第2話 生命神ラロッカ
「ブフフッ…! ま、迷い子よ、少し落ち着いて下さい」
「痛い痛い痛い痛い痛いッ! あんたにとっちゃ他人事だろうけどよ! こちとらふくらはぎザシュッてなっとんじゃい! 落ち着いてられるか!」
「も、もう傷は癒えていますブフッ…。傷の無いふくらはぎを擦って何をしているのですかブフフーッ!」
「傷が癒えてるってそんな訳な……い…?」
言葉を受け視線を向けると服には血が滲んでいるものの、『木の葉落とし』により貫かれたはずのふくらはぎには傷一つ無く、痛みも感じられなかった。
「痛みに混乱して気付いてなかったみたいですが、傷を負ってからすぐに治癒したので、出血もあまりなかったはずです。迷い子よ、落ち着いて下さい。あと、『木の葉落とし』ってプフッ、な、なんですかブフフーッ!」
「おう、傷を治してくれたことには感謝するわ。ついでにさっきのことは忘れてくれないか? 俺自身混乱してどうかしてたんだ。今は割りと冷静だからよ、シンプルに自分の首を切り落とそうか悩んでるんだ」
「『木の葉落とし』で切り落とすんですか?! ダメですよ迷い子! そんなことしたら、途中までしか言えない…! 『木の葉落…』で終わってしまいます…! ブフッ…!」
「あっ分かったぜ。あんたヴィスタと同じ穴蔵のやつだわ。全力でバカにしてきてるけどよ、俺の精神はとっくの昔に崩落してんだぜ? というか、あんた誰だ? 急に声掛けられたかと思ったら黒い靄だしよぉ、俺じゃなくても斬り掛かると思うぜ?」
このままではいつまでも羞恥の渦にがんじがらめにされると思ったマルクスは、自分の首を切り落とす前に話題を変えた。しかし眼前の黒い靄が何なのか、だいたい検討はついていた。
「結果斬り掛かれてなかったですけどねブフッ! あっ、刃を自らの首に突き立てないで下さい! 出るのか?! 出るんですか?! 木の葉落とし?!」
「よし、いっそ殺してくれよ。こちとらここまでの生き恥は初めてだ。あんたの手で楽にしてくれ」
「ブフフフフーッ! あ、諦めないで下さブフッ! 生きてさえいれば新たな必殺技の開発もブフフーッ! ホント面白い!」
「最後の本音が力強ぇなコラ。あ~、あんたもしかしなくても、生命神ラロッカ様か?」
次々と繰り出されるおちょくり剣舞の応酬に、マルクスは半ば無理矢理本題へ入った。彼の目はとうの昔に死んでおり、枯渇から再生する気配はない。
「どうしたんですか、目が怖いです! そこまで死んだ目初めて見ました! あっ、私はラロッカです。よろです」
「この目の理由に本気で思い当たらないんなら、俺はあんたに腕の良い医者を紹介するぜ。まぁとにかく、あんたがラロッカ様なんだな? 俺は冒険者のマルクス。友達に頼まれてあんたに頼み事をーー」
「ぼ、ぼ、冒険者なんですか?! そんなに清いのに?! 私あなた程澄んだ魂は初めて見ましたよ! 生娘! 生娘なんですか?!」
「話を聞いてくれ。見ての通りただのおっさんだ。俺が生娘に見えるなら、尚の事あんたに医者を紹介せざるを得ねぇ。それはさておきな、俺の友達のヴィスタって奴がーー」
「澄みすぎ~っ! 魂清過ぎ~っ! あなた冒険者なんて辞めた方がいいですよ! そうだ! 使徒! 私の使徒になってくだーー」
「気合一閃! 木の葉落としッ!! ぐぎゃぁあっ!」
「ボバフッッッ! またきゅ、急に何をブフーッ! 今度は踝を…! も、もうダメです…! アハハハハハハハハッ!」
全く話が進まないことで苛立ちが爆発したマルクスが、再び木の葉落としを繰り出したが、今度は右足の踝を斬り付けてしまう痛恨のミス。黒い靄は堪えきれないとばかりに、今度は遠慮なく笑声を上げた。
先程と同じく、踝の傷が瞬時に治癒されていたことにマルクスが気付いたのは、長く響いた笑い声が収まった後だった。
「はぁ…はぁ…はぁ…。不老不死である私でも死にかけることがあるんですね…。マルクスさん、あなたもう少しで神殺しになるところでしたよ」
「そっか、望まない偉業ってのはちっとも嬉しくないもんなんだな。なぁラロッカ様よぉ、そろそろ本題に入らせてくれや。寝たらもう目覚めなさそうなくらいには疲れちまったんだわ」
「あっ、はい。と言ってもマルクスさんの望みは存じています。友人であるヴィスタさんの妹、ヴィルマさんの病気の治癒ですよね? それでは供え物を渡して頂けますか?」
マルクスは言われた通りに、ヴィスタから預かってきた小袋をラロッカ(と名乗る黒い靄)へと手渡した。ラロッカは細かく震動した後、淡い光を放つ。やがて発光が収まると、黒い靄は徐々に輪郭をはっきりさせ、やがて現れたのは美しい黒髪を腰辺りまで伸ばした、年若い女性だった。
愁いを帯びた儚げな瞳に、マルクスは知らず引き寄せられる。
「改めて。初めましてマルクスさん。私が生命神ラロッカです。あなたの願い、しかと聞き届けました。ヴィルマさんは既に完治し、あなたの友人であるヴィスタさんと喜びを分かち合っていますよ」
「お、おぉ、ありがとよラロッカ様。あんなんでも俺の数少ない友達だからな、妹が助かって良かったぜ。にしても流石は神様だな。人じゃ打つ手無しだった病をこうも簡単に治せるなんてよぉ」
ラロッカは柔らかく微笑み、一つ小さく頷く。
「神という存在は得てしてそういうものです。でも私も驚いたんですよ? 今まで何度か人々の願いを聞き届けてきましたが、まず聖域に辿り着く事か大変に困難なのです。どんなに早くとも二日、三日は森をさまようものなのですが…。マルクスさんは森に入って5分程で聖域に足を踏み入れていました。正直私もかなり戸惑いました。どれだけ澄んだ魂を持っていればそんなことが起こるのかと」
「ん? ってことは、ラロッカ様の言う魂の澄み方? みたいので聖域に辿り着ける時間やら状況やらが変わるってことか?」
更に微笑みを深くしたラロッカが、嬉しそうに、噛み締める様にマルクスを見つめる。
「その通りです。マルクスさん、あなたはこの穢れ易い世界に身を置くにも関わらず、高潔で神聖な魂をお持ちです。この世界の誕生よりも長い時を過ごしてきた私ですが、あなた程美しく貴い魂には初めて触れました。この世界の美しさは、あなたが担っていると言っても過言ではありません」
「いや、過言にも程があるわ。俺なんかより偉い奴も綺麗な奴も幾らでもいるわ。寧ろ俺は底辺冒険者だからよ、卑屈になりそうな気持ちをなんとか誤魔化して生きてる小せぇ男なんだよ」
「そんなことありません! いいですかマルクスさん! いくら外見を取り繕おうと、幾ら見栄え良く調えようと、魂の純度、美しさに嘘は吐けません! 例え周りがなんと言おうと、例えあなたが卑屈になろうと、あなたの魂は間違いなく清く、正しいのです! 私の事は信じなくても構いませんが、自分の事は信じて下さい。それがあなたの出来る、いえ、あなたにしか出来ない美しさの証明となるのです」
握り拳を胸の前に作り、荒ぶりさえ感じさせる声音でもって訴えるラロッカの姿に、マルクスは気負される。
だが20年近い冒険者生活の中で、初めて他人から純粋な賛辞(というよりもっと熱い何か)を送られ、照れ臭くありながらも嬉しさを隠せない。気を抜くと涙が溢れそうなのを必死で隠しながら、マルクスは無言でラロッカに頭を下げた。ラロッカは慈愛の表情でマルクスを見やる。
「さぁ自信を持って下さい。あなたが冒険者を夢見、村を出た時の気持ちを思い出すのです。今まで不遇でしたね。悔しかったですよね。けれどもう大丈夫です。あなたはもう迷い子ではありません。マルクスさん、私の使徒となり、あなたの世界を広げませんか? あなたの前には無限の可能性があります。今まで眺めるだけで諦めていた地平の彼方へ旅立つ時が来たのです。さぁ、我が使徒マルクスよ。私の手を取り、あなたの今を、そして未来を変えるのです!」
ラロッカはマルクスを包み込む様に抱擁した。堪えきれず落涙していたマルクスは、その温かさに涙を止め顔を上げる。そして愛しい我が子を見るような眼差しを向けるラロッカを見つめ返し、力強く返答した。
「あっ、そういうの大丈夫です」