戦慄すべき夜
四、
深川の町並みを吹き抜ける風は、砂埃と溝の臭いが入り混じっていて、まともに吸い込むと気が滅入ってしまう。
堀割の水面にゆらゆらと揺れる月の上を、酔客を乗せた猪牙舟がゆっくりと通り過ぎていった…………。
――深川は、水の街だ。
この地は、大川の河口付近にあるため、上方から下ってくる大型の廻船も出入りできたし、小名木川、竪川をはじめとする大小多数の舟入堀が縦横無尽に張りめぐらされ、物資の輸送には何かと便利な場所であった。
そのため、河岸に面した土地には、立派な倉庫が所狭しと建ちならび、町人街の表通りには、米、雑穀、油、干鰯などを扱う問屋がずらりと軒をつらねていた。
吉屋は、元禄の頃より代々佐賀町にあって下り物の水油(菜種油)を扱う老舗の仲買問屋で、十年前の天保の改革で株仲間が解散になった後も、問屋仲間のあいだではちょっとした顔であった。
――何の音かしら…………?
お玉は、夜具に横たわってからもう一刻ほども寝付けないまま、干潟に取り残された魚のように何度も寝返りをうっていたが、ようやくうとうとと眠気を催してきた頃合いになってその奇妙な音に気付き、再び目が冴えて眠れなくなってしまった。
どうやら、その音は、この部屋から少し離れた場所から聞こえてくるようであった……。
もみの木のこずえを揺らす風の音に邪魔されてはっきりとは聞き取れないが、それは、耳元で蚊が飛び回るような妙に抑揚のある甲高くか細い音であった……。
――猫が盛りの付く季節は、もうとっくに過ぎたのだけれど……。
お玉は、取りあえず何か動物の鳴き声だという事で結論づけようとした。しかし、彼女が寝付けない理由がもう一つあった。
この部屋では、お玉をふくめ、お小夜、お勢の三人が寝ていたのだが――おたきだけ別の場所で寝ている――、お勢が安らかな寝息を立て始めたころ、お小夜が微かな衣擦れの音をさせながらそっと床を抜け出し部屋を出ていったのである。最初、お玉は、お小夜が厠へでも行ったものと思っていたが、しかし、あれからかなりの刻が経つというのに、彼女は一向に戻ってくる気配を見せなかった……。
――お小夜ちゃん、どうしちゃったのかしら…………?
お玉は、思い切って外に出てみることにした。
十分に寝入っているお勢を起こさないように気を付けながら、そろそろと蚊帳を這い出すと、厨まで行って汲み置きの桶から水を柄杓ですくって一口飲む。そして、意を決したように眼差しを強くして、足音を忍ばせながら裏庭の方へ回ってみた……。
吉屋には、裏庭の向こう側に、誰が使っているのかおたきにも分からない、土蔵造りの立派な離れ家がひっそりと佇んでいた。
母屋とは窓のない狭い廊下だけでつながっており、周囲には、まるでその存在を隠すかのようにびっしりと樹木が植えられていた。母屋と反対側は南部美濃守の下屋敷に面しており、手入れの行き届かない武家屋敷の鬱蒼とした木立から張り出した枝葉が、離れ家の柿葺き屋根に半ば覆い被さるようにして黒々とせり出していた……。
お玉は、地面から盛り上がった木の根につまずかないよう気を配りながら、暗い庭の中を、わずかな月明かりを頼りに離れ家の方へと近づいていった。
渦巻くような虫のこえが湿った闇を満たしている……。
近寄って見ると、離れ家の締め切った雨戸の隙間から煌々と明かりが漏れ出していた。例の音は、その中から聞こえてくるのだ。
――こんな夜分に、何をしているのかしら……?
昼間、おたきから、この離れ家には決して近づいてはいけない、もし見つかれば大目玉を食らうと教えられていた。だから、お玉は、そこへ近づく事に多少の罪悪感を感じていたが、しかし彼女は、何かに引き寄せられるように自分の足が勝手に動くのを止めることが出来なかった……。
淀んだ水を湛える庭池の黒い水面を破って、鯉がぱしゃりと跳ねた。お玉は、一瞬びくっと身を竦めて立ち止まったが、しかし、大きく息を吐き出すと両の拳をぎゅっと握りしめて勇気を振りしぼり、低い姿勢になって一歩、また一歩と慎重に歩みを進めていった……。
すでに、あの音は、お玉の耳にもはっきりと聞こえていた。
――これは、読経だわ…………。
漆黒の闇に朗々と、経を読む合唱が地を這うように流れてくる。お玉は、そばにあったモミの大樹に寄り掛かるようにしてしゃがみ込むと、猫のように目を丸くして離れ家の濡れ縁を凝視した……。
所謂 妙適清淨句是菩薩位 慾箭清淨句是菩薩位 觸清淨句是菩薩位 愛縛清淨句是菩薩位 一切自在主清淨句是菩薩位 見清淨句是菩薩位 適悦清淨句是菩薩位 愛清淨句是菩薩位 慢清淨句是菩薩位 莊嚴清淨句是菩薩位 意滋澤清淨句是菩薩位 光明清淨句是菩薩位 身樂清淨句是菩薩位…………
くぐもった読経の声に絡みつくように、狂おしい男女の喘ぎ声が聞こえていた……。
最初は、低く呻くように……そして、次第に高く抑揚がついて……やがて死に直面した絶叫のように甲高い声となり、しばらくすると、また最初の呻き声に戻る……。恐らくは若い男女のものと思われる喘ぎ声が、この過程を何べんも繰り返していた。お玉は、この離れ家の中でくり広げられている何らかの儀式めいたものが、戦慄すべき陰惨たるものである事を直感的に悟らずにはいられなかった。
――このまま、ここに居ては危険だわ……。そうだ、おたきさんに知らせてこよう!
彼女がそう思いついたときである。重たい雨戸がカラリと開き、中からあふれ出る灯明の豊かな光量を磨き込まれた濡れ縁が照り返した。そして、その奥にある障子戸の向こう側から、戸板に乗せられた若い男女の裸体がゆっくりと運び出されてきたのだ。その生気なく横たわる女の顔を見て、お玉は、危うく叫びそうになった。
――お小夜ちゃん!
戸板の上で仰臥し、目を見開いたまま微動だにしないその月光を浴びた美しい娘は、紛れもなく先刻までお玉の隣で寝ていたお小夜であった……。
二枚の戸板をそれぞれ四人ずつの剃髪した男達が運んでいた。みな、袈裟を着ているところを見ると僧侶に違いないのだが、男達は、仏の慈悲の代わりに近寄りがたいほどの闇をまとっていた。彼らは、ほとんど物音を立てずに二つの裸体を乗せた戸板を、漆喰で頑丈に塗り固められた三番倉へ運び入れようとしている。その倉には、先祖伝来の宝物が保管されていると、おたきが言っていた……。
「失敗の原因は、何だ……?」
「培養した組織に奇形腫が生じたところを見ると、やはりゲノムDNAの塩基配列が完全に初期化されていなかったのでしょう……」
「……さては、未受精卵の核除去に失敗したか?」
「さあ……、いずれにせよクローンES細胞株の分化暴走を抑えるためには、いま少し作業環境を整えなければ……」
「それは、仕方がない。我々は、今ある機材でやり遂げねばならんのだ……」
「…………そうですね。とりあえず、従来通り直接胚盤胞から内部細胞塊を抽出する作業も並行して進めますか?」
「そうするしかないだろうな……。まあ、とにかく、こいつらも免疫拒絶反応を起こしてしまっては廃棄するしかあるまい。また新たな被験体を探さねば……」
「そうですね。すぐ喜兵衛に手配させましょう」
僧侶達は、何やら訳の分からない会話をしながら薄明かりの灯る三番倉の中へと消えていった。
――いまだ!
お玉が、踵を返そうとした、その時である。
「ひっ……」
お玉の叫び声は、彼女の口を強引に覆った大きな厳つい手のひらに封じ込められた。強力な力で後ろから羽交い締めにされ、ぐいぐい後方に引っ張られてゆく。お玉は、恐怖に目を見開いたまま力の限り抵抗したが、圧倒的な腕力の差に制圧され、為すすべもなく裏庭の隅へと引きずられていった……。
お玉は、動揺する気持ちを抑え、下手に抵抗せず大人しくしていようと自分に言い聞かせた。やがて、彼女が暴れないと知った後ろの男は、覆っていた手を放し、そして怯える彼女の耳元に口を寄せて囁いた。
「お玉ちゃん、安心して。俺だよ……、平次だよ」
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
小名木川の名は、小名木四郎兵衛という人名に由来します。ここに掛かる万年橋の北詰には、かつて松尾芭蕉の庵がありました。彼は、ここで『草の戸も住み替わる代ぞ雛の家』と詠ってから『奥の細道』の出発地である採茶庵へと移って行きました。今は、古跡として稲荷社があり『ふる池や蛙飛こむ水の音』と『川上とこの川下や月の友』の二句を刻んだ句碑が建てられています。