ドライブ
それはもう、吹く風が肌に突き刺さり冬に差し掛かろうとしている、とうに深夜を過ぎている秋のとある夜だった。
人はおろか車の通りすら無くなった、住宅街より少し離れた暗い道。
一台の乗用車が、淡い光を発し転々と立っている街灯にときおり照らされながら、小気味よいエンジン音を立てて走っていく。
ハンドルを握りながら男はその重い沈黙に耐えかねていた。
街灯の光が一瞬一瞬車内に入り込む度、助手席に座る女の透き通るように青白い手が鮮明に映し出される。
男はそれを目の端で落ち着き無くチラリと見ながら、女に向かってやっと重い口を開いた。
「何で急に別れるなんて言い出すんだよ」男はそれが、今に口から出せる精一杯の言葉だった。
男は思わず、女のその膝の上に行儀良く置かれたすらりと長く白い手に触れようと、ゆっくり手を伸ばした。
その時、ガタンと車がゆれ、それと同時に女の手は男の手から離れた。
後方のトランク内の物もゴトンと転がるような音を立てるほど、思ったよりも激しく揺れた。
行き先を無くした寂しげな手をさっとハンドルに戻し、男はゆっくりと車を路肩の電灯前に停めた。
車内に差し込む電灯の淡い光が、女の鮮やかなはずの赤い服を不気味にどす黒く照らす。
一呼吸おいてから、男は言う。
「俺たち、楽しく仲良くやってきたじゃん」
男はハンドルから手を離し、どこに置くともなく脱力して両足の脇にだらりと垂らし、頭を前にうつむきながら語り出した。
「初めてお前から告白された時は、天にも昇る気持ちだったよ」
男は当時を思い出し、思わず顔がほころぶ。
「俺もお前の事が前から好きで、まさか、こんなステキな娘と俺が両想いだったなんて。ってさ。
この娘の為なら何でもしてやろうって。
覚えてるか?このペアリング」男は自らの左手の薬指にはめられた、
金色にほのかに光る指輪を悲しげに見つめる。
女の指にはもう既に指輪ははめられていない。
女は口を開くこともなく、車内の重く冷たい沈黙は続く。
が、それに構うことなく、指輪を見つめながら男は話を続ける。
「このお前の欲しがってた指輪。
お前に会う暇すら惜しんでバイトで稼いでたから長い間会えなかったけどさ。
やっと二人で買いに行ったろ。
お前に直前まで隠してたから、あの時のお前の驚いて喜んでる笑顔、
今でも忘れないよ。
その後公園のベンチで、キスしてさ…
あぁ、このときが続くならどれだけ幸せだろうって」男は少し落ち着こうと静かにため息をつく。
「飲み物買ってくる」
さっとドアを開け車外に出ると、男はその気温の低さに身震いする。
辺りは闇と静寂に包まれ、こちらに降り注ぐ街灯の光はまるでスポットライトに照らされているようで、自分たち以外は何も無い、無の世界のような不気味な感覚を覚える。
無意識にそんな辺りを見回して、街灯横にある自販機でホットの缶飲料を買い、白い息を吐きながら駆け足で車内に戻る。
女の目の前にあるホルダーに買ってきた缶のココアをそっと置く。
缶コーヒーをちびちびすすりながら、女の手を着けられていない缶のココアを横目で見つつ、男はホルダーに入れ、車を静かに発進させた。
ホルダーに立てられた二つの缶は、車の振動に揺られカタカタと時折音を立てる。
コーヒーを大分飲み干したところで、男はまた口を開く。
「お前、付き合いたての頃、俺がコーヒー買ってきたら飲めないって言って、代わりにココア飲んでたよな。
それが何か可愛くてさ、グッときたんだよ。」
女は相変わらず黙ったまま、まだココアに手も着けない。
それをよそに、男の顔はまたほころぶが、すぐに険しい顔になる。
「それから少しして、お前、俺のクラスメートから告られたろ。
今思えばあれから俺たちの歯車は狂い始めたのかな」
沈黙にも慣れ、勢いのついてきた男は続ける。
「それから何回かお前は他の奴らにも告られてたよな。
その度に断ってたみたいだけど、俺は不安だった。
お前をこのまま俺の所につなぎ止めておけるか。
俺は必死になったよ。
お前のために何でもしてきたじゃないか」
男のハンドルを握る手に力が入る。
「高校を卒業してからも、お前に何でもやった。
手料理に掃除、洗濯。
お前が部屋にいない時には留守番だってしてやってた。
花にブランドものの服やバッグ、宝石、現金すらも。」
手に汗がにじみ、少し滑るが、より一層ハンドルを握る手に力が入る。
「こんなに尽くしてきた俺に、お前は…
ストーカーだと?」
怒りに満ちた男の顔は、前を見ながらもどこか焦点が定まっていない。
「何故俺を理解してくれなかった。
身を削りながらこんなにお前に尽くしたのに。
今日の朝、お前と別れるようにとバカなお前の友達が来たよ。
俺たちの愛の前に何も邪魔の入る余地はない。
俺の愛は永遠だと。
お前の友達はなかなか俺の言うことを聞いてくれなくてね。
言う事を聞かせるには時間が掛かって骨が折れたけど、今は大人しく理解してくれてるよ」
ふと男は、後方に目をやる。
車が段差によりガタッと揺れると、車の後方のトランクから、ゴロンと何かが転がりぶつかる不気味な音がする。
「お前は、訳の分からない奴まで寄越して、俺と別れたがった。
俺に知らせもせずに住所まで変えて。
俺のこれまでの愛を理解して貰えなくて悲しかったよ。」
男はハンドルから手を離し、女のきゃしゃな手をぎゅっと力強く握る。
男は女の顔を見つめ言う。
「でも、これからはずっと一緒だ」
男は女を見つめ、異様に白い歯を見せながら、不気味に笑う。
女の真っ赤な服が、対向車とすれ違うとライトによって鮮やかに映し出される。
女は瞬き一つせず、焦点の合わない目で男の方に顔を向け、車の振動に合わせ、首の据わらない赤子のように首を揺らす。
「永遠に…」
喉笛を鋭利なもので一直線にすっぱりと切られ、大きく広がった傷口から流れ出た大量の鮮血が、元は純白だったと思われる女の服を真っ赤に染め上げていた。
首もとの血は乾ききり、一部どす黒く変色している。
男は片手で女の肩をなで回しながらも、しっかりと前を見据え、無の世界へとどこまでもどこまでも車を進ませていくのだった......
夜は深まり、世界は二人だけの物になる。
夜が明けることはいつ来るだろうか。
それは、彼らだけしか知らない。
どれだけ時間がたったろう。
もはや時間の概念すら無くなった闇の奥から男の優しくささやく声がした。
「愛しているよ」




