八月三十一日
八月三十一日。
パリで行われた国際美術展は無事終了した。
時差を考えれば、もう日本は九月になっている頃だろうか?
およそ半月程の滞在で、この国の景色にもだいぶん慣れてきた。
個人的に、美術展の結果は可もなく不可もなく、と言った所だった。
特に何かの賞を戴けたわけでもなく。
有名な作家さんの目に留まったわけでもなく。
それでも、来年、また参加させてもらえることになったし。こちらの国の出版社で、一冊、文庫本の表紙デザインをしてみないかというお誘いも戴けた。
まだ駆け出しの文芸作家さんのモノらしいけど、これで僕も、世界で活躍している人間になったと……言えないこともないかもしれない。
「お疲れ様です、雨矢。だけど、本当によかったんですか? 最悪、一日くらい早く帰ることもできたかもしれないのに」
ホテルに帰る途中で、後ろから歩いて来た篝さんが隣りに並んで話し出す。
「でも、そうしたら、本の表紙の話は戴けなかったかもしれないんですし」
悔いはあるけど。それでも、
「……よかったんですよ」
と僕は言う。
なんだか空気が静かになってしまった。
この明るいパリの街で、この場所が一番静かかもしれない。通りを流れて行く自動車のヘッドライトが、ゆらゆらと安定しない影を生む。周りのヒト達が、皆別の言語で話しているせいか。あまりヒト目を気にしないで会話できそうだ。
「僕はさ、あいつにすごく感謝してるんですよ」
「感謝、ですか」
「はい。もし彼女に会ってなかったら……今頃僕は、こうして絵を描いて生活することなんてできていなかった」
ゆっくりと、石の地面をコツコツならす。
「だからずっと会いたかったんです。会って伝えたかったんです」
美術展の会場から、少しずつ離れて行く。
「好きです、とかじゃなくて。ありがとうって、一言だけでいいから言いたくて……ずっと言いたかったんです。なんと言うか、きっとそれだけで……僕も、彼女も、すごく幸せな気持ちになれた」
「じゃあ、どうして行かなかったんです? 相手の方も、雨矢を待っていたんじゃないですか」
そうだ、多分、ずっと待っていてくれたのだろう。毎日通った、誰も来ない、あの山の社の前で。
僕達が作った社の前で。
僕達が出会った社の前で。
でも。
「だからですよ。僕は本気で彼女に感謝しているからこそ。今日の美術展をふいにするべきじゃないと、思ったんです」
珍しく、篝さんが首を傾げる。
「分からないですね……それならなおさら会いに行くべきだったのでは?」
僕も始めはそうしようと思った。
「でもそうじゃないんです」
実際にどちらが正解だったのかなんてよく分からないけれど。
「彼女が……彼女に会って繋がった僕の夢を、彼女の為に放り出していいはずがない……んじゃないかなって。きっと、キミの為に夢を諦めたなんて言われたら、悲し過ぎると思ったから」
少しあついな。
「だから、彼女との出会いにに報いるためにも、僕は彼女に会わないことを選んだんです」
たん、たん、たん、たん、と。
何歩か石畳を踏み鳴らして。
少しにやけながら、篝さんは呟いた。
「……恋してますねぇ」