倉の中
十、
吉屋の三番倉は、大川から引き入れた堀割に面して建てられていた。
暗い水面には鴨か鴫でも羽を休めているのであろう、時折水を跳ね上げては涼しげな羽音を聞かせてくる。堀は、橋一つくぐるとすぐに、半月を游がせた大川の暗流へとそそいだ……。
「ねえ、太夫……、まだですかい?」
「うるさいねえ……急かすんじゃ……ないよ……急ぎの文は……静かに書けってえのを……知らないのかい?」
「しかし、こう蚊が多くちゃあねえ……えいっ!」
松川鶴吉は、きれいにそり上げた自分の坊主頭を勢いよくぺしっと叩いた。そして、恐る恐る手のひらを覗き、たらふく血を吸った蚊が二匹一緒に潰れているのを見て苦笑した。
「おっと、こいつあ野暮なことをした。二人で仲良く……あれれ!? こいつら、とっくに俺の血を吸ってやがる」
鶴吉は、松江太夫と同じ見世物小屋で、動物の鳴き声や役者の声色などを真似て人気を博していた。七色の声を操る男と言われ女子供の声まで自由に出せたが、今は自分の低い地声で呪詛の言葉をもらしていた。
「ええい、畜生めい……この分だと俺ぁ、夜が明けた頃にはお岩さんみてえな顔になってるぞ……。くそっ……だから嫌だって言ったんだ、こういう仕事は性に合わないって……。こういう忍者の真似事みてえなのは、虎之助の兄ぃか永井の旦那にまかせておけば……」
「うるさいね! あんたがぶつくさ言うから、気が散って上手くいかないじゃないかっ」
松江太夫は、三番倉の鍵穴に細い錠前はずしの先端を差し込みながら悪戦苦闘していた。
彼女に叱りとばされて、鶴吉は、うへいと首をすくめた。
「おうい、太夫! 厠に行ったらこいつがいたんで、引っ括ってきたぜえ」
見ると、軽業師の早川虎之助が、番頭の四郎兵衛の首根っこを掴んでこちらに歩いてくる。背中に匕首でも突き付けられているのであろう、四郎兵衛は顔を引きつらせてぶるぶる震えていた。
「この野郎、全ての倉の鍵を持ってるらしいですぜ、三番倉の鍵も持ってました」
「そいつあでかした! この倉の錠前ときたらてんで歯が立たないんだ。あたしゃ、錠前はずしにはちょいと自信があったんだけど、てんでお手上げさ……」
そう言いながら松江太夫は、四郎兵衛のネズミ面にそっと口を寄せて甘い息でこう囁いた。
「番頭さん……、あんた、へたに騒がないほうがいいよ。こいつは、裏の世界じゃちょいと名の知れた香具師の元締めでさ、人殺しなんざあ屁とも思わない奴なんだ。あんた、ちょっとでも騒ぎ立ててみな。その途端に、ざくっと抉られて大川にどぼんだよ」
「お、お、お前は松江じゃないか! ど、どうして……? そうか、お前はただの女中じゃないんだな? い、一体、何のためにこの吉屋にいる?」
「あたし達は町奉行所の手先として動いてるんだ。あんた達のやっている事は、とうに御奉行様の知るところとなっているのさ。本来ならばあんたも獄門首になるところだけど、あたし達に協力するなら与力様に口を利いてやってもいい。どっちを選ぶかは、あんたの自由だよ。……どうだい、手を貸すかい?」
四郎兵衛は、夜目にも分かるほど血の気の引いた顔を何度も縦に振った。
「よしよし、良い子だ。そうこなくちゃあね……。それじゃあ番頭さん、まずはこの”ほうもつぐら”の鍵を開けてくんな」
「へ?」
四郎兵衛が素頓狂な声を上げた。
「だから”ほうもつぐら”の鍵だよ!」
「あ、あの……、これは”ほうもつぐら”なんかじゃありませんよ」
虎之助が匕首の刃先を四郎兵衛の首筋にぴたりと押し当てて凄んだ。
「おい手前ぇ、今更しらばっくれるんじゃねえぞ。ここが”ほうもつぐら”だって事はとっくに調べがついてるんだ」
「ほ、本当です、これは”ほうもつぐら”なんかじゃありません。これはですね……、”ぞうもつぐら”なんです……」
今度は、松江太夫たちが素頓狂な声を上げた。
「”ぞうもつぐら”だって?」
「ねえ太夫……、一体ぇどういう事なんでしょう、”ぞうもつぐら”とは?」
訝しがる虎之助の横で、鶴吉が大きくため息をついた。
「お、俺ぁ何だか帰りたくなってきたよ……」
「……とにかく、中に入ってみれば分かることさ。おい番頭、早く鍵を開けな」
うながされて四郎兵衛が三番倉の鍵穴に不思議な形をしたキーを差し込んだ。ガチャンと電子ロックの解除される音がして扉の隅に”OPEN”の文字が輝く。
「へえ! こいつあ凝った仕掛けだ。儀右衛門のダンナが見たら喜ぶだろうねえ……」
そう言いながら重たい樫の扉を押し開けて、松江太夫たち三人は、ぞろぞろと三番倉の中に踏み込んだ。
途端にセンサーが働き、常夜灯のわずかな薄明かりを受けて静まり返っていた倉の内部を、青白い照明がまるで昼間のような明るさで照らし出した……。
「な、な、な、なんだ、こりゃあ!?」
三人は、思わず息を呑んで立ち止まった。
そこには、大小さまざまな円柱状のガラスケースが所狭しと並び、その中には、培養液に浸されて…………人間のものと思われる臓器、骨、筋肉、眼球、その他ありとあらゆる体の部分が、紫色の微光に揺れる気泡に包まれながら浮かんでいたのだ。
「ぞ、ぞ、ぞ、臓物倉ーっ!」
慌ててそこから逃げ出そうとする松川鶴吉の襟首を掴んでぐいっと引き戻すと、松江太夫は、「えいっ!」っと力一杯いきんで放屁した。
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
錠前外しには、先が二股になったものの他、掛けがねを外すために直角に曲がった”問外”や、錐のように真っ直ぐな”鎖子抜”、折り畳み式の”刃曲”などがあります。使い方は、車のキーを閉じ込んでしまったときに、JAFの係員さんが外からロックを外してくれるやり方と同じです。