地獄は壁一重
十九、
本所横川町にある時の鐘が暮れ六つをつげると、木場のあたりにたむろする野良犬どもがいっせいに遠吠えを始めた。
つけ木売りの少年が、売れ残った木片を重そうに天秤棒でかつぎながら足早に家路をたどる。
すでに屋根瓦を睨みつけるような下弦の月が空の高いところにあって、その繊細なすがたを大川にゆらゆらと游がせていた。
永代橋のたもと、吉屋のある佐賀町の周辺がにわかに騒然となった。
宵闇の朧な景観に『御用』と書かれた提灯が二、三十ほども浮かび上がると、吉屋の周りを十重二十重に取り囲みはじめたのだ。
打裂羽織に陣笠という捕物出役の町方与力が、ぶら提灯をさげた小者二人を左右に従えて吉屋の前に立つと、朱房のついた銀流しの十手を額の前にかざして声を張り上げた。
「南町奉行所である! あるじの吉屋喜兵衛はおるかあ!? 神妙に……」
彼が口上を言い終わらぬうちに、吉屋の表を立て切っていた大戸を蹴倒して奉公人たちが悲鳴を上げながら、わらわらと飛び出してきた。
「お役人さまーっ! おた、おた、お助け……お助け下さいましい!」
「な、何事じゃ!?」
自分の野袴にすがりつかんばかりに駆け寄ってくる吉屋の奉公人たちに気圧され、与力は、後じさりながら狼狽えた声で訊ねた。
「こ、これ、その方ども、如何いたしたのじゃ? 少し落ち着いて話さぬか」
「ば、ば、化け物が……倉の中に化け物が……」
「化け物だと? ふん、なにをバカな事を」
「ほ、本当でございます、化け物が人を襲って……喰っているのでございますっ!」
そう震える声でうったえかける若い手代の横では、年配の女が取り乱した様子で泣き叫んでいた。
「だ、旦那様があ……、昨夜から旦那様のすがたが見当たらないのでございますう。うう……きっとあの化け物に喰われてしまったんだわ!」
吉屋喜兵衛の妻女であろう贅沢な茶がすりの着物を着たその女は、地面に突っ伏したまま、わーっと泣き崩れてしまった。
「うぬぬ……」
明日は非番だから今夜は久しぶりに小石川に囲っている妾のところへでも行って……ぬふふふ、と表情をゆるめていた矢先、突然奉行に呼び出され、この不本意な夜討ちの指揮をとるよう仰せつかってしまったこの町方与力は、思わぬ成り行きに面食らってひたすら脂汗をにじませていた。
「おうい、お玉ぁ! お玉はどこだ!? おいっ、てめえ! お玉を見なかったか?」
藤次が、大声で叫びながら奉公人たちの間を訊ね回ったが、みな蒼白な顔を横に振るばかりでさっぱり要領を得なかった。
「……きっと、まだ中にいるんだよ」
おたきが、険しい眼差しで店の奥の暗がりを睨んだ……。
突然、倉の方から「ぎゃーっ!」という切羽詰まった悲鳴が上がった。
与力は、ぎくっと腰を引きながらあごを突き出し、目を皿のようにして開け放たれた障子戸の奥を凝視したままごくりと固唾を飲み込んだ……。
一向に動く気配を見せない与力にしびれを切らした隠密廻り同心、小池藤太郎が、佐吉親分と平次に目配せをしながら言った。
「俺たちだけで見に行こう……」
三人は、与力の返答を待たずに吉屋の正面から広い土間に上がり込み、慎重に身構えながら店の奥へと歩みを進めていった。その後に藤次、永井兵庫、早川虎之助の三人が続く……。
めらめらと闇を舐める篝火に照らされた三番倉の周辺は、人っ子一人見当たらず茫漠としていた。ただ、鼻をつくような血の臭いだけが風のない淀んだ空気に充ちているのだ……。
「倉の中に明かりが灯ってますね……」
佐吉親分が押し殺した声で言う。わずかに開いている三番倉の扉から煌々と白い明かりがもれ出していた。
「お玉……」
藤次と平次は、お互い目でうなずきあった。
「いくぜ」
「へい」
二人並んで十手をかざしながら、一歩、また一歩と三番倉へと近付いて行く……、その時。
「うわあーっ!」
突然、倉の扉が勢いよく押し開けられると、半狂乱になった黒袈裟の僧侶が転がり出てきた。彼は、腰が抜けているらしく虫のように這ったまま手足をばたつかせていたが、その怯えきった視線が藤次たちの姿を捉えると、驚きと安堵のあまり目を見開き、虚空を引っ掻きまわすように手を伸ばしながら必死に追いすがってきた。
「たっ、たっ、たっ、助けてくれ、助けて、助けて……ひいーっ!」
しかし、すぐに彼の体は、意志とは裏腹に何かに引きずられるように再び扉の内へと引き戻されていったのだ。
「助けてくれっ、助けて……くっ、喰われる、喰われる、喰われ……」
藤次たちが茫然と見守る前で、その僧侶の姿が三番倉の中へと消えていった。
刹那、
「ぐぎぎぎ……ぎっ……ぎっ、ぎゃあーっ!」
断末魔の悲鳴は、すぐに掻き消えた。吉屋の奉公人たちの言う事が正しければ、化け物に喰われたのであろう……。
「お、おい……親分」
「まあ、待ちなって……」
刀の柄に手を掛ける永井兵庫をいさめておいて、佐吉親分は、四角い顔に苦渋の表情を浮かべながら小池藤太郎の方を向き直った。
「小池様、こりゃあどうも一筋縄じゃいきそうもありやせんぜ」
「そうだな……。まずは捕り方の人数を増やし、あの倉を厳重に包囲させよう。どうやって化け物退治をするかは、それからだ……」
「……へい」
「俺あ、ひとっ走り御番所へ行ってくるよ。親分たちは、それまで倉の様子を見張っててくんな」
「あ、でも小池様…………」
佐吉親分が止める間もなく、小池藤太郎は踵を返しもと来た方へと引き返していった。
「やれやれ……」
「親分、あっしがちょっくら行って倉の中を見てきやしょう。なあに、化け物なんぞ怖がってるようじゃ、とてもじゃねえが香具師なんかつとまりやせんぜ」
そう、言い終わるか終わらぬうちに、早川虎之助が風のような疾さで倉の方へと駆けていった。さすがは軽業師というべきか、足音を全く立てていない。金縛りにあったように十手を突き出したまま動けないでいる藤次と平次を追い越して、あっと言う間に三番倉の戸口に立った……。
――へっ、化け物なんてえもんが本当にいてたまるかってんだ! どうせ、願人坊主がカッポレでも踊ってるんだろうよ。ひとを騙くらかそうったって、その手は桑名の焼はまぐりーってな。
みなが固唾を呑んで見守るなか、虎之助が半開きの扉からそっと中の様子をうかがった……。
「ひっ!」
倉の内部を一目見た瞬間、彼は、ぺたんと尻餅を突いて、そのままの格好で器用に手足をじたばた動かしながら、もの凄い速さで後退って来た。
「ひぃーっ!」
「おいおい、どうした? 一体ぇ中はどうなってんだ?」
「お、お、親分、悪いことあ言わねえ、見ない方がいいぜ。見たらきっと今晩うなされる……」
「なに馬鹿なことを言ってやがんだ」
今度は、佐吉親分が肩で風を切ってずんずん倉の入り口へと近づいていった。藤次と平次、それに永井兵庫がおっかなびっくり後に続く……。
佐吉は、扉の前でいったん立ち止まり、大きく深呼吸してから振り向いて藤次たちに目配せした。
――いくぜ。
三人が無言でうなずく……。
親分は、意を決して勢いよく樫の扉を開け放った。
「御用の筋だ! 神妙に…………」
「うわあっ!」
「こ、こりゃあ一体……」
…………そこに広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。
眩いばかりのハロゲン光に照らし出されたエポキシ樹脂の真っ白い床と、それを覆い尽くす生々しい赤や黒……それは、凝固しかかった大量の血溜まり……、強引に引きちぎられた手足……、髪の毛が生えたままの肉片……、腸を引きずった下半身……、まさに阿鼻叫喚の光景であった……。
「…………おい、藤次……ここは地獄の一丁目かい?」
「さあ……? でも、ひょっとすると地獄の方がまだましなんじゃ……」
四人は、扉の内に茫然と立ち尽くし、眼前にひろがる惨劇を、まるで非現実的なもののように見つめていた。
「俺ぁ、お役目がらたいがいの修羅場は見てきたつもりだ……。大火……押し込み……無理心中……。だが、こんなに惨え景色は初めて目にしたぜ……」
「あっしもですよ……」
三番倉の中は、空調設備がイカれたらしく、息が出来ないほど血の臭いに充ちていた。そして、そのただ中にひときわ醜悪な存在感を放って……化け物がいた!
それは、牛ほどの大きさもあろうか……。
ガマガエルのような赤褐色の皮膚には黒い雲状紋が広がり、醜い胴体から生えた八本の足が、たらふく人肉を詰め込んでぱんぱんに膨れあがった大きな腹の重量を支えていた……。
「ふしゅるううう……、喰ぅい足りねえええぞおおおお」
その浅ましい怪物の造型で唯一人間の面影を残している頭部が、妙に抑揚のある間の抜けた声で言った。その顔は、まぎれもなく蓮華阿闍梨のものであったが、その表情からは知性というものがまるで感じられず、左右に二つずつ合計四個ある複眼は、それぞれ別の方向に感情のない視線を送っていた……。
「なな、何だありゃあ? 一体、何の冗談だ……?」
「おそらく、ガマの化け物か……、土蜘蛛か……、まあ、狐狸のたぐいじゃねえ事だけは確かですね……」
「へっ……へへ……馬鹿言っちゃあいけねえや……嘘をつきじの御門跡ってね……、ありゃあ、きっと中に人が入ってんだよ」
阿闍梨の化け物は、平次たちには見向きもせず、さかんにその耳まで裂けた口からカメレオンのような長い舌を伸ばしては、何度も何度も、天井の片隅にひらひらと舞う獲物を捕らえようと試みていた。
「喰ぅいてえええ……、こいつ……、喰ぅいてえええ」
――その獲物とは、一匹の白い蝶であった……。
「おや? あれは、もしかすると松江太夫の手妻じゃねえか……?」
永井兵庫が蝶の正体に気付いて言った。
「そうだよ、あれは紙の蝶を太夫が飛ばしてるんだ、間違ぇねえ……」
「……てえことは、あの下に松江太夫たちが隠れているのか?」
「おそらくな……」
そのとき、横倒しになった大型機械の陰から、男が一人、大声をあげながら飛び出してきた。
「な、永井のだんなーっ! 佐吉親分ーっ! おた、おた、お助けーっ!」
「誰だ、あいつあ?」
「ありゃあ、鶴吉じゃねえか!」
床に散らばった死体に蹴つまずきながら必死の形相で駆け戻って来るのは、もの真似師の松川鶴吉であった。
「ひーっ、地獄に仏とはまさにこの事……」
そう言って駆け寄ってくる鶴吉の背中に、松江太夫が怒号を浴びせた。
「こ、こら、鶴吉! この、馬鹿野郎! あたしがこいつの気を逸らしているあいだに、お玉ちゃんを助けろと言っただろうが!」
「何だとう!?」
藤次が鶴吉を掴まえ、その襟首をぐいぐい締め上げた。
「やい、鶴吉! お玉がここにいるのか?」
「……い、いる、いるよ、いるからその手を放して……く、苦しい」
藤次が手を放すと、今度は平次がそれを引ったくるようにして、鶴吉の襟首に掴みかかった。
「つ、鶴吉さん! お玉ちゃんは? お玉ちゃんはどこにいるんです?」
「ぐえ……」
つぶれたヒキガエルみたいな声を出して、鶴吉が部屋の一角を指差した。そこには折り畳み式の診察台があり……、その上には、全裸のお玉が力なく横たわっていたのだ……。
「お玉っ!」
「お玉ちゃん!」
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
捕物出役の町方与力の装束には諸説あります。『江戸町奉行所事蹟問答』では、野袴に火事羽織となっていますが、三田村鳶魚の説では、着流し襷に尻端折りとなっています。ちなみに、名和弓雄著の『間違いだらけの時代劇』には、与力が火事羽織で出張ることはないと書かれていて、時代考証の難しさを痛感します。十手ひとつにしても、役目や地位で形状が異なり、また捕り物で使う縄も季節などによって色が違ったそうです。