吉屋のうわさ
こんにちは、閉伊琢司です。『空想科学祭』2本目の連載は、”SF時代劇”というものに挑戦してみました。なお『空想科学祭』には、素敵なSF作品がそろっております。そちらの方も是非ご覧になってくださいね。
一、
「するてえと、何かい……?」
伊助は、しわだらけの顔をいっそう曇らせて、骨ばったあごをずいと突き出した。
「お前ぃさん、よりによってあの吉屋に、お玉ちゃんを奉公に出したと……?」
「へへ……。まあ、そんな事になっちまって……」
いかつい顔をゆがめて、泣き笑いの表情で藤次が後頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
格子窓からさしこむ白い夏の日ざしが、ゆっくりとただよう煙草のけむりをきらきら光らせる。
二の句も告げないと言ったふうに無言で藤次をにらみつけながら、伊助は手もとも見ずに煙管の灰をぽんと水桶の中にたたき落とした。
「そいつあ、面白ろくねえな。お前ぃだって、吉屋の噂くらい知ってるんだろ?」
ふだんは好々爺然とした伊助だが、ここ一番というときには、迫力ある三白眼が相手を射る。藤次の家族が住まうなめくじ長屋の差配というのは、たんなる彼の表の顔にすぎない。藤次は伊助と目を合わすことができずに、何度も汗をぬぐった。大柄で腕っぷしの強い藤次だが、小柄な老人の伊助に詰めよられて小さくなっているようすは、なにやら気の毒でもある。
「へい、そりゃもうあそこの噂はだれでも知ってますよ。ましてや、あっしはこの稼業ですから」
藤次は、刻み煙草の行商をなりわいとしているが、その実、深川一帯を縄張りとする十手持ち、紙屋の佐吉親分の下っ引きでもある。
「あっしは、もちろん娘を止めたんですよ、はい。だけどあいつあ、こっちの話なんざ聞きやしない」
伊助は、いちど宙を見すえ、静かにあごを引いてから腕組みして目をつむった。
どこかで目白のさえずるこえが聞こえる。
「お玉ちゃんは、いい娘なんだがねえ……、頭もいいし、器量もいい。ただ、ちょいと頑固なのがなあ……」
伊助のため息は、煙草くさかった。
「あれは、嬶ぁの血なんです……。頑固なとこは、本当そっくりで」
「そんな事ぁどうでもいい。それより何だって吉屋なんだ? ほかにも奉公の口は、いくらでもあっただろうに」
「はあ……」
「いってえ誰の世話だい?」
「話を持ってきたのは鴻野屋のおかみさんてひとで、まあ早いはなしが、うちの嬶ぁの客なんですがね。ちょうど奉公人がひとりいなくなったてんで、とり急ぎ代わりを探してるらしくて……」
藤次の妻おりくは、廻り髪結だ。情報収集にはうってつけの仕事で、事件の手掛かりから、娘の奉公の口まで都合良く舞い込んでくる。
「いなくなったってえのは、あれだな。年季があけて里に帰ったてなわけじゃあるめえ」
「へえ……」
「やはり、死んじまったんだな?」
「まあ……、それは後で知ったんですがね」
「今年に入って吉屋の奉公人が死んだのは、もう三人目だ。しかも、みな若い女中ばかりときていやがる……。お玉ちゃんには、そのへんの事ちゃんと話してあるんだろうね?」
「そりゃもちろんですよ。…………でもね、吉屋って聞いたとたんお玉のやつ、ぽうっと頬を染めちまいましてね。あとはもう何を言ってもうわの空で……」
「へえ……。そりゃまた妙な話じゃないか」
「でしょ? あっしは、なぁんにも知らなかった。でも嬶ぁは、知ってやがったんで」
「何をだ?」
「これですよ!」
藤次は、節くれだった小指を立ててみせた。
「お玉ちゃんの?」
「へい。あっしは、腰抜かすほどびっくりしました」
「はっはっは! 何もそんなに驚くこたあねえや。もう年頃なんだし、あれだけの器量良しだ。男どもが放っちゃおくめえよ」
藤次はむっとして、
「そりゃあ、お他人様はそれでもいいでしょうけどね……」
と拗ねたが、伊助がすぐにやり返した。
「おいおい、お他人様とは何だね。私は、あの子を孫のように可愛がってきたつもりですよ」
「へへ……、かっちけねぇこって」
「まあ、そんな事はどうでもいいが……。問題は、お玉ちゃんの惚れたその吉屋の奉公人ってやつだな」
「平次っていいましてね。お玉より二つ上の、牛みてえにのっそりとした野郎で……。あっしが芳町にいたころ、斜向かいに孝兵衛ってえ畳刺しの職人がいて、早ぇ話そこのせがれなんですが、お玉は小せえころからこの平次によくなつきましてねえ……。よく一緒に遊んでましたが、こっちに越して来てからはそれっきりだと思ってたんですよ……」
「かくれて逢引してたってわけだ。知らぬは親父ばかり成り……ってやつだな」
「へへへ……、そういうこって」
やっと伊助の機嫌が良くなったので、藤次は少しほっとした。
「ま、お玉ちゃんのいい人が、奉公してるってえなら、頭から反対もできねえな」
「でしょ? 親分にも同じ事を言われました」
「とにかくお前ぃは、しばらく気をつけて見てやるこった」
「へい、あっしもそのつもりです」
「私のほうでも、誰かに調べさせよう」
「ありがてえ! 大家さんが助けてくださるんなら百人力だ」
「まったく調子のいいやつだね、お前ぃさんは」
げんこつ飴の売声とそれを囃し立てる子供たちのざわめきが、長屋のわきをゆっくり通り過ぎると、どこか遠くのほうで雷が鳴った。
「いやだねえ。ひと雨きそうだよ……」
次回へ……。
[閉伊琢司からのコメント]
げんこつ飴の売声は、「あ、来たわいなー来たわいなー、げんこつ飴がまた来たよー。あ、じーちゃんばーちゃん孫連れて、早く来ないと無くなるよっ」ってな感じです……。