惣領の甚六
五、
あーさりぃー むき身よぉーい………… あーさりぃー 蛤よぉーい…………
洲崎十万坪の彼方より朝曇りの空が白々と明けはじめ、アサリを売る棒手振のしぼり出すような塩っ辛い声が家々を練り歩くころ、小名木川にかかる万年橋の下に心中した若い男女の死体が浮いた……。
「お小夜ちゃん!」
役人の検分が終わり、辻番所から吉屋に運び込まれた娘の亡骸を覆う筵がめくられた瞬間、お勢は、卒倒したまま気を失ってしまった。
おたがいの手首を赤いひもで結んだまま一緒に浮かんでいた若い男は、日本橋葺屋町の茶屋が抱える藤伊という陰間であった。着流しの上に羽織のすそを帯にはさみ込んだ定町回りの同心が、吉屋の厨にまで乗り込んできて、二人の関係をおたきにしつっこく訊ねたが、もとより彼女のあずかり知らぬ事であったので一向に要領を得なかった。
結局、二人の死は、将来を悲観しての心中という事で片付けられ、臨川寺から住職がやって来て形ばかりの経を上げると、お小夜の亡骸は、吉屋喜兵衛が包んだ香料と一緒に生家のある日暮里の宮城村まで運ばれて行った。
そして、翌日から、お玉は目の回るような忙しさに追われることとなった……。
吉屋には、あるじの喜兵衛とその家族の他に住み込みの奉公人が二十人近く働いていたが、それら全員分の炊事や洗濯、さらには屋敷内の掃除から諸々の雑用までを、お玉は、おたきと二人だけでこなさなくてはならなかった。お勢は、お小夜の死があって以来、食事も喉を通らず半病人のようになって毎日念仏ばかり唱えていたが、とうとう、あるじに暇を出されて羽田村の実家に引っ込んでしまった。
番頭の四郎兵衛が、方々の口入れ屋に頼んでまわったそうだが、さすがにこう立て続けに奉公人が死んだとあっては、いくら給金をはずむと言っても働きにやってくる物好きなどそうそう見つかるはずもなかった。
「お玉ちゃん、あんた顔色悪いよ……。少し休みなよ、あとは、私がやっておくからさ」
華奢なお玉の体を気遣っておたきがそう声を掛けてくれるのだが、現実的な見地に立ってみて、その言葉に甘える事など、どだい無理というものであった。いかに、おたきが大塩平八郎なみの根性を持った剛の者であったとしても、たった一人で、この盆と正月が一緒に来たような忙しさをこなせるわけがない。
お玉は、毎日、独楽鼠のように立ち働きながら、次第に、あの戦慄すべき一夜の出来事を忘れていった……。
あの夜……、平次は、怯えるお玉に向かって、
「いいかい、お玉ちゃん、ようく聞いておくれ……。今夜見た事は、一切他言してはいけない。見なかった事にするんだ。君が関わり合ってはいけない事なんだ。絶対に、たとえ親にも言わないでほしい。いいね……」
と何度も念を押した。これは、もとより彼に何か考えがあっての事だろうと考えたお玉は、軽い接吻と引きかえに、彼の言う通りにする事を硬く約束したのであった。
だから、お玉は、あの妖しい月明かりの夜に離れ家から聞こえてきた読経や男女の喘ぎ声のこと、さらには、その中からぞろぞろと出てきて三番倉に消えていった不審な僧侶達のことを、役人には黙っていたし、ましてや、主人の吉屋喜兵衛や番頭の四郎兵衛にも話してはいない。
しかし、日が経つにつれ、やはりおたきにだけは教えておいた方が良いだろうと思うようになり、ずっとその機会をうかがっていたのだが、日々の仕事に忙殺される中、いまだにその話を出来ずにいたのである……。
潮来ぉー 出島の 真菰のぉ中にぃ あやめ 咲くぅー とぉーわぁ しおらぁーしぃやぁ…………
海辺大工町から、小名木川を下って大川に乗り入れた流しの小船が、水棹の音を軋ませながら吉屋のある佐賀町に面した河岸をゆっくりと通り過ぎた。朱夏の薫風に乗って、枯れたような船頭唄が水面を這って流れる。
「ちょいと、船頭さん。あんた、いいノドしてるじゃあないか」
青菜と酒樽を積んだ平ら舟の上で荷に寄り掛かかって、松江太夫は、艫に立つ船頭の人なつっこい顔を斜に見上げた。全身飴色に陽焼けした老船頭は、歯のまばらな大口をつり上げて、さも嬉しそうに笑った。
「へっへっ、止せやい、年ょーりをからかうもんじゃねえ……。俺ぁ、これでも遁世だぜ……。それより、お前さんの方こそ見立て番付に載せたくなるようないい女じゃねえか……、色の白いは七難隠すってえが……、俺も、くたばる前に一度でいいから、お前さんのようないい女に惚れられてみてえもんだ……」
「ふん……。あんたが、あと三十若けりゃ考えてやるさ……。でも、気を付けな。美女は命を絶つ斧って言うよ」
「へっ、自分で言ってりゃあ世話ねえや」
松江太夫は、形の良い両眉に軽く垂らした切り前髪を揺らしながら、ふんとそっぽを向いた。その拍子に、吉屋の屋号が入った大きな倉が彼女の視界に飛び込んでくる。彼女は、小首を傾げながらもう一度、船頭を見上げた。
「ねえ……、あそこに見える、吉屋って油問屋の倉だけどさあ……。屋根んところが何やらきらきら光っているけど、ありゃあ一体どういう趣向だい?」
「……ああ、あれか。俺もよくは知らねえが、吉屋のあるじってえのは、きっと通人なんだろう。金に飽かせてあんな事しゃーがってよ……。先代の佐右衛門さんは、手堅い商いをする真面目な人だったがなあ……」
「へえ……、じゃあ当代は、ぼんくらって事かい?」
船頭は、腰にぶら下げていた手拭いを掴んで顔の汗を拭いながら、歯ぐきを剥いてへらへらと笑った。
「へっへっへ……、ようするに、惣領の甚六って奴よ。バカじゃあねぇけども、まあ……お人好しの世間知らずてえところだな」
「――世間知らずねえ…………」
淙々と流れる大川の水面には如意宝珠のように銀光が揺らぎ、松江太夫は、まぶしそうに長いまつ毛を伏せながら、はあと軽くため息をついた。そんな様子を見ていた船頭が、ふと思いついたように、口から泡を飛ばしながら話をつないだ。
「そうそう! ありゃあ八年くれえ前の事だったかなあ……。牛込の宝泉寺境内から八百両もの大金が入ぇった壺が掘り出されてよう、世間じゃ大騒ぎしたもんだ……。その後は、古い寺社地あとを掘り返す連中があとを絶たなくってなあ……。吉屋にも胡散臭せえ山師が大勢出入りするようになって、彼らの言うがままに、大枚はたいて方々の土地を掘り返したらしいが……出たのはため息ばかり……ってな」
「埋蔵金を探して、逆に金を損してりゃあ世話ないねえ……」
船の舳先にトンボがとまり不思議そうな顔でしきりに首を捻っていたが、その頭上を燕の黒い影がついっと掠めると、慌てて夏空へ飛び立った……。
「一時は、もの凄えお宝を掘り当てたってえ噂にもなったがよ……、ありゃあ、きっと負け惜しみに吉屋が流した作り話だろうぜ。へっへっへ……」
船頭は、ひとしきり笑うと満足したように鼻をすすり、そして、再び枯れた声を絞り出しはじめた。
隠しぃ社すれー 早乙女もー 水がぁ 濁らぁざぁー おかしぃかろぉ…………
河岸の土手から、稚児を背負って子守をする少女が、二人の乗る船に向かって大きく手を振るのが見えた。松江太夫は、その背中の稚児をあやすように――見えるはずもないが――戯けた仕草で百面相をして笑った。途端に、どこからともなく洟っ垂れのガキどもが集まってきて、船に狙いをさだめ、歓声を上げながら一斉に草矢を放った……。
「永代橋を過ぎたところで、この積み荷をすっかり下ろしちまうが、お前さん、どうする……?」
「あたしも、そこで降りるよ……。世話になったね」
松江太夫は、つまらなさそうに紺碧を游ぐ鰯雲を見上げていたが、やがて、切なくため息をつきながら、ぷうっと小さく放屁した……。
梅雨もすっかり明け、三日前には初蜩を聞いた。半夏生を過ぎ、季節は、そろそろ七夕にさしかかろうとしている……。
「あたしは、松江ってんだ。ひとつ、よろしく……」
お玉がそろそろ体力の限界を感じはじめたころ、その不思議な娘は、新しい奉公人として吉屋にやって来た。猛暑がちりちりと項を炙る、気怠い昼下がりのことであった……。
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
江戸時代の美顔パックは、米のとぎ汁の沈殿物だそうです。娘たちはみな色白美人になりたいと必死に頑張っていたのでしょう。江戸の街には評判娘というのがいて浮世絵の題材にもなったりしています。有名どころでは、鍵屋のお仙、高島屋のおひさ、蔦屋およし、堺屋おそで、笠森お仙、難波屋おきた、などがいましたが、鈴木春信の絵などで見るかぎり現代美人のイメージとは程遠いようです。