藤次と平次
十六、
「ようするにアレかい……?」
お神楽面のひょっとこのようにおちょぼ口を突き出して、藤次が猪口の酒をずずずっと啜った。
「――世の中は三日見ぬ間の桜かな……って言うアレの事かい?」」
「違うって、何べん言やあ分かるんだ? ”みらい”から来た苦労人なんだよ、”いでん”の苦労人」
「いでん? 何だい、いでんってのは? 聞いたこともねえな、おでんや田楽なら知ってるけどよ……」
「いでんだよ、い・で・ん! 誰がおでんの話をしてるんだい、馬鹿にしゃーがってこん畜生め」
永井兵庫は、心底うんざりしたような顔で湯呑みの酒をぐいっと空けた。
その横では佐吉親分が、不器用な手つきで豆腐を食いながら、うんうんと半分うわの空で適当に相槌を打っている。さらにその向かいでは、儀右衛門が逆さに立てた酒樽の底に肘を突き、手酌でもって結構な勢いでにやけた口に杯を運んでいた……。
「だけどよ、苦労人なんて言うならアレだぜ……、俺だって六つの時分にあ、もう材木町の大野屋に奉公に上がってたしよ……、でもあそこは、翌年にあ火事ですっかり焼けちまったんだ……、その後は、ほれ、本所にある四つ目屋、あそこに拾われてなあ……、ところが、あの店の主人ときたらとんだ因業親爺でよう……」
「あんたの苦労話はいいよ! 今は、吉屋とどうケリをつけるかって話をしてるんじゃねえかっ!」
「おいおい、喧嘩するんじゃあないよ。ここは皆で協力して事を運ばないと……」
一向に話の噛み合わない藤次と兵庫を見かねて、伊助が助け船を出した。いま、深川八幡門前町にある縄暖簾に集まった顔ぶれの中で唯一シラフなのは、この骨張った老人ただ一人であった。
「とにかくだ、吉屋の屋敷内で何かとんでもねえ悪事が行われてるってえのは間違いなさそうだ。ここはひとつ、御上のご威光をもってだな……おい親分、聞いてるのかい!?」
「おっと済まねえな、どうもこの豆腐が食いづらくて……」
「何だい、お前ぃさんたちは、さっきから揃いも揃って真剣味のない!」
とうとう伊助が癇癪を起こしたので、みな苦笑しながら頭を掻いたが、それを見計らったように、早川虎之助が息せき切って店の中に駆け込んできた。
「おい、聞いてくれ! 何だか吉屋の様子がおかしいぞ。今日に限って槍を担いだ黒袈裟の坊主どもが十五、六人も離れ家の廻りをぐるーりと取り囲んでるしよ、かがり火なんか焚いて何だかえらく物々しい雰囲気なんだ。あいつら今夜あたり、また何かとんでもねえ事をやらかすんじゃあねえのか?」
虎之助は、一人だけ貧乏くじを引いて、例の火の見やぐらのてっぺんから吉屋の見張番をやらされていたのだ。
彼は、儀右衛門が口へと運ぶ澄み酒の満たされた杯を見てごくりと喉を鳴らした。それに気付いた伊助が、相好を崩しながら手元に置いてあった徳利を突き出した。
「ご苦労だったね。まあ、一杯やりな」
「こいつあ、どうも……」
虎之助がかしこまって捧げる杯に酒をそそぎながら、伊助は、目だけを佐吉親分に向けて少し暗い表情で言った。
「なあ、親分よ……、俺たち町方が徒党を組んで吉屋に乗り込むわけにもいくめえ。この際、佐久間の旦那にもういっぺん出張ってもらう事は出来ねえのかい?」
「…………そうですねえ」
佐吉親分は、口まで持っていきかけた猪口を再び置くと、肩を落としながらふっと酒臭いため息をついた。
「佐久間様は、吉屋に都合三度も乗り込んでおきながら三度ともしくじって大恥をかいていなさる。よっぽど確かな証拠でもあがらねえかぎり、二度と吉屋には近寄りもしないでしょうね……。いま、渡辺様が一生懸命骨を折ってくだすってるんですが……」
佐吉親分と気心の知れた南町の渡辺忠次郎は、じつは外廻りの同心ではない。例繰方といって、数寄屋橋門内にある御番所に詰め、事件の判例などを扱う内勤業務の役人であった。佐吉や藤次は、もともとこの忠次郎の父親である渡辺小右衛門が本所方下役だったころに使っていた岡っ引なのだが、彼が隠居し、忠次郎が添物書役としてその跡を継いでからは、佐久間和三郎という定町廻りの同心から十手を預かっていた。
しかし、佐久間は、どちらかというと事なかれ主義の役人で、”いけいけ”の佐吉たちとは今一つ馬が合わなかったのだ。
「吉屋で最初の”ほとけ”が出たのは八年前……、あれから勘定して、一体どれくれえの死人が出たと思ってやがるんだ……」
「まあ、御上の役人なんてえのは、体裁ばかり気にするもんです。ややこしい事件に首を突っ込んで恥をかくよりは、知らんぷりしてほとぼりの冷めるのを待つのが利口と考えるんでしょうね……」
「そうそう! 仏ほっとけ、神かまうなーってね」
投げやりな佐吉親分のつぶやきに、すかさず藤次がちゃちゃを入れた。伊助は、小さく肩を竦めながら右手に持った徳利の中身を自分の湯呑みへそそぎ始めた。
「どれ、景気づけだ……、今夜はひとつ、あたしも一杯いただこうかね」
そうしてその酒をちびりと舐めてから、伊助は「あれ?」と言った。
「今日は、どうも酒の減りが遅いと思ったら、松江太夫と鶴吉の姿が見えねえじゃねえか。酒にあ目のない二人が揃いも揃って、いったい何処にしっぽりとしけ込んでやがるんだあ?」
「太夫と鶴吉でしたら、日が傾く前からずうっと吉屋に潜んでおりやすが」
「ええっ、何だって!? なに考えてるんだい、あいつらは? 無鉄砲にもほどがある!」
伊助は、目を怒らせながら湯呑みの酒を一息に喉に流し込むと、勇ましく立ち上がって骨張った顎をぐいとしゃくった。
「そういう事なら、もうこんな所でぐずぐずしてる道理はねえ、すぐにでも吉屋に乗り込んでいって坊主どもを締め上げ、すべてを洗いざらい白状させてやろうじゃねえか」
「待って下せえよ、伊助さん。こちとら仮にも御上から十手を預かる身だ。いくらなんでも、そんな強引な……」
「べらぼうめえ! 御上が恐くって鼻がかめるかってんだ」
そこに突然、大柄な男がのそっと現れ、そのまな板のような顔で暖簾をかき分けながら、ぬうっと店の中にたくましい肩を差し入れてきた。その男は、すぐに佐吉親分の姿を見留めると大股に近付いてきた。
「……親分さん、探しましたよ」
「あっ、手前え! 平次じゃねえかっ、この野郎、俺の大ぇ事なお玉に……」
腕まくりして立ち上がろうとする藤次をぐいっと引き戻しておいて、佐吉親分が押し出しの良い四角い顔を平次の方に振り向けた。
「おう、お前えか……、神妙な顔して、どしたい?」
平次は、軽く会釈をしながら上目遣いに佐吉親分を見た。その精悍な顔つきは、藤次や佐吉が見知っているあのウドの大木のものではなかった……。
「ぜひとも親分たちのお力を拝借したく、こうしてまかり越しました。今から、あっしらの捕り物に協力してもらいてえ。どうぞ、すぐにお支度なすって下さい」
「何だとお?」
眉を八の字にして訝しがる佐吉であったが、その時、平次の後ろから現れた人物を見て「あっ!」と驚きの声を上げた。
「……あなたは、南町の小池様じゃあございませんか?」
町奉行所の役人には与力と同心がいる。
奉行直属の部下は与力であり、同心はさらにその配下を務める下級役人であった。しかし、俗に三廻りと呼ばれる定町廻り、臨時廻り、隠密廻りの役目には与力がなく、同心のみで構成されていた。よって、彼ら同心にとってはこの三廻りになることが最高の出世であった。中でも隠密廻りはその筆頭の地位にあり、言うなれば、町奉行所同心の頂点に立つ者であったのだ。
小池藤太郎は、南町奉行池田播磨守の下で六年間も隠密廻りを勤めている凄腕の同心である。
通常、同心が直接奉行にまみえることはないが、彼ら隠密廻り同心に限っては、奉行から直々に特命を受けて極秘に凶悪事件の捜査をしているのである。
「久しぶりだな、佐吉」
「へい、左様でございやすね、渡辺様のお父上が隠居なすって以来でしょうか……」
「ははは……、その渡辺の倅に聞いたんだが、おめえ達、近頃吉屋にべったり張り付いてるそうじゃねえか」
「……へい」
小池は、佐吉が場所を譲った酒樽の上に腰掛けると平次の方に軽い一瞥をくれた。
「じつあ、俺も吉屋には前々から目を付けていてな、そこにいる平次を送り込んで探りを入れてたんだが、吉屋のやつも大した狸でよ、なかなかシッポを出しやがらねえもんだから往生してたんだ……」
藤次は、目を剥いて金魚のように口をぱくぱくさせていたが、ようやく上ずった声を絞り出した。
「お、おい……するってえと、平次、お前え…………もしかして、俺達の同業者だったのか……?」
平次は、懐から真鍮製の房なし十手を取り出すと、手のひらにぽんぽんと当てて見せながら爽やかに笑った。
「親分たちが吉屋の中を引っかき回してくれたおかげで、ようやく悪事の証拠を掴めました。やつら、御禁制の阿片を大量に隠し持ってたんです」
小池藤太郎は、平次に向かって満足げに頷いてみせてから、佐吉親分の方に向き直り、その苦み走った顔を引き締めて目だけで笑いかけた
「ま、そういう事だ。佐久間とは話がついてる。捕り物はおめえ達の十八番だ、せいぜい気張ってもらうぜ」
驚きのあまり固まっている佐吉親分の肩を、伊助がポンと叩いた。
「良かったなあ、親分。これで正々堂々、吉屋に乗り込めるじゃねえか」
「あ……ああ、そうだな……。捨てる神あれば拾う神ありってえのはまさにこの事だ。ははは……、なあ、藤次よ?」
「へ、へい……」
未だ茫然としている藤次に向かって、平次が凛々しく言い放った。
「おやっさん、ひとつ、あっしと手柄の比べっこをしようじゃありませんか」
その言葉を聞いた途端、藤次の顔がみるみる朱に染まった。
「しゃ、しゃらくせえやい! まだ、お前えに”おやっさん”呼ばわりされる謂れはねえぞ。ようし勝負だ、もしお前えが負けたらお玉の事あ、金輪際すっぱりと諦めてもらうぜ」
そう息巻く藤次を、永井兵庫がにやけた顔でからかった。
「じゃあ、あんたが負けたときは、どうすんだ?」
藤次は、えへんと胸を張った。
「そんときゃあ、お玉を手前えにくれてやる!」
「あ、ありがとうございやす、おやっさん……」
そこに、おたきが慌てて飛び込んできた。
「ああ、本当だ、ここにいたんだ。ちょっと平次さん、あんた大変だよ! お玉ちゃんがいなくなっちゃったんだ。こんなとこで油売ってる場合じゃないんだよ」
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
縄暖簾とは、いわゆる一杯飲み屋の事です。現代の居酒屋みたいにテーブルとイスがあるわけではなく、立ち飲みか、あるいは床几や酒樽に腰掛け、煮しめや豆腐田楽といったものを肴に1杯か2杯ひっかけて帰る程度のものだったようです。文化・文政の頃で酒1合が2〜30文だったといいますから、酒2、3合と肴2、3品で100文程度だったのでしょう。ちなみに100文あれば銭湯に10回通えるし、相場にもよりますが米が1升買えました。
 




