あとがきにかえて
今でも脳裏に焼き付いて放れない1枚の写真がある。
かなり古い記憶なので出所が定かではないが、確か『DAYS JAPAN』紙(1990年廃刊)に掲載されていたのではないかと思う。
(旧)ソ連邦における死体安置所の写真だ。
精肉店主さながらに血の付いたエプロンを提げた死体管理人の中年男性が、陽気にポーズを取るその後ろで、解体を待つ死体の山を乗せたステンレス製の台車がずらりと並んでいる写真だ。
当時、日本ではようやく『脳死』や『臓器移植』といった言葉がメディアで使われ始めたが、革命時からマルクス主義の弁証法的唯物論を国家の哲学としてきた(旧)ソ連邦では、死体は国家の共用物であるとして決められた集積場に集められ、ごく当たり前のように医療や学術の材料として再利用されてきたのである。
私は、この写真を見て戦慄した。そう遠くない将来、人間の臓器が商品として流通する時代がやってくるかもしれないと思ったからだ。
臓器移植先進国のアメリカでは、ドナーから臓器を摘出する事を刈り取りと呼ぶらしい。骨、靱帯、血管、膀胱、神経、角膜から心臓の弁に至るまで、取れる限りの部品を取り尽くすのである。皮膚までをもハガキ大のサンプル数十枚に加工して摘出するのだ。
はたして、その行為に人を人として扱う倫理観は、ちゃんと存在しているのだろうか?
現在、世界的規模で見ても、臓器移植希望者に対するドナーの数が絶対的に不足している。自分の順番を待っている間に死が訪れてしまうかもしれないのだ。
正規のルートで移植が出来なければどうするか? いかなる業界にも、需要さえあれば必ず闇ルートが存在する。
梁石日著の『闇の子供たち』には、タイでの幼児人身売買における問題が、目を覆いたくなるような衝撃的なストーリーとして描かれている。タイの貧しい山岳地帯から買われて来た8才の少女が、最後には心臓移植を希望する裕福な日本人少年のために自分の臓器を抜き取られてしまうという、あまりにも悲しく、そしておぞましい話なのだ。
しかし、これは作家の想像力だけで作り出した絵空事であろうか? 私は、そうは思わない。今でも、世界の片隅で、平然とビジネスの一つとして行われているであろう、あの写真から連想した悪夢が今では現実のものとなっているに違いないと私は、確信している。
臓器移植で助かる命が数多く存在するのと同時に、その影で家畜のように殺されている哀れな人たちも少なからず存在しているのではないか。
臓器移植に関しては、世界的な規模での倫理観の追求や法の整備が求められなければならないと切に思う。
さて、立花隆著の『人体再生』は、人間の耳を背中に付けたネズミの話から始まる。
これは、英BBC放送のドキュメンタリー番組に使われた映像で、放映直後、全世界に並ならぬ衝撃を与えたらしい。
もちろんこれは、人間の耳を切り取ってネズミにくっ付けたわけではないし、特撮などでもない。人間の耳の軟骨から取り出した組織を培養し、耳の形が出来上がるまで育ててからネズミの背に移植したものだ。
一般にティッシュー・エンジニアリングと呼ばれる技術である。
再生医学とは、こうした技術により欠損した生体組織を修復しようという試みから出発している。
もし、患者自身から採取した生体組織を培養して、怪我や疾病の治療に利用できたとしたら、それは素晴らしい事で、先に述べた、他人から取り出した生体を患者に移植するという乱暴な方法よりも、はるかに合理的で、しかも人道的ではないだろうか?
再生医学の研究は、世界各国が国家プロジェクトとしてしのぎを削り、すでに実用可能な一歩手前の段階まで来ている。
そう遠くない未来、ベンチャー企業の町工場で自分がオーダーした体の部品が製造され、好きなように交換できる時代が来るかもしれない。
バイオテクノロジーの恩恵だ。
いや、ちょっと待て……。
それが、本当に手放しで喜べる素晴らしい話なのか? 何も問題は存在しないのか……?
人は、その文明を進化させる過程で、『生命倫理』というものを見失ってはいないだろうか? 命を造るという行為が、けっして人が手を出してはならない神の領域に属する所業という事はないのだろうか?
また、そうした技術で不老不死になるという事は、本当に許される行為なのだろうか?
その事を考えるとき、私は、小林泰三著の『人獣細工』を思い出す。
このホラー小説の主人公は、赤ん坊のときから臓器移植手術を繰り返しながら生きながらえてきたが、その臓器は、すべて豚の体内で培養されたものである事を後から知るのだ。やがて自分の体のほとんど全ての部分が、豚で培養したものであると知り、最後には脳までをも豚の組織から造られたものと知って、主人公の女性は、ふと考えるのである。
「自分は、はたして人なのか……それとも豚なのか?」
再生医療には、無限の可能性があり、また、それを必要としている多くの患者が存在することも紛れもない事実である。
しかし、もし人類がその発展の過程で不作法に神の領域へと足を踏み入れ、未来への舵取りを誤ったならば、やがては倫理観の欠如した、人と豚の区別がつかないような大変危険な世界がやって来る可能性が大いにあると私は思う。
人は、いたずらに進歩させた科学技術によってのみ死への恐怖を回避するよりも、与えられた生命の恩恵に最大限の敬意を払い、他の生命をも尊重しつつ、限られた人生を精一杯生きるという根本的な哲学から、もう一度考え直してみるべきではないか、と私は思うのである。
『機巧乙女之手妻顛末』 あとがきにかえて 終
※この小説を書くにあたって、下記の書籍を参考とさせていただきました。
記 (以下、五十音順)
『iSP細胞 ヒトはどこまで再生できるか?』 田中幹人著 日本実業出版社
『遺伝子時代の基礎知識』 東嶋和子著 講談社
『江戸アルキ帖』 杉浦日向子著 新潮文庫
『江戸売り声百景』 宮田障司著 岩波新書
『江戸切絵図を読む』 祖田浩一著 東京堂出版
『江戸職人図聚』 三谷一馬著 中公文庫
『江戸人物科学史』 金子務著 中公新書
『江戸っ子は何を食べていたか』 大久保洋子著 青春出版社
『江戸にぞっこん』 菊地ひと美著 文化出版局
『江戸のことわざ』 丹野顯著 青春出版社
『江戸の大道芸人 大衆芸能の源流』 中尾健次著 三一書房
『江戸町奉行 支配のシステム』 佐藤友之著 三一書房
『大江戸奇術考』 泡坂妻夫著 平凡社新書
『大江戸よろず雑学帖』 歴史散歩倶楽部編 ぶんか社文庫
『季寄せ』 山本健吉編 文藝春秋
『死体の本 善悪の彼岸を超える世紀末死人学!』 宝島社
『縮刷版 江戸学辞典』 弘文堂
『真言立川流 謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』 藤巻一保著 学習研究社
『真言・梵字の基礎知識』 大法輪閣
『図説 剣技・剣術』 牧秀彦著 新紀元社
『武器と防具 日本編』 戸田藤成著 新紀元社
『復元 江戸生活図鑑』 笹間良彦著 柏書房
『密教入門』 小宮山祥広著 ナツメ社
『理趣経』 松長有慶著 中公文庫
あとがきまでお読み下さり、ありがとうございます。なにぶん浅学なものですから間違った事を書いているかもしれません。その際は、ご指摘いただければ幸いです。