女中頭のおたき
三、
「――おたきさん、ちょっといいかな……?」
せまい額にふき出す汗を袖先で拭いつつ、牛なみと言われる抜群の肺活量で、吹火筒から竈に風を送っていた女中頭のおたきが、吉屋の番頭、四郎兵衛に声をかけられたのは、玄関先の打ち水もあっという間に干上がってしまうような、晴れ渡った夏の盛りの早朝であった。
「……ああ、番頭さん。おはようございます」
「いやあ、今日も暑くなりそうだねえ」
吉屋の奉公人中もっとも古株である初老の番頭、四郎兵衛は、とがった顔の輪郭に前歯が突き出した、鼠のような風貌の男であった。常にきょろきょろと定まらない視線は、何とも肚の読めない彼のいやらしい性格を物語っており、剛胆で気骨のあるまるで侍のような気性のおたきは、この小柄で貧相な番頭が嫌いであった……。
「今日から、うちで働いてもらう事になった、お玉さんだ。すまないが、あんたこの娘の面倒を見てやってくれないかね」
四郎兵衛の横で、十七、八の可愛らしい娘がていねいにお辞儀をした。
「玉です……。どうぞ、よろしくお願いします」
どこかで風鈴が、ちりんと鳴った……。
おたきは、お玉の華奢な姿を、頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見回していたが、やがてすっくと立ち上がり鼻をずずっと啜った。両肩の筋肉は鞠のように盛り上がり、多少、がに股気味の下半身は、臼のようにでんと厨の土間に据わっている。そうして、腫れぼったい目で四郎兵衛の青っちょろい顔をはったと睨みつけた。
「へえ……。すると、この前死んだ、おみっちゃんの代わりというわけですかね……?」
四郎兵衛は、面白いほど狼狽えながら、
「ま、まあ……そういう事です…………。あなた達も人手が足りないんじゃないかと思いましてね……。では、おたきさん、後はよろしく頼みましたよ」
と掠れた声で言い残して、そそくさと奥に引っ込んでしまった。おたきは、ふんと鼻を鳴らしてその後ろ姿を一瞥したあと、やぶ睨みの腫れぼったい目でお玉の顔をまじまじと見つめながら、やがて深いため息をついた。
「お玉ちゃん……だったね。あんた、どうしてこの店に奉公するんだい? ここの良くない噂は、聞いてるんだろ?」
お玉は、一瞬びっくりしたように大きな目をぱっちりと瞠ったが、やがて、はにかんだような笑顔で、しかし、はっきりとした口調で答えた。
「私……、ここで手代をしている平次さんとは、ずうっと以前から恋仲なんです」
「え…………?」
おたきは、虎魚のような大口をあんぐりと開けて感嘆の声を漏らしたあと、本日初めての笑顔をみせた。
「へえ! あんた平次さんの……。じゃあ、彼の後を追いかけて、この店に奉公しに来たというわけかい?」
彼女は、竹を割ったような性格の平次とは、よくうまが合った。だから、浮いた話とは限りなく無縁と思われる、あの、まな板のような顔をしたウドの大木に、こんな可愛らしい恋人がいたという事実が、何だかとても嬉しかった。
「別に、平次さんを追いかけて来た訳じゃあないのですよ……、たまたま、知り合いにこの吉屋をお世話して下さった方がいて。…………それで、ああ、これからは平次さんと一つ屋根の下で一緒に働けるんだ……って」
「結局、同じ事じゃあないのさ。――――でもね、お玉ちゃん。この店で若い女中が何人も死んでるっていうのは本当の話なんだよ……。あんた、いつかは平次さんと所帯を持つつもりでいるんだろ? だったら、こんな所で死んでしまわないよう十分気を付けておくれよ」
お玉は、”所帯”という言葉に多少頬を赤らめながらも、神妙な面持ちで「はい」とうなずいた。
「いいかい、この店で何かおかしな事に出っくわしたら直ぐに私に相談しておくれよ。何も遠慮することはないからね。……あたしゃあね、いっしょに汗水たらして働いてくれる仲間に、もうこれ以上、死んじまってほしくはないんだよ……」
そこに、襷掛けした若い女中が二人、みそ汁の具にする大根の葉や、糠床から引っ張り出したばかりの漬け物が入った桶を抱えてやってきた。
「ああ……、お勢ちゃんに、お小夜ちゃん。ちょっとこっちに来ておくれよ」
おたきが手招きすると、二人は、互いの顔を見合わせ目をぱちくりさせていたが、やがてお玉の存在に気付くと、合点がいったという笑顔に白い歯を覗かせながら近づいてきた。
「この娘はね、今日から私達といっしょに働くことになったお玉ちゃんていうんだ。あんた達も仲良くしてあげておくれよ」
「玉です。よろしくお願いします」
お玉が丁寧にお辞儀をすると、お勢とお小夜は、にっこりと笑って挨拶を返した。二人とも、お玉に負けないくらいの可愛らしい娘だった……。
――――しかし、その日の晩、二人の若い女中のうちお小夜が、この店の主人、吉屋喜兵衛からこっそりと呼び出しを受けた……。
大川の方から妙に湿った風が吹いてきて、厨の格子窓にぶら下げていた風鈴が激しく鳴り続けていた…………。
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
竈ヲ俗ニ”ヘツイ”ト云又訛テ”ヘツゝイ”ト云也……と『守貞謾稿』にある通り”へっつい”とはカマドの事です。銅壷とも呼ばれますが、この上に釜を乗せて煮炊きします。「月夜に釜を抜かれる」という諺は、ひどく油断する事の例えですが、”つき”と”かま”には性的な意味合いも含まれていて、ようするに”尻がかり”の下ネタとしても捉えることができます。




