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前編

 エスティリアが彼に初めて会ったのは、十歳の時だった。


 雪が溶け、木々の枝に若芽が芽吹いて、生命が動き始める季節。侯爵である父に呼ばれて応接間に行くと、客が来ていたのだ。

 その客は、エスティリアが入っていくとサッと立ち上がり、優雅に礼をした。

「初めまして。ジルディオ・レムリスと申します」

 細身の身体はしなやかで背が高く、首筋にかかる長さの淡い金髪はまるで春の陽光、そして緑の目はその陽光を透かした若葉のようにきらめいている。声までもが優しく柔らかく、澄んでいた。

 エスティリアは思わずボーッと見とれてしまい、父の咳払いでようやく我に返って、あわてて挨拶した。

「は、初めまして! エスティリア・ヴィリカです!」


 父が厳かに言う。

「よく聞きなさい。お前は十六歳になったら、このジルディオ殿と結婚するのだ。それまでの間も、お前はジルディオ殿の婚約者として、恥ずかしくないように過ごしなさい」

 ジルディオと名乗った美しい男性は、にっこりと微笑んだ。


「けっこん……?」

 一瞬、意味がわからなかったエスティリアだったが、目の前の男性と自分が、父親と母親のように夫婦になるのだーーと理解したとたん、ふわあっと身体が浮き上がったような気がした。

(こ、こんな、王子様みたいな人と私が、結婚――!?)

 視界がキラキラとまばゆく光り、その中央でジルディオが微笑んでいる。毎日こんなに光っている夫を見ていたら、他の物が見えにくくなってしまうのではないだろうか……そんな余計な心配をしてしまう。


「お庭を見せていただいてもいいですか?」

 ジルディオはそう言って、エスティリアの手を取った。エスティリアはどうにか地に足を着けて、しかし夢見心地のまま庭に出る。

「エスティリアは、本がお好きだそうですね。ダンスもとてもお上手だとか。きっと素晴らしい貴婦人におなりでしょう」

 まだ子どもの自分に丁寧に接してくれるジルディオは、十七歳。まさに理想の王子様だった。しかし、彼女は半泣きになって言った。  

「わ、私、ジルディオ様がどんな方か、知らないのです」

 彼はエスティリアのことを知っているようなのに、エスティリアは彼のことを知らなかったのだ。

「そうですよね、急な話で申し訳ありません。僕はポルート伯爵領を継ぐものです。父と共に領地を巡ったり、政治や経済のことを学んだりしている途中ですが。そうだ、もう少し暖かくなったら、一度我が家に遊びに来ませんか?」

 優しく誘ってくれるジルディオに、エスティリアはすぐに答えた。

「はいっ、行きたいです!」

「楽しみにしています」

 ジルディオは片膝を付き、エスティリアの手の甲にキスをする。

 ここでとうとうエスティリアは目を回し、あわてたジルディオに抱っこされて屋敷に戻ったのだった。


 ――後から彼女が知った話では、この婚約話はエスティリアの祖父が亡くなる直前、先方に持ちかけたらしい。

 孫娘を溺愛していた祖父は、自分が大きな病にかかっていると知り、死ぬ前に素晴らしい婚約者を見つけて安心したいと情報を集めた。高位の貴族たちは、結婚話を匂わされると、あれこれと話を引き延ばして持参金など経済的な条件を有利に運ぼうとしたが、エスティリアの祖父はそれを待てなかった。次々と候補を変え、候補者の年齢を広げ、ジルディオに話が行った頃に、ジルディオが継ぐ予定のポルート伯爵領で希少な鉱石の鉱脈が見つかった。

 この国の貴族たちは「縁」を大事にする。これは幸運の兆しに違いないと、ポルートの地を預かるレムリス家は婚約話に乗り気になった。ヴィリカ家、つまりエスティリアの家としても、先方が裕福なら無理な持参金を要求されずに済むので、もちろんありがたい。

 そうして二人は引き合わされ、ジルディオはエスティリアを気に入り、エスティリアはジルディオに一目惚れし、話は何の障害もなくあっという間にまとまった。


 こうして、若い二人のつきあいが始まった。

 ジルディオはエスティリアを丁重にもてなし、二人で領地を巡ったり、町に出かけたりを楽しんだ。どこに出かけてもだいたい、エスティリアはジルディオのことしか見ていなかったのだが。

「お父様っ、ジルディオ様は乗馬もお上手だし、楽器もお出来になるし、お話も面白くて本当に素敵なのよ! あんな方、私の周りに他にいらっしゃるかしら? いいえ、いないわ!」

 うっとりとのろける娘に、父親は

「君のお父様も……乗馬は得意だし楽器もできるんだけどな……?」

と落ち込むのだった。


 その翌年、隣国との戦争が始まった。

 ジルディオは協力国に赴いての任務につくことになり、エスティリアは両親と共にレムリス家を訪れて彼の出発を見送った。


 この戦争は長期戦の様相を見せ、一年、二年と月日が経った。婚約だ結婚だという話は、どこの家でも後回しになった。

 が、エスティリアはすでにジルディオと婚約中の身。たまの休暇で実家に戻る軍人も多い中、なぜかジルディオはちっとも帰ってこなかったが、時折届くジルディオからの手紙に心をときめかせ、愛情たっぷりの返事を書いた。

 いずれ嫁すことになるポルート伯爵領を頻繁に訪問し、領地について勉強したことやレムリス家の人々と交流したことを書きつづると、ジルディオからは嬉しそうな文面の返事が届く。手紙の最後はいつも、「成長したエスティリアに会う日が待ち遠しいです」と締められていた。


 やがて、彼からの手紙が届かなくなった。


 レムリス家の人々やエスティリアたちは、その時になってようやく真実を知らされた。ジルディオは本国との連携のために協力国にいるのではなく、実は諜報員として敵国に潜入しており、連絡が取れなくなっているのだということを。

 ジルディオは死んだらしい、いや敵軍の捕虜になったらしい、そうではなく寝返ったのだ……と、情報は錯綜した。


 すらりとして優しげなジルディオが、苦境を生き延びて戻ってこられるのか……と、親族は心痛の日々を送った。エスティリアも心配でならなかったが、

「必ずお会いできるわ。生きてお戻りになったとき、ジルディオ様がガッカリなさらないようにしなくちゃ!」

と自分に言い聞かせ、自分磨きに励んだ。


 やがて、戦争は辛くも勝利という形で、集結した。

 しかし、ジルディオの消息はようとして知れない。


 二人が会わなくなってから、五年の月日が流れた。 


「ジルディオが戻ってくる」

 その連絡を受けて、十六歳になったエスティリアは両親と共に、すぐにポルート伯爵領のレムリス家に駆けつけた。

「ねえ、この若草色のドレス、似合わなくない? やっぱりバラ色のドレスの方がよかったかしら」

「あなたがジルディオ様の瞳の色に合わせると言ったのでしょう? それに、バラ色のはもう小さくて着られないと何度も」

 付き添いの母親は苦笑する。戦争が長引いてから作ったドレスはそれ以前より地味なので、昔作ったドレスが着られないかと、エスティリアは無茶を言ったのだ。

「あなた、五年前よりどれだけ大きくなったと思っているの? 大丈夫よ、このドレスもとても似合うわ。ジルディオ様もきっとお喜びになります」

「本当にそう思う? ああ、もう少し背が伸びていたら、ジルディオ様の隣に立っても見栄えがするのにー」 

 エスティリアは、二人の結婚式を思い浮かべた。想像の中の二人は、白く華やかな衣装を着て並んで立っている。

(ああっジルディオ様、白がなんてお似合いなんでしょう! 想像だけでお腹いっぱい三食分……じゃなかった、胸がいっぱいになりそう。早くお会いして、たくさんお話したいわ!)

 彼女はやきもきしながら、ジルディオの到着を待った。


 やがて窓から、馬車がレムリス家の敷地に入ってくるのが見えた。

 出迎えのために家族が家の前に出て並び、その末尾にエスティリアも並ぶ。

(ようやく会えるんだわ、私の王子様! ああ、今すぐ教会に行って結婚式をしたい! あの馬車に私の方から乗っちゃおうかしら!?)

 飛び跳ねる心臓を胸の上から無理矢理手で押さえ込み、エスティリアは馬車の扉が開くのを見守った。


 ブーツが見えた。中の人物が、降り立つ。

「父上、母上。ただいま戻りました!」


「……………………」

 エスティリアの目が、点になった。

 美しく流れていたはずの淡い金髪は、短い刈り込みに。日に焼けた肌、鼻のあたりに斜めに走る傷。シャツが小さすぎたのか、胸元のボタンがひとつふたつ開けられ、盛り上がった胸筋が見える。なよやかに楽器を奏でていたはずの指は、豆の鞘のように節々がごつごつしていた。

「ジルディオ!」  

 お帰り、お帰りと家族が声をかけ、肩を叩き、手を握る。その男は嬉しそうに彼らに応え、そしてエスティリアに目を止めた。しゃがれた声が言葉を紡ぐ。

「ああ、エスティリアも来てくれたんだね……!」


(この、そこそこすらりとはしているけど筋肉筋肉したおっさんは、どちらさま?)

 絶句したまま、エスティリアはその人の顔を見つめた。

 二十三歳になった、ジルディオだった。澄んできらめく緑の瞳だけは、変わらない。ジルディオだということも、頭ではわかっている。

 しかし、彼の外見はあまりにも変わりすぎていた。


「ああ、ジルディオ……青春のさなかの戦争で、苦労のにじみ出る姿になってしまって」

 ジルディオの母が、彼を軽く抱きしめてから頬を撫でる。

「お前、そのしゃがれ声はどうしたの? 具合が悪いの?」

「いいえ母上、ゆっくりお話します。中に行きましょう」

 母親をエスコートするその優しい仕草は、かつてのジルディオそのものだ。しかし、どうしても外見が、エスティリアの記憶の中にいるキラキラ王子様と結びつかない。中身をそのままに、外見だけ着替えたかのようだ。

 エスティリアは呆然としながら、母親の後にふらふらと続いて屋敷に入った。


「一度は捕まってしまい、捕虜になったのです」

 瀟洒な応接間で華奢なティーカップを傾けながら、ムキムキジルディオはしゃがれた声で、しかし口調はあくまでも優しく語る。

「そして、奥地の収容所に連れて行かれました。僕はあの国にとっては大事な人質なので、痛めつけられることはありませんでしたが、他の捕虜たちと一緒に働きました。ごめんねエスティリア、君が褒めてくれた髪は、労働の邪魔になるのでそのときに切ってしまったんだよ」

 話を振られたエスティリアはビクッとして、どうにか無言でうなずく。

 ジルディオはしばし彼女の瞳を見つめたが、やがて続けた。

「でも、かの国がなかなか捕虜の交換に応じないので、しびれを切らして仲間たちと脱走したんです。生きてこの国に帰り着くために、商隊の護衛の仕事をやったり、見せ物の剣闘士になったり、何でもやりました。一時的に酒場でも働いていて、そこの客が柄が悪くて強い酒をさんざん飲まされて……すっかり喉が酒焼けしてしまって、こんな声に」

 はっはっはっ、と爽やかなはずのジルディオの笑い声は、ガッガッガッとまるでアヒルのように聞こえた。

 エスティリアの脳内で、アヒルが上を向いて鳴いている。

(……夢みたい……悪い意味で……)

 ただでさえ、この年頃の若者は成長とともに大きく変わる。ジルディオの場合は同時に環境も激変したため、まるで別人のようになるのも仕方のないことと言えた。


「本当に、苦労したんだな」

「この傷も肌も、あなたの勲章よ。よく頑張ったわね」

 親族が口々に褒め、やがて父伯爵が軽く手をたたく。

「さあ、食事にしよう! ジルディオにはしっかり食べてもらわねば」

 伯爵夫人も立ち上がる。

「すぐに準備させるわ。それまで、エスティリア、少しジルディオと二人で話していらっしゃい。二人とも、会うのをとても楽しみにしていたのでしょう?」

 それがいいそれがいいと、応接室から親族が出て行く。

「あ……お母様」

「そうさせていただきなさい、エスティリア」

 エスティリアの母は涙ぐみながら微笑み、出て行った。

 扉が閉まる。エスティリアは固まったまま、立ち尽くした。


「……エスティリア」

 しゃがれ声。

 びくっ、と振り向くと、ジルディオがソファから静かに立ち上がっていた。

 エスティリアも成長したが、ジルディオもさらに背が伸びたようだ。がっちりしたその人に見下ろされ、エスティリアはコクリと喉を鳴らした。

「あの……ええと……ご無事でのお帰り、何よりです」

「ありがとう。君からの手紙を、お守り代わりにずっと持っていたよ。ほら」

 上着の内ポケットから、端のすり切れた手紙の束を取り出してみせるジルディオ。エスティリアは意識して微笑みを作りながら、手紙の束に視線を留めるふりをして彼の顔を見ないようにした。

「想像していたよりずっと、綺麗になったね。何だか、目が離せないよ。

僕を、待っていてくれたんだよね」

 手紙をポケットに戻し、尋ねるジルディオ。

 エスティリアはうなずく。

(確かに、待っていたわ。ずっと。でも、私が待っていたのは……)

「エスティリア」

 ジルディオが一歩、近づいた。伸ばされる、ごつごつした手。かつてのように、優しく彼女の手を取ってその甲にキスをするために。

 反射的に、エスティリアは片手をもう片方の手で胸に抱き込むようにして、一歩下がってしまった。

「……エスティリア」

「あ」

 エスティリアは真っ青になって、両手を胸元で握りしめた。

「ご、ごめんなさい! 私」

「気にしないで!」

 早口に、ジルディオは言った。

「こんなに外見が変わってしまったんだ、戸惑うのは当たり前のことだよ。謝ること、ないからね」

「本当にごめんなさい! あの……驚いただけで!」

 言い訳しようとするエスティリアに、ジルディオは笑顔で両手を広げた。

「本当にいいんだよ。大丈夫。食堂まで、エスコートだけしたいんだけど、いいかな」

 ジルディオは一歩だけ近づいて、左の肘を差し出した。なるべくその肘を、自分から離してエスティリアの方に近づけるように。

 自分が彼と寄り添って食堂に行かないと、皆が心配する。そう悟ったエスティリアは、おそるおそる手を伸ばす。

(太い……)

 力仕事をしていたせいか、ジルディオは腕も太くなっているようだ。

「まるで、若葉の精霊のようだね」

 ドレス姿をジルディオが褒める。エスティリアははにかむふりをして、またうつむいた。

 食堂に行くまで、二人は黙って歩いた。


 食事が始まると、ジルディオは皆からの質問責めに合っていたが、エスティリアはほとんど黙っていた。夕食もあまり喉を通らず、口数が少ないことを母親に心配されて「胸が一杯で」と言い訳するのが精一杯だった。

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