嘲気味に笑った……。


 うわーんという蝉時雨(せみしぐれ)が夏空をおおい尽くし、それを耳にする者の五体から力を奪い去る……。

 思わず目眩(めまい)のしそうな陽気に、冷たい蕎麦(そば)を食べたくなるのは人情というものであろう、洲崎弁天前にある伊勢屋伊兵衛店では、暖簾(のれん)を掛けた直後から仕事の合間に盛り切りの蕎麦をたぐろうという江戸っ子であふれかえっていた。


 江戸前の蕎麦は、喉ごしをたのしむ。

 うどん粉や山芋などをつなぎに使って練った蕎麦切りを、かつお節のダシと銚子の濃口醤油で味付けしたツユにちょんと付け、あとはほとんど噛まずに丸飲みするのだ。このとき喉を通るツルっとした食感が、粋を自負する江戸っ子たちにはたまらないそうである。

 (つう)ともなると、先に燗酒をたのんでおいて、わざわざ一杯呑んで(ぬく)まってから、満を持して冷たい蕎麦をたぐるのだそうだ。だから大抵の大きな蕎麦屋には、酒を呑むための座敷が用意されている。

 暑気払いに、一杯ひっかけながら蕎麦でも食おうじゃないかという伊助に連れられ、伊勢屋の奥にある貸座敷に陣取った佐吉と藤次であっが、陽気のせいですっかり酔いがまわり、頭が冴えているのは下戸の伊助一人であった……。


「とにかくですね、まな板みてえな顔……へっへ、あっしも他人(ひと)の事は言えませんが、その平べったい顔を強ばらせてようやっと喋ったのが、吉屋喜兵衛は真言立川流ってえのにご執心で、えれえ散財してるらしいって事だけなんですよ……」

「なるほどねえ……。しかし真言立川流とは……そいつあまた、何とも厄介な事だな……」

 ここで、ようやく伊助は、口の手前で止めていた茶をゆっくりとすすった。そして、陽気のせいか熱い茶をすすったせいか、こめかみにつうっと汗を一条垂らすと眉間に深いしわを寄せ、そして何やら遠くを見つめるような眼ざしに徐々に力を込めていった……。


「――真言立川流ねえ…………」

「あの……、大家さん?」

 藤次が心配そうに声をかけながら、蒸籠(せいろう)の上に冷たくとぐろを巻く蕎麦をたぐり、つるっと喉に流し込んだ。

「一体ぇ、どうしなすったんです? ねえ……、大家さんてば」

 伊助の顔を覗き込みながらえへんと咳払いをする。

「うん?…………ああ」

 有余涅槃(うよねはん)のごとき面持ちから、はっと我に返った伊助は、静かに湯呑みを置くと二人の顔をかわるがわる見ながら例の三白眼にぐっと力を込めて、こう切り出した。

「……なあ藤次、お前ぃさん、真言立川流てえのを聞いた事があるかい?」

「さあ…………、あっしは、初めて聞きやすが」 

「……親分は、どうだね?」

「そ、そうですね……、やっぱり、真言なんていうからにあ、宗旨の一つじゃあねえかと思うんですが……違いやすかい?」

 伊助は、肩をすくめ、ためていた息をゆっくり吐き出しながら首を左右に振った。

「ああ、思った通りだ……。お前ぃさん達は、やはり知らないんだね…………」

 そう言って伊助は、手元の湯呑みに視線を落としながら、彼が知る真言立川流の恐るべき実態について語り始めた……。


 真言立川流は、仁寛阿闍梨(にんかんあじゃり)を開祖とする、中世に興った真言密教の一派であるが、その教義は、理趣経という教典を根拠とし、即身成仏の境地を男女の性的交わりの中に認めるというはなはだ奇っ怪なものであった。

 密教を守護する女夜叉、荼枳尼天(だきにてん)に帰依し、祈祷のさいには護摩壇に人間の髑髏(どくろ)で造った本尊を祀る。この髑髏本尊は、貴人のものや奇形したものを使うのが良いとされ、それを得るために墓をあばく事さえあったという……。

 髑髏本尊を造るには、男女の性的分泌液を混ぜ合わせた和合水なるものを何度も重ね塗った上から金箔を貼り、最後にあご、舌、唇、歯などを肉付けして完成する。

 真言立川流は、後醍醐天皇が帰依したことにより一時隆盛を見たが、後に邪宗門であるとして高野山による厳しい弾圧を受け、今では完全に姿を消したとされていた……。


「だ、男女の和合水ですかい……?」

「ああ、そうだ……。男の精液すなわち白滞(びゃくたい)と女の経血すなわち赤滞(しゃくたい)を混ぜ合わせた赤白二滞(しゃくびゃくにたい)を、しゃれこうべに百二十ぺん塗るそうだ……」

「ひゃ、百二十ぺん? そりゃあまたご苦労な……」

 佐吉親分は、固唾を呑む代わりに湯呑みの酒をくいっと一気にあおった。


 伊助は、おろしワサビを箸でつまんでツユに入れ、よく溶きながら話を続けた……。

「……そうして今度はその和合水でもってだな、髑髏のひたいに曼荼羅を描きながら、金箔銀箔を何度も貼り重ねて煌びやかな美顔に仕上げるんだそうだ……」

「へえ……、そいつあ豪勢なもんですね」

 気のない相槌を打ちながら藤次が、蕎麦の先にツユをちょんと付け、ツルっと飲み込んだ。

「おいおい、豪勢とかそういう話じゃないだろ……。しかしまあ、そんな物を有難がって拝むような連中だ、恐らくロクなもんじゃあるめえ。なんせ祈祷の最中には、坊さんと美女が仏前で交わるってんだから念の入った話さ……」

 そう言って、伊助は、たぐった蕎麦をツユにたっぶり浸してからずるずると吸い込み、口の中でよく咀嚼しながら熱い茶をずずっと(すす)った。

「信は荘厳より起こるって言いますけど、そんな事してバチは当たらねえのかなあ……」

 藤次がまた、蕎麦をツルっと飲み込んだ。

「さあな……。しかし、その男女の交わりによる恍惚境こそが、すなわち菩薩の境地ってんだから恐れ入り谷の……」

 ここで突然、藤次が素っ頓狂(すっとんきょう)な声をあげた。


「いけねっ! するってえと吉屋に奉公に上がってるお玉の身が危ねえじゃねえか。ちくしょう、どうして今まで気付かなかったんだ。ふざけやがって! 立川流だか横川流だか知らねえが、もし俺の大ぇ事なお玉におかしな真似をしゃあがったら……」

 そう言いながらも藤次は残った蕎麦を全て平らげ、最後に蕎麦湯で溶いたツユを一息に飲み干すと満足げにふうと息を吐いた。

「じゃあ、あっしは今から佐賀町に行って、吉屋喜兵衛の野郎をとっちめて参ぇりやす!」

「おいおい、待ちなって。お玉ちゃんの事なら大丈夫だ、俺がちゃんと手を打っておいたから……。お前ぃさんは軽はずみな真似をせず、自分の出番が来るまで大人しくしてな」

「し、しかしですね、大家さん……」

「おい藤次、伊助さんの言うとおりだぞ。どうもお前というやつあ気が短くていけねえ。吉屋だって馬鹿じゃあねえんだ、俺達がいま乗り込んでいったって体よく追い返されるのがオチだろう。ここはひとつ伊助さんに任せてだな、奴らがシッポを出すまで待とうじゃないか」


 そうまで言われては()を張ることもできず、藤次は、憮然としたままどっかりと座り直した。

「…………ところで大家さん。――さっきから言おう言おうと思ってたんですがね……」

「何だ?」

 藤次は、自分の猪口に酒を注ぎながら拗ねたような目で伊助を見返した。

「大家さんは、蕎麦の食い方が全然なっちゃいねえ……。紺屋じゃあるめえし、蕎麦をどっぷりツユに浸して……、そもそも、江戸前の蕎麦ってえのはですね……」

 そこまで言いかけた藤次を、伊助の笑い声がさえぎった。

「はっはっは! 分かった分かった。よしよし、まあ聞きなさい……。うちの長屋に弥太ってえ駕籠かきの親爺がいたろう?」

「へっ? ……ああ、あの先年傷寒(そうかん)でおっ死んだ因業おやじですかい? (つう)だとか何だとかぬかしゃーがって、蕎麦の食い方にいちいち講釈をたれる。実ぁ、あっしも蕎麦の食い方は、あの因業親爺に教わったもんで……」

「あの弥太がくたばるときにな、やつの女房が”死ぬ前に何か食べたいものはあるか?”と訊いたところ、あいつあ何て答えたと思う?」

「さあ……?」

「死ぬ前に一度でいい……、俺あ、たっぷりツユを付けた蕎麦が食ってみたかった――――とさ」




 次回へ……。


[閉伊琢司からのコメント]

 理趣経は、れっきとした密教の重要教典で、真言立川流もまた正統に密教を学んだ仁寛によって伝えられた修法です。そこに髑髏本尊のような奇怪な呪法を取り込んだのは、じつは妖しげな民間呪術で生計を立てる外法坊主や拝み屋、巷陰陽師、巫覡といった連中です。彼らは、真言立川流に稲荷信仰や荼枳尼天法といった民間信仰を巧みに取り込み、人々の関心を集めることに腐心したのです。

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